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セックスは邪悪なのか?

作者: せいじ

 社会保障人口問題研究所の将来予測によると、いくらか高い数字を保っていた完結出生率も、現在の6割程度に落ち込むそうです。


 完結出生率とは、婚姻関係にある男女の間で子供が何人産まれるかの数字で、これに生涯独身者を加えたのが、合計特殊出生率になります。


 しかも、困ったことに婚姻率も下落傾向にあり、今よりも4衛割程落ち込むと推測されています。


 これをどう考えるか?


 そもそも、何で少子化なのか?


 少子化の何が問題なのか?


 何でこうなったのかを、私なりに考えます。


 まず、結婚した女性としなかった女性では、前出したように出生率には明らかな差が見られます。

 日本のような家制度、旧来では家父長制度の名残りが強い我が国では、シングルマザーに対する風当たりが強く、ひと頃では一人親であることが理由で、その子供の求職を断るといった事例もありました。


 私の頃でもまだこの風潮が残っており、嫌いな人間をディスるやり方として、一人親の子供は頭がおかしいとしました。

 今では明らかな差別ですが、それはいわゆる普通の家庭モデルが、もう珍しくなったからでしょう。

 つまり、サザエさん一家なんて、むしろマイノリティであると。

 専業主婦は身分であると、そういう評価もあるぐらいですから。

 そうは言ってもこういった感覚は根強く、子供を持つなら結婚しなければならないし、子供を持ったら離婚することは無責任になります。


 しかも、責任の所在は女性側にあり、男性側に対しては不倫をしていようと、むしろ女性の悋気を責める風潮にあります。


 夫の浮気ぐらい、大目に見ろとか、酷くなると夫を寂しい思いをさせた責任は、妻の方にあると。


 しかも、結婚したのに子供を持たないのを、どこかおかしいとする風潮がある一方で、執拗に不妊治療にお金をつぎ込む夫婦も存在します。


 欧米では一人親は珍しくなく、一人親に対する支援もあります。

 欧米では里親制度や養子縁組も珍しくなく、日本のような血縁主義では、子供の問題は子供の自己責任のような扱いになっています。

 特に日本ではこういった一人親、特にシングルマザーに対する政策は手薄になっています。

 その証拠に、シングルマザーの就業率や労働参加時間は日本は先進国トップクラスになっているからです。

 その一方で、シングルマザーの貧困率はシングルファザーと比べてはっきりと差があります。

 つまり、女性にとって結婚もリスクなら、子供を持つのもリスクになっているのです。

 子供は嗜好品という表現もあるようですが、言い得て妙な感じがします。


 まるで、家父長制度に従わない者が子供を持つことを、罪のように見なす制度や文化がそのような表現を生んだと思われます。

 

 普通でない者は、子供を持つべきではないと。


 しかし、すでに家父長制度もなく、サザエさん一家は殆ど存在しません。


 親と同居しているにも関わらず、その親が孤独死するような時代ですから。

 

 それらを踏まえ、日本の少子化の根本理由は、一体なんだろうか?


 色々とありますが、私は性に関する忌避感が、根本にあると思います。

 例えば、性教育も中々推進されず、積極的にやろうとすると、寝た子を起こすなと反対する者がいます。

 その一方で、性に関する情報は氾濫しており、若年層を始め、我々は迷走していると言えます。


 セックスについて語るのを、まるで邪悪なことでもあるように。


 この性をタブー視する風潮は、実は明治期以降のことで、江戸時代まではむしろオープンでした。

 それが劇的に変わったのは、軍国ファッショが理由ではなく、富国強兵が原因でもなく、ただの見栄でした。

 ピューリタン的な文化の導入こそ、欧米列強に日本が認めてもらう最短コースのひとつであると、当時の明治政府は考えたようです。


 こうした性をタブー視するような政策も次々に打たれ、夜這い禁止令や混浴禁止令も出ました。

 ついには、神聖たる性にまつわる神事すらも禁止にしました。

 性に関する事とは言え、関係する神事を禁止するのだから、神道国家が聞いて呆れます。


 それだけ、野蛮国家扱いされることを、当時の人々は恐れたのでしょう。


 しかし、それが家父長制度と結びつき、歪な形で推進されました。

 女性は結婚するまで処女でいるべきであり、かつ婚姻相手も家父長が決めるといった、まるで女性に人権が存在しないかの如き扱いでした。

 その一方で、夫の死別などで未亡人になった女性の再婚相手もすぐに見つけてもらい、食べていくのに困らない状態になっていたので、家父長制度は歪ながらも社会のバランスを取っていました。


 だが、戦後になるとそれも形骸化し、親が子供を支配するといった感覚だけが残りました。

 尊属殺人という刑法が、つい最近まであったように、子供と親は対等とはみなされていませんでした。


 極端に言えば、子供の生殺与奪の権を、親が持っていたのです。

 子供の間引きがそれで、権力がそういった行為を禁止しても無くなりませんでした。

 戦後では優生保護法が間引きに代わり、合法的に子供の不妊手術を認めました。


 それを先進国であり、民主主義国家がやっていた訳です。


 その一方で、経口避妊薬やコンドームなどの避妊具などの普及を推進しなかった、あるいはしないように仕向けました。


 それこそ、寝た子を起こす気かと。


 そうは言っても子供の権利条約を批准したわが国では、こういったある種旧時代的な法令は、無効化しないといけない事態になりました。


 学校で性教育を行えるようになったのも、子供には一人としての人格があるからです。


 子供はいつまでも、寝ていませんよと。


 優生保護法も尊属殺人も削除され、そしてついに、親が子に対して持つ、懲戒権も制限されました。

 しつけも虐待であると、指針が出されたからです。

 その結果、虐待事案の報告例が、いじめ事案と同様にうなぎ登りになりました。


 これが、結果であると。


 つまり、今までの我々は半ば制限されてきたと、そう見るべきです。


 人としての、尊厳をです。


 子供は家庭で去勢され、学校では矯正され、ついに自らを規制するようになったのです。


 これが親ガチャや子供は嗜好品とか、結婚はリスクと捉えるようになった、少子化の原因であり本質と思います。


 普通であるべき、普通でない者は、結婚はもちろん、生きている資格はないと。


 そして人の持つ、支配欲求が子供をより強固に支配し、生殖に関する事柄をタブー視してきました。


 寝た子を起こすなということですが、これは見方を変えれば、子供は永遠に寝かせておけとなります。

  

