ごめんねの証
雨が雪に変わった──。
予感はあった。
肌を突き刺すほどの寒さで、夕方頃から雨が霙になっていたから。
寒冷前線の影響で、今夜から明日にかけて雪になると天気予報でも言っていたから。
けれども、夜空を見上げる僕の目にはそれがなんだか神様からのメッセージに思えた。
僕の頬に白い雪の結晶が張り付く。
そしてそれは冷たい雫となって流れ落ちていく。
まるで涙を流してるかのような気分だった。
いや、実際泣いていたのかもしれない。
僕はただ黙って、静かに降るその雪を全身で受け止めていた。
音もなく静かに舞い落ちる雪を、ただ黙って受け止めていた。
公園のクリスマスツリーの明かりがキラキラと輝いている。
とてもきれいだった。
その輝きに包まれて歩くカップルたちがとても眩しかった。
僕は「はあ」と息を吐いた。
口から吐き出される白い空気が、空に向かって伸びていく。
寒さはさらに増していた。
彼女は来るだろうか。
いつものように、いつもの笑顔でやってくるだろうか。
自信はなかった。
「誰か待ってるの?」
ふと、声がした。
振り向くとベンチに一人の女性が座っていた。
白いコートを着た若い女性だった。
僕と同い年くらいの、妙に落ち着いた感じの女性だ。
「え、ええ。まあ」
僕は答えた。
「そう」
女性はそう言ってほほ笑んだ。
不思議なことに、彼女のまわりに雪は降り積もっていなかった。
雪の方が彼女を避けているかのように見えた。
僕はそんな不思議さよりも、彼女の柔和な表情に気持ちが落ち着いていくのを感じた。
だからだろうか、なぜか無性にその女性の隣に座りたくなった。
「いいよ」
彼女はそんな僕の気持ちを察したのか、サッとベンチから腰をずらした。
僕は何も言わず彼女の隣に腰をかける。
ふわっと花の香りがした気がした。
その女性の隣に座りながら、僕は黙って降り積もる雪を眺めていた。
黄色い電飾に照らされて降る雪はとても幻想的だった。
「不安そうね?」
突然、隣に座る女性がそう言ってきた。
彼女が黙って僕の顔を見つめていたと気づき、少し恥ずかしくなる。
「そう……見えますか?」
「うん、そう見える」
その溶けてしまいそうな甘い声に、僕はなんだか泣きたくなってしまった。
「実は……彼女とケンカ中なんです」
僕は泣顔を見せたくなくて、思わず本音を語ってしまった。
見ず知らずの女性に、言わなくてもいいことを言ってしまった。
激しい後悔がどっと押し寄せたが、いまさら遅い。
それに、このもやもやを誰かに聞いてもらいたかった。
「ケンカ中?」
「はい。きっかけは些細なことだったんです。彼女が仕事でちょっとしたミスをしたと落ち込んでたのに、僕はそれを笑ってしまった。元気づけてあげようと思ったのに、バカだなって言って笑ってしまった。彼女にとってそれはバカにされて笑われたと思ったみたいで」
「そう」
「それが一週間前。今も携帯はつながらないし、会ってもいません。実は今日、この公園で待ち合わせをして一緒にクリスマスを過ごそうって約束してたんですが……」
女性は黙って僕の話を聞いていた。
面白くもないであろう僕の話を、真剣に聞いてくれていた。
僕はそれに気づき、すぐに謝った。
「ごめんなさい、あなたには関係のない話でしたね」
女性は瞳を閉じて微笑みながら首を振った。
優しい笑顔だと思った。
「関係なくはないわ」
「……え?」
「あなたはここに来た。そして私がここにいる。それだけで、もう十分関係性が生まれてるわ。話してくれてありがとう」
「ど、どうも……」
まさかお礼を言われるとは思わなかったので、僕はただただ頭を下げるしかなかった。
「それにあなたは彼女の事を信じてる。約束したこの公園に来てくれると信じてる。だからここに来たのでしょう? それはとても素晴らしいことよ」
「そうでしょうか」
「そうよ。信じる者は救われる」
「僕、無神論者なんで」
「あら奇遇ね。私もよ」
