1-3 アンドロイドと人魚姫
雨の気配はないものの、空はさらに暗い。妙な人に捕まってどっと疲れ、普段よりも重い足でスクランブル交差点に差し掛かる。
コミュニケーションに特化して開発されたアンドロイドは、限りなく人間に近づけられた認知機能のために運動能力や平衡感覚が犠牲になっている。しばしば「老人のよう」といわれる足取りのアヤトには、スクランブル交差点の通行人は殺人的な速さで歩いているように見えた。目的地に向かう電車に乗るにはここを通過するしかないのだが、過去に人にぶつかって転倒したことがある。
転倒といえばタカシに安否を訊き忘れている、と難所にしては珍しく上の空で渡り始めた矢先、後ろから何者かに文字通り足を取られた。
危ういところで踏み堪えるが、踏ん張った膝のあたりに何か起きたような感触を覚える。振り向くと、足元に長いもつれ髪の女が蹲り、アヤトに取り縋っていた。
「助けて」
息も絶え絶えに女が言った。
「私、人魚なんです……海から上がってきたばかりで、この空気……死にそう」
ええー、と、気の抜けた声がアヤトの口から漏れた。先刻のイサクに続いて、なんだ今日は、厄日か。
「いやそう言われても、俺アンドロイドなんで――」
他をあたってくれと言おうとしたその時、顔を上げた人魚にきょとんと見つめられた。
「アンドロイド?」
長い睫に縁どられた瞳は水の深みのように真っ青に澄んでいた。
「ジーザス」
幸か不幸か魅入られて、アヤトはその人魚の手を取り応えていた。
「近くに公園がありますけど」
「昨日の今日でいきなり都心に出てきて一人歩きはさすがに無茶でしょう……」
木陰のベンチで休むうちに人魚は生気を取り戻した。平日の上この天気であるので、やや大きな池を緑が囲む公園は閑散としている。
「ごめんなさい。でも、私にはあまり時間がないの」
落ち込んだ声で人魚が言った。ゆらゆらと波打つ赤い髪は背中にかかり、滑らかな肌は白く透き通っている。踝丈のロングドレスはいかにも人魚らしい色合いで、季節外れのサンダルの足は青白かった。
既に陸に適応した友人を頼って昨夜上陸したばかりだが、友人は仕事に出てしまい、自分も時間を無駄にできないので仕事を探しにハローワークに向かう途中だった、というのが彼女の説明だった。
「生活のこともあるし、次の満月までに居場所を見つけないと、私……」
彼女は言い淀み、そのまま黙ってしまった。アヤトもまた沈黙する。ビザ、という言葉が頭をよぎるが、知識が曖昧なので訊くのを躊躇い、ハローワークって人魚も利用できるんだろうかなどと素朴な疑問を抱くうちに二分、三分と時が過ぎていった。
「居場所を見つけるって、働くことなんですかね」
土の地面をつつきまわるハトを眺めるうちに、そんな言葉が零れた。池の対岸には小型犬を連れた人影が見える。
「誰かに必要とされるって、そういうことじゃないかしら」
ややあって、彼女が言った。
「ずっとここにいてほしいと心から望んでもらうためには、まず人と出会わなくてはならないし、その人の役に立って、気に入ってもらわなければならないでしょう。そのためには、仕事をするのが一番機会に恵まれるんじゃないかしら」
「そういうことなんですかね、ここにいてほしいと望まれるって」
「違う?」
アヤトの頭には先ほどのイサクの話があった。働くことと必要とされることと居場所を得ることが同じであるならアヤトには価値がないことになろうし、ラボロイドたちは搾取されているなどと感じていないはずだ。
「でもやっぱり、自分の故郷ではない、よその世界で受け入れられようと思うなら、誠意を尽くして働くしかないんじゃないかしら」
力を込めた人魚の声に、アヤトは頭を掻いた。
「とりあえず、今日はもう帰って休んだらどうですか。あまり力んでも、急いだからどうなるってことでもないでしょうし」
「切羽詰まっているときに、力まないのは難しいわ」
彼女は急に消え入るような声になった。
「人魚が陸に上がったらこんなに具合が悪くなるなんて、思ってもみなかったんですもの……私、やっていけるのかしら」
ちょうどジョグランナーが二人の前を過ぎて行った。その虹色に光るサングラスの奥から見られたような気がしたからだろうか。ほんの事故のように、アヤトは心にもないことを言ってしまった。
「人魚だってことは公言しない方がいいかもしれないですね」
それは自分でも出所のわからない発想だった。人魚はショックを受けたように顔を引き攣らせ、「どうして」と問う。取り下げたいが、本心ではないと言ってみたところで言ってしまったことに変わりはない。
「うまく言えないけど、俺も人間じゃないんで、似たようなものとしての勘ですかね。言うと色々と面倒になるんじゃないですか。言わなければわからないものなら、むやみに言わない方がいいと思う」
言えば言うほどまずいと思いながら言葉を繋ぐうちに、今朝のニュースが思い起こされた。しばらくはセンセーショナルな事件として騒がれるだろう。なにしろ元から、人魚の人間界への進出はアンドロイドの普及と同じかそれ以上に歓迎されていない。
「でも、言わないで人間のふりをするのは嘘をつくようなことじゃないかしら。大きな隠し事をしながら居場所なんて見つかるかしら」
思いがけず淡々とした調子で人魚が言った。まじめくさってとんちんかんなことを言う人だと思って、アヤトもまた余計なことを言う。
「そこは、お姉さんがどうしたいかじゃないですか。曲げても居場所を見つけるのか、見つからなければ国に帰ればいいってことなのか」
「帰る国はないの。二度と海には帰れないの」
わかっているのだという風に目に涙を浮かべて、彼女は俯いた。
「でも、私は人魚なのよ。本当の名をなくしても、私が人魚であることは変わらないの」
「お姉さんは人間になろうとしてるんじゃないんですか?」
はがゆいものを感じてそう口走った。大した意味はなかった。
「私、人間になろうとしているの?」
そう言われて初めて、何か間違いを犯したような不安が胸を掠めた。吸い込まれそうな海の瞳が、他人に求めるべきではない答えを待って見つめていた。
「いや、――もう、いいです。俺が変なこと言ったから。謝ります」
逃げるべし。「頑張ってください」と立ち上がるアヤトの手を、しかし人魚は捕まえる。
「待って、教えてほしいの。どこから何が違ったの?」
「あの、今度にしましょう。今日はもう、やめましょう? ね、こうしていても埒が明かないですよ」
どうもこの人と話すと調子が狂う。人魚は皆こうなのだろうか。
正直をいえばもう話したくなどなかったのだが、そうしなければこのやりとりを終えられない気がしてアヤトは連絡先を渡した。
人魚は素直に受け取り、自分をマナと名乗った。