オニキスに触れながら
石と誰かの物語です。
昨日から口をきいてない。
義父が夫と喧嘩した。
二人ともよく似てるから、仲直りには時間がかかる。
孫も大学生になり、東京を離れたから、大人ばかりの家はワンクッションがない。以前は息子たちがいろいろと笑わせるようなことをしたり、学校での愚痴を聞いたりしているうちに喧嘩もいつの間にか収まっていた。
だが、今は夫も退職し、大人が朝からそう笑える話などない。しかも、義父はだんだん難しくなり、最近は足が弱って外に出ることもなくなってきた。義母は二年前に階段で骨折してあれよあれよという間に亡くなってしまった。その頃から義父は部屋にこもることも増えて息子である夫とは朝晩くらいしか話もなくなってきた。
昨日の喧嘩でももとは些細なことだった。
義父が愛読している本を夫がトイレに持って行ったことだった。
「俺の大事にしている本をトイレに持っていくとはどんだけ親不孝者なんだ」
「なんだよ、破ったわけでもないし、俺も読んでみたかったから借りただけだろう」
「その大事な雑誌を、お前の脱糞する場所へ持っていくなんて、なんて非常識なんだ」
「うるさいな、トイレが本を読むには一番いいんだよ」
なんてこと、この二人。
しかも、その本が古い映画雑誌。しかも、義父の記憶では初恋の人がすごい映画好きだったそうだ。義母は映画を愛していたという話は聞いたことがなかったから、初恋の人は妻ではなかったようだ。夫はそれも興味があったようで、義父がいつも同じページを開いていることを気にしていた。
そのページは怪獣映画のスナップで美しい女性が彼たちにメイクをしているページだった。
どうもその女性が初恋の人ではないかと夫は勘ぐっていた。私は若い日の義父の淡い恋心がかわいらしくて好感が持てたが、夫はまた違うようだった。
「お父さん、お昼ごはんにしませんか」
ふすま越しに声をかける。
「うん、いただくよ」
私には優しいいつもの義父。
親子丼を作ったので、食卓に置く。次は夫だ。
二階へ上がって扉を開けると、夫が古いアルバムをいっぱいに広げていた。
「何してるの?」
「ちょっと気になって、探してるんだ」
「何を?」
「母さんのアルバム」
「それなら、義父さんの部屋じゃないの?」
「いや、別のやつ」
「あったかしら」
「あったんだよ。女学生の頃のが」
ふと、思い出した。確か赤い表紙の校名入りのアルバム。
「それなら、仏壇下の棚に入れてるはず」
「そうか」
夫は仏壇下をのぞくと、出してきた。
夫が仏壇からそのアルバムを出すと、義父が声をかける。
「それをどうするんだ」
「いや、ちょっと見たくて」
私が食事を先にしたらと用意する。
「うん」
三人で座って親子丼を食べる。義父が食べ終わってその赤いアルバムを見だした。
「母さんが若いな」
「うん、15だからね」
いつの間にか二人は話している。
「この写真のこの人は誰?」
「ああ、これは母さんの親友の赤羽さん」
「ふーん、きれいな人だね」
「美人で俺たちの学校ではマドンナって言われてたよ」
「へえ、母さんは?」
「あの子は気立てがいいとみんなが言ってたさ」
満更でもない義父の顔。そうか、そういう時代があったのね。
「お前の読んでいた本のメイクしていた人はこの赤羽さんさ」
「やっぱり」
「何がやっぱりなんだよ」
「お父さんは初恋の人が赤羽さんなのか」
「いやあ、この人はみんなのあこがれでね、しゃれていたんだよ。でも、初恋も母さんさ」
「へえ、そうかなあ、この本をそんなに大切にしているのに」
「そうか、そう思ってたのか」
義父はおかしそうに笑って指さした。
「この怪獣が母さんさ」
「え?」
私も思わず箸を落としそうになった。豚のようなカエルのような怪獣が義母さん?
「赤羽さんがエキストラが足りないって困っていたから、母さんがなってあげたのさ」
「どうして? お父さんじゃないの」
「背の高さが小さい作りでね、僕では怪獣からはみ出してしまうから、それなら私がって」
思わずみんなで大笑いした。
「これ、母さんか。すごいなあ。一言も言わなかったじゃないか」
「嫌がってね、豚とカエルのミックスしたような姿だから」
「赤羽さんは面白がってメイクしているときに僕も呼ばれてね。写真を撮ったのが僕さ」
「え? 義父さんが撮られたんですか?」
私も驚いた。ほら、この下のほうに写真提供って僕の名前が書いてるだろう。
「なあんだ、早く言ってくれよ」
「ああ、みんなに話そうって言ってるうちに母さんが転んで入院したからすっかり忘れてしまって」
そうだったのか。夫は明るい顔で仏壇に向かった。
「ほら、このときにしている赤羽さんの胸元にあるペンダント、そのアルバムと一緒に置いてただろう」
「気が付かなかったわ、これですか」
黒い箱を取り出すと、中にオニキスのペンダント。
「赤羽さんが怪獣になって救ってくれたって、母さんにくれたのさ」
「そうなんだ」
黒くてつやつやしているオニキス。12ミリほどだろうか。
「だから、この本は大切なのさ」
「そうか、ごめんね。知らないからトイレに入れたりして」
「いいさ、言わなかったんだもの」
「お母さんの出演料のペンダント、もらってくれるかい?」
義父の申し出に思わず大きくうなずいた。
「いただいていいんですか?」
「ああ、あんまり高いものではないかもしれないが。いいものはこいつに買ってもらいなさい」
義父は夫を指さした。
「あとで、みんなでお墓参りに行きましょう」
「そうだね」
昼下がりの墓地はアジサイが咲き乱れていた。
義父は寂しかったのか、あの雑誌をいつもそばに置いているのは。
「気が付かなくてごめんなさい」
そっと、義母に告げた。
オニキスに触れながら。