第四話 初めての狩猟 前編
俺とラハヤはグレーメンにほど近い森で猪を駆除する依頼を受けた。この依頼は猪を一匹でも仕留めれば、依頼者が報奨金を払ってくれるというもので、一匹駆除すれば銅貨一五枚が手に入る。
現在時刻は早朝。
俺とラハヤが歩いている森は緑豊かで、親指ほどの紫の花が所々にマットのように群生していた。
何と可愛らしい花か。緊張が少しほぐれた気がする。
歩き続けて森が深くなり、辺りは獣の世界へと趣を変えた。時折聞こえる獣たちの警戒する鳴き声や、鳥たちのさえずりが辺りに響く。
俺は慣れない異世界の山と、今までの狩猟経験から来る自負が火花を散らす奇妙な心情に駆られた。ここは俺の知る世界ではないという警戒心と、俺は一二年も獣を狩って来たのだという慢心的な自信が不協和音となって心臓の鼓動を早めるのだ。
「お兄さん。見て、鹿酔ノ木の葉が敷き詰められてる。これは猪の寝床だよ」
山に入ってから一言も発さなかったラハヤが、この世界の猪の痕跡を見つけて俺に教示する。彼女が示した寝床は楕円形の葉がついた枝が敷き詰められていた。
「この世界の猪はこうやって寝床を作るのかい?」
「鹿酔ノ木の香りは虫が嫌うから。春から夏にかけてこういった寝床が良く見つかるんだ」
アセビの木のようなものなのだろう。猪は体に付着するダニやノミなどの寄生虫を追い払うために、泥の溜まったぬた場で泥浴びをするという。ならば、虫が嫌う植物を使った寝床を作るのも彼らにとって理にかなった習性なのだろう。
「あそこに白い壺状の花があるでしょ? いくつも連なってる奴。あれが鹿酔ノ木の花だよ」
ラハヤが示した植物は、沢山の白い壺状の花を咲かせた背の低い木だ。可愛らしい花を咲かせて、俺の緊張を解してくれたが猛毒があるという。元の世界でも一見無害そうに見えて、猛毒を持つ植物は数多く存在した。例えば日本人が大好きな赤の実を実らせるマムシグサとか。
「花の香りは甘いんだな」
「いい香りだよね」そう言うとラハヤは歩みを速めた。新しい獲物の痕跡を見つけたのだろう。
ラハヤが猪の痕跡を残した幹の前で止まる。
「ここに猪が体を擦った跡がある。向こうには乾いてるけど、泥浴び場があるね」
元の世界の知識も役に立つはずだと思っていた俺は、ラハヤが示した痕跡によって一抹の不安を覚えた。
猪は泥浴びの後、木の幹に体を擦って泥と寄生虫を落とす。
しかし、目の前の体擦りの跡は俺たちが追っている獲物の大きさを物語っていた。擦られて抉れた木の幹に付着した泥の痕が、俺の腹の上ほどまであったのだ。今から仕留める猪の体高がそこまである。ということだ。
九〇キロ級か、百キロ級か、それ以上か。
「ラハヤさん。この世界の猪は昼行性?」
「うん。でも、人里近辺に住む猪は夜行性になるんだ。猪だって賢いから」
なるほど。そこらはあまり変わらんな。
「あ、糞がある。結構大きいな」
俺は猪の糞を見つけた。大き目の丸い糞が合体したような糞だ。そこそこ大きい。
「この木がお気に入りみたいだね」
俺の居た世界の猪とあまり違いはないのだと、俺は慢心による安心をしていた。
「お兄さん。猪が居たよ。地面を掘り返して餌を探してるみたい」
だが、そんなちっぽけな俺の自尊心を勇者が人様の壺を割るように打ち砕く。
ラハヤが屈み、俺も屈んだ。そして、この世界の猪を見たのだ。
二〇〇メートルほど先にいた件の猪は日本の猪とは違い、イボイノシシのように縦髪を持ち、下顎から生えた一対の連なる三日月状の牙を持っている。さらには、目の下にこれまた一対の牛の角のような象牙色の角を持ち、体の大きさは二メートル近い。それが豪快に地面を掘り起こして餌を探しているのだから、俺の心臓は恐怖を孕んだ鼓動へと変わっていた。
まさか、この世界はあれを猪と言い張るとは。
追い込まれた猪の突進は命を失うほどであるという。ならば、この世界の猪の突進は相手を抹殺するためなのかと思えた。
「ラハヤさん。どっちが先に仕留める?」
「うーん。私が先にお手本を見せようか」
俺は頷き、彼女の狩りを見せてもらうことにした。
ラハヤがクロスボウを構え、ブロードヘッドに酷似した矢じりを持つ矢を腰の矢筒から取り出して番える。梃子の原理を利用したレバー操作だった。
気配を消して側面にゆっくりと回り込む。この世界でも当たり前なのか、彼女は風下へ位置するように移動していた。ラハヤと猪の彼我距離は一〇〇メートルを切った。
膝射に構えたラハヤが猪に射かける。
矢が猪の前足のすぐ後ろに深く刺さった。そこにあるのは心臓だ。一射の元で大猪は横たわった。
「おお、見事だ」
彼女の技量に感心した俺が近づくと、ラハヤが大猪に幅広のナイフでとどめを刺していた。
「後は商人組合が配布してる狼煙矢を撃ち上げたら、狩猟小屋に駐屯してる商人組合の職員が回収してくれる。ああ、これも忘れずにね」
そう言ってラハヤが大猪の首に皮製のネームタグを刺した。長い釘に括り付けられたタグが、所有権を表すのだろう。罠のありかを示す標識みたいな奴と覚えておくとする。
ラハヤが桃色の煙を展開する狼煙矢を上げて、だいたい一〇分後。
商人組合の者がやってきた。
「この度はゴブリン出張回収サービスをご利用くださいまして誠にありがとうございます」
そう恭しく頭を下げた人物に俺は度肝を抜かれた。
緑の肌をして、鷲鼻で、尖った耳をした小男なのだ。
豪華な衣装に身を包んでいるが、人類の敵ではと俺に思わせる。
「ラハヤさん。これってゴブリンって奴でしょ? 信用できるの?」
「それは大昔の話だよ。お兄さん」
そう笑うラハヤだが、俺の頭はサブカルチャーで学習した知識が邪魔をしていた。
だって、あれでしょ。ゴブリンって集団強姦する奴でしょ? え、違うの?
「旦那様! 我らゴブリンはお金を稼ぐことにおいては狡賢くはございますが、信頼を失うことは致しません! 他種族に危害を加えるなど以ての外でございます! 我らは世界一の平和主義者でございますよ!」
「あ、そうなんです? あ、すみません」
ぷんぷん怒るゴブリンに何やら申し訳ない気持ちとなった俺は、どうやら持ち合わせた常識が小指の爪ほどしか通用しないのだなと思い始めた。
鹿酔ノ木。アセビのようなもの。