第三章:痛み
その後小一時間、奈美さんに根掘り葉掘り聞かれたせいか、精神的に疲れてしまった。なんとか閉店作業も終え、帰宅する頃には心も体ももうボロボロだった。
「誰だ、こんな時間に・・・。」
時計を見ると、もう夜十時。そろそろ寝ようと思っていたら、メールが来た。メルマガとかは登録していないから、誰か知り合いだとしか考えられない。全く、常識を考えてほしい・・・。
『部屋にある私物は、捨てておいて。』
件名すらなく、本文のみのメール。名前を見ずに開いていたから分からなかったけど、これは明らかに尚からのメールだ。考えてみれば、二年も付き合っていた為、部屋にはあいつの私物は結構ある。流石に洋服までは無いけど、ブラシやマグカップ等、小物がかなり揃っている。
「捨ててくれって・・・。そんな事、出来るかよ・・・。」
急いで、返信のメールを打ち込む。いつもなら手馴れている作業でも、今回だけは指が鈍くなったように、なかなか書きたい事が書けなかった。なんとか気持ちを抑えて、それなりの文章には出来たけど・・・。
『それは出来ない。処分するだけなら簡単だけど、今まで一緒にいた時間まで、否定するなんて俺には出来ないから。それに、大切にしていた物だってあるじゃないか?』
送信してから二十分も経っただろうか、待ちわびていたメールも、事務的としか考えられない、冷めた内容だった。
『もう、要らない。私は何も要らないから、全部捨てておいて。』
そんな尚にか、それとも何も言ってやれない自分にか、とにかく俺は怒りを覚えた。電話して怒鳴りつけたい、そんな衝動もギリギリで抑えて、ゆっくりと番号を押していく。
「もしもし・・・。」
十回以上のコールで、やっと尚が出た。多分、俺からの電話という事で、拒否したかったんだろう。声は暗く、いつもの明るさは全く感じられなかった。
「何を言われても、俺は捨てるなんて出来ない。全部まとめておくから、時間がある時にでも取りに来てくれ。合鍵はまだ持ってるんだろ?逢いたくないなら、俺がバイトの時でもいい。勝手に鍵開けて、持っていってくれないか?」
これこそ、勝手な言い分だと自分で恥ずかしくなった。自分の手元に置いておきたくないけど、捨てるのも嫌だったからだ。後は自分でも何を言ったか、話したかは覚えていない。落ち着いたつもりでも、感情的になっていたかもしれないから。それでも、いつか取りに行くという言葉だけは、はっきり覚えていた・・・。
その二日後、土曜日の朝から、俺はバイトが入っていた。仕事中にでも来ているかもと思い、なかなか集中できなかった。おかげで、かなりのミス連発。オーダーは間違うわ、客席の近くで水など色々溢すわ・・・。杉沢さんにフォローはしてもらったが、足を引っ張っていたのは否めないだろう。マスターには怒られはしなかったが、かなり心配そうな顔で見られていたな・・・。
「珍しいね、君が元気無いなんて。何かあった?」
休憩中、マスターに声を掛けられる。ちょうどお客さんがひけてきた時間で、店は結構暇な状態だった。流石に分かるか、朝からずっとこんな調子だったし・・・。
「この前、尚からメールがあったんですよ。部屋の私物、全部捨ててくれって。電話して取りに来る事になったんですけど、俺がいない時にでもなんて言っちゃって。逢いたい、少しでも話がしたいって思ってたのに、そんな事言っちゃって・・・。来るなら今日か明日だから、何でか心配なんですよね・・・。」
気付けば、洗いざらい白状していた。自爆、そんな言葉が似合うかもな・・・。最初こそ口元に笑いが見えたが、話し終えた時には真剣な顔に戻っていた。多分、本気で心配してくれてるんだと思う。
「マスター、奈美さん来ましたよ〜。あと付き人って人が、マスター呼んでくれって。」
一人で接客していた杉沢さんが、事務室に顔をだして手招きしていた。いつも奈美さんは一人で来るから、結構珍しい事だよな・・・。俺も顔を出した方がいいんだろうか?
「いいよ、少し休んでな。そんな顔で出て行ったら、それこそ奴の思う壺。遊び道具にされて終わるよ?」
返事を待たず、マスターは事務室から出て行った。確かに奴なら、傷口に塩を塗るどころか、刃物を刺して広げるような事をしてきそうだ・・・。大人しく、休憩時間一杯休んでおこう・・・。
「純平君、私も休憩入るね。あ、今日はカルボナーラ?私、これ好きなんだよね〜。味付けが単純じゃないしいつも少し変わるから、飽きないし。」
フライパンの中を見て、杉沢さんが喜んでいた。まかないはいつも、マスターか俺が作る。今日はマスター特製、しかもメニューでは出さないような物だった。そうだ、午前中の事も謝っておかないとな・・・。
「ごめん、今日はミスばっかりで。正直、邪魔だって思ったでしょ・・・?」
「気にしないで。人間だもん、たまには失敗する時だってあるよ。でも今日は、フォローばっかりで疲れちゃったな〜・・・。明日も部活出ないといけないから、疲れ取れるか心配・・・。」
悪戯な顔で、俺を見てきた。これはきっと、何か奢るなりなんなり、要求している顔なんだろうな。尚も時々、こんな顔をする事があったっけ・・・。
そんな事を思った時、不意に何かが頭の中を通り抜けた。あの日の、尚の表情だった。この数日、何かがあればあの顔を思い出す。二人でよく通った道、毎日のように歩いた駅と学校の間の道・・・。アパートでさえも思い出ばかりがあるため、何度も引っ越したいという気持ちになった。流石に、そんな真似は出来なかったが・・・。
「・・・ん、純平君!どうしたの?」
どんな顔をしていたのか、心配そうに杉沢さんが俺を覗き込んでいた。しまった、無駄に心配かけたかな・・・。
「大丈夫、ちょっと気分が悪くなっただけだから。ちょっと外出てくるけど、時間までには戻るから。そうだ、食べ終わったら食器とフライパン、そのままにしてくれていいよ。後でまとめて片付けるから。」
振り返らず、裏口から店の正面に回りこむ。マスターと誰かが、客席で話しこんでいるのが、少しだけ見える。見た限りだと奈美さんと同じ位の年頃だけど、誰だろう?何処かで見た事がある、そんな気もするけど・・・。