序章-簪
時計は太陽の光と共に11時を指した。
ふわりと跳ねるブロンドを適当にかきながら男は起き上がる。名も知らぬ親から譲り受けた魔力と、失われない記憶力だけが、彼をここまで生かしていた。この二つを持ち合わせた彼は研究者として様々な功績を成した。だが、当の本人はまるでそれが他人事であるかのように青い瞳から落ちる二つの水滴を拭う。
「おはようございますご主人様。本日はあなた様の2500回目の誕生日です。心よりお祝い申し上げます。」
こちらに飛んできた青い炎が楽しそうにそう告げる。
「おはようブルー。ありがとう」
彼はベッドから起き上がり、形だけの返事をした。長命種の魔法使いであり、学者である男―レイ・アンフィニ。魔法とは自然の命を前借りする行為であり、彼は、自身の寿命を代償にそれを使う。
彼は生誕日の習慣として古びた棚の奥からガタガタと震えるジュエリーケースを取り出した。ソレは忌々しい雰囲気を醸しながらも、この世のものとは思えないほどに輝く。子守唄のような呪文を唱えるとキシキシと耳障りな音を響かせながら箱が開いた。中には不死鳥を象った一本の簪が凛と眠っている。
―それに触れた瞬間、僕はまた泣いていた。
涙が簪に落ち、冷たい金属の感触が指先に残る。それだけが、今の現実だった。彼は簪を握りしめたまま、動けずに佇む。
(なぜ寿命を代償としているのか。)
九百年前、彼は禁忌を破った。
人間の女性を愛してしまったのだ。
毎日が幸せだった。彼女が生きて、そこに存在してくれるだけでよかった。それ以上を望む理由など、彼にはなく、その少女こそが世界であった。だが、その世界というものは残酷で、人間の寿命は長くても百年ほどしかない。もちろん彼女も例外ではなかった。
一方で彼は、万年を生きる魔法使い。彼女と同じ時間を生きることは、最初から許されていなかった。
(だから彼は、彼女が消えない世界を求めた。求めてしまった。)
万年を生きる魔法使いである彼にとって、彼女と過ごす時間はあまりにも短い。彼女が老い、いずれ消えていく未来を受け入れられず、彼は彼女がずっと存在し続ける世界を求めた。その答えが、不老不死の薬であり、寿命を伸ばす術だった。だから彼は学者になった。魔法を、奇跡ではなく理として扱うために。彼にとって研究も魔法も、愛を続けるための手段であり、彼女を救うため、いや、彼自身を救うために研究に明け暮れた。
さらに何十年か経ち、彼女の99歳の誕生日を迎えた。
―その日、僕の世界は音もなく砕け散った。不死鳥の刻まれた響を一つ残して。
体中の水が枯れるほど涙を流しても胸の奥の泥までは流されない。彼女をあまりにも愛しすぎていた。僕が死ぬその日まであの姿を目に留めたかった。月が昇り日が沈むように僕の隣に彼女がいることは当たり前だった。しかし、それは永遠に続かない。
(彼女がいないのなら無駄に長い人生なんていらない)
姿を消したあの日彼女は何を思っていたのだろう。そしてなぜ、この簪を残したのか。王家の紋章である不死鳥。これは何を意味するのだ。
全てを知りたいのに何も知ることは出来ない。そして、幾年と放浪するうちに彼女の記憶だけがすっかりと切り取られたように姿形すらも思い出せなくなった。
どんな表情を向けていたのかも、どんな言葉を交わしたのかも、思い出せない。ただ、手に重なったぬくもりと、木苺に蜂蜜を絡めたような声だけが、今も残っている。そんな頼りない記憶を頼りに探し始めて数百年。見つからないまま無情にも時が経ち続ける。
あの日、彼女に残されていた時間は、たった一年だった。それを知っているのに今でも目を覚ましたときの冷えた枕元に目を背けたくなる。
妄想だと何度も、何度も言い聞かせた。知性を武器とする学者らしからぬ思考だと分かっていながら、それでも否定したかった。もしかしたら、彼女もそこに生まれた愛もただの僕の脳内での出来事なのかもしれない。希望なんてない現実から身を守るようにただ考えだけを巡らす。
その間にも手のひらを冷たく刺すソレは存在感を消してはくれない。この簪こそが妄想ではないことを何よりも証明している。そして同時に、彼女が確かに存在していたことの証でもあった。
「じゃあ行ってくるよ」
ブルーの催促で日常を思い出した彼は雑に済ませた身支度で職場へ向かった。
国王の王族魔法。
いわゆる国民が使う呪文とは、術の形式そのものから異なる魔法によりこの街は領域のようなもので囲われている。レイの頭上に広がる空は嘘偽りであり、光るあの球体も太陽の真似事をしているだけの光源に過ぎない。領域内にいれば微量だが魔力が供給され、日常的な魔法を使うのに魔力を消費したり代償を払う必要はない。故に街は魔法で溢れていた。
「あ、あっ!レイ先生、お、おはようございます」
「あぁおはよう。また学校でね」
担任に出会うとは予想もしていなかっただろう生徒が逃げるように箒に跨った。永き寿命をもつ魔法族はあまりにも大勢の人達と関係を築くため、顔を一目見ただけでは名前を思い出せないことも少なくない。学校という数年の関係値なら覚えていなくて尚更だろう。しかし、今の生徒は魔力鑑定もせず一目見るなり逃げ出した。さぞ優秀な記憶力の持ち主であることを予想してつい笑み零れる。
魔法族が永き寿命と言っても、平均寿命は短命種で五百年ほどであり百年しか生きぬ人間とそう大差はない。一方で、数少ない王族が大多数を占める長命種は一万年を生きる。そのため、「永き寿命」と名乗るとするならば後者のみだろう。それなのに人の名すら覚えられぬとは。どういう訳か王族でもないのに長命種として生まれた側の彼はそう悪態をつく。
これを踏まえると、彼の記憶力が魔法族にとってどれほどの価値を持つのかは言うまでもない。