その言葉に、僕は思わずふっと口元が緩んだ。
「あ、笑った。いいね、その顔。笑った顔のほうが断然いい」
「そ、そう?」
言われて頬をおさえる。
そういえば、笑うなんて彼女とケンカして以来、初めてだった。
「さっきまで、世界の終わりみたいな顔してたもの」
ぶふっと思わず吹き出してしまった。
今まで、どれだけ暗い顔をしていたんだろう。
「知ってる? 笑顔はね、福を呼び寄せるの」
「福を?」
「そう。暗い顔をしている人に福は来ないわ。福の神は、笑ってる人が好きだもの」
「笑う門には……ってやつですか?」
「うん。でもそれは本当のことよ。ほら見て」
その女性の指差す先。
そこに目を向けると、こちらに向かって走る彼女の姿が見えた。
顔を真っ赤に染めながら、両手に大きな花束を抱えながら、この公園の真ん中を走っている彼女の姿が見えた。
そして僕の姿に気が付くと、彼女は顔をくしゃくしゃにしながらものすごい勢いで駆け寄ってきた。
「大ちゃん!」
あたりに響くほどの大声で僕の名前を叫ぶ。
ビリッと空気が震えた気がした。
見間違いではない。本物だ。
本物の、美加だ。
「美加……」
僕は彼女の名前をつぶやいた。
「大ちゃん!」
彼女は叫びながらも向かってくる。
やっぱり、美加だった。
小柄で、華奢で、そして誰よりも可愛い僕の彼女。
「美加……!」
僕は立ち上がると、飛び込んでくる彼女の身体を全身で受け止めた。
思わずよろけて倒れそうになる。
それぐらいの勢いで抱きつかれた。
「ごめんね、大ちゃん! ほんとごめんね!」
美加は僕の胸の中で何度も「ごめんね」と謝りながら延々と泣き続けた。
一週間ぶりの美加の声。
一週間ぶりの美加の感触。
僕はたまらなくなって、愛しい彼女の身体を両腕で抱きしめた。
「いいんだよ、美加。僕も美香の気持ちをこれっぽっちも考えていなかった。こっちこそ、ごめん」
「大ちゃん……ごめんね、ごめんねぇ……」
美香は僕の胸に顏をうずめて何度も何度も肩を震わせた。
雪の雫よりも、美加の涙で服が濡れるんじゃないかと思えた。
「あ、そうだ」
僕は美加を身体から離すと、ベンチに顔を向けた。
「待っている間、僕の話を聞いてくれてありがとうございました」
しかし、不思議なことにベンチにはもうあの女性はいなかった。
「あ、あれ?」
「どうしたの、大ちゃん」
辺りを見渡す。
しかし、どこにも彼女の姿は見えなかった。
確かにさっきまでいたはずなのに。
ベンチに座って僕の話を聞いてたはずなのに。
けれどもベンチにはあの女性が座っていた形跡すらなかった。
降り積もる雪が、僕の座っていた場所だけを残しきれいに積もっていた。
「いや、美加を待ってる間、ここに……」
ふと、ベンチの横にきれいな花が咲いているのが見えた。
なんていう花かわからない。
けれども、なんだかあの女性のように落ち着いた雰囲気の花だった。
「はい、大ちゃん。これ」
美加の言葉に我にかえる。
見ると、美加はきれいな花束を僕に差し出していた。
「なに、これ?」
「ごめんねの証。この一週間、ずっとずっと後悔してた。嫌われたんじゃないかってずっと思ってた。もう二度と会えないんじゃないかって……。どうしようって泣いてたら、白いコートを着たお姉さんがこの公園であなたが待ってるって教えてくれて」
「白いコートを着たお姉さん?」
「うん。なんだか落ち着いた感じの」
「それって……」
僕とさっきまで一緒にいた、あの人?
そんなはずはない。
だって、あの女性は美加が来るまで僕とずっと一緒にいたんだから。
けれども、彼女の話を聞いているとなぜかそのコートを着たお姉さんが同一人物のように思えてならなかった。
「それでね、この公園に来ようと思ったんだけど、なんのお詫びの品もないんじゃあれだから、花屋さんで花を買ってきたの。ごめんね、これで許してなんておこがましいけど……」
その言葉に、僕は目頭が熱