 子供は勉強だけしていればいい、異性に興味を持つ子は、汚らしい子供だ。いや、不良だと。


 性器をいじるなんて汚らしいとして、性そのものをタブー視するように刷り込むのです。


 そして社会人になると、今度は仕事だけしていればいい、女に興味を持ちたいなら、一人前になってからだとなりました。


 大人なのに、男女交際に制限が掛けられたのです。


 それでも昔は、一人前と認められたらお見合い相手を上司や親戚に見つけてもらい、結婚相手に不自由はしませんでした。


 だが、それもほぼ無くなりました。結婚相手は、自分で見つけないといけない時代になったからです。


 しかし、いつでも自由に相手を見つけることは、日本では特殊な存在のみであり、普通になれない男性は排除されます。


 一人前になるのは、どうしても時間が掛かるからです。


 そうなると、ある年齢にならないと結婚することも出来なくなりました。


 非正規労働者は更に悲惨で、普通になれない者は、一生結婚出来ません。


 女性と比べて男性の婚姻率の低さは、それを物語っています。


 そんな社会構造になっていたのに、やっと一人前になったころには、もう結婚相手はどこにもいません。


 特に女性は年齢を重ねれば重ねるほど、結婚相手に対するハードルは高くなり、婚姻出来る対象はある計算によると、1%にも満たないそうです。


 その一方で、結婚しない者は、どこかおかしいとされます。


 こういった感覚は今でもあり、その一方で男女交際に関しては、まるで結婚を前提にしない交際は悪であると、ピューリタン的な感覚を持っています。


 最近よく見る物語でも、登場するヒロインは概ね巨乳でしかも処女が多いのも、あるいは不自然なまでのハーレム展開の本質も、この家父長制度の名残りというべきか、もしかしたら呪いと考えます。


 支配欲求、独占欲の表れというか、そういった願望を受け継いだせいで、こういったあり得ない物語を称賛しているのかもしれません。


 それは物心つく前に深層意識に植え付けられた、本人ではどうしようもない感覚かもしれません。


 女性は純潔であるべきであり、かつ貞淑であるべきであると。


 そうなると、こうあるべきであるという明治期の社会の在り方が、我々をしてこのような物語を生み、称賛しているのかもしれません。


 時折見る、異様なまでの昭和ノスタルジーも、それを踏まえて見直すと、景色が変わって見えるでしょう。


 結婚しなければ子供を持てない、その反面、結婚しない者は異常であると。


 そして、セックスは結婚してからを通り越して、家庭ではセックスと言う存在自体を無かったことにするのです。


 家庭内で性をタブー視するのも、女性は処女であるべきという、ピューリタン的な呪いの結果と言えます。


 だから男性の浮気や不倫に対して、社会はどこか鷹揚になれると思います。


 その一方で、女性の浮気や不倫に対する容赦ないバッシングは、女性は処女であるべき、貞淑であるべきといった歪な文化があるからと思います。


 母親に対してすら、処女性を求めるのです。


 処女なのに子供を産んだ母親なんて、もうおかしな話ではありませんか?


 しかし、良妻賢母なんて言葉もあるように、お母さんと言う言葉自体は、ちょっと普通の言葉とはどこか違うような感覚を持ちます。

 

 そしてそれを、聖母願望と呼ぶんでしょう。


 こうして様々な思い込みとそれを前提にした社会構造により、日本人の性文化はどこか歪になり、家庭という存在をどこか忌避するようになりました。


 家庭とは、重くて仕方がない、そんな在り様なんでしょう。


 しかも家庭では、セックスがタブー視され、今さら家庭で性教育をと言われても、どうしたらいいのか分からない夫婦も居ます。


 セックスを語る時、どうしてもふざけたり恥ずかしがったりと、普通に語ることが出来ない上に、真面目にセックスを語る人間を気味悪がります。


 まるで、セックスを真面目に語ってはいけないと、そう暗示されているように。


 セックスを語る場合、ふざけて語るか、卑猥なワードとして語るべきであると、そう思い込んでいるのではないだろうか?


 本来、セックスは人の営みのひとつであり、重要な事柄のはずです。


 だからこそ、性教育は重要であり、まだ頭が凝り固まっていない内に、きちんと教育すべきなんです。


 しかしそれは、親からの自立を意味し、頭の固いピューリタン的な人たちに忌避されます。


 子供が親離れすると起きるのが、空の巣症候群と呼ばれ、逆にニート的な存在をどこか容認しますから。


 子供からセックスを遠ざけ、いつまでも親離れ出来ないようにと、面倒を見てしまいます。


 それがやがて、寝た子を起こすなという表現になり、人の持つ支配欲求と相俟って、子供に対する過保護、過干渉がおきてしまいます。


 子供の為と言いながらも、親が子供を支配したいだけに過ぎません。


 それが結果として、日本の少子化の特殊性を生んだと考えます。


 まずは親の支配から脱却することであり、その先にあるのが自立することであると、私は考えます。



 自分たちが何に支配されているのか、どうすればいいのかを考えるのも、今だと思います。

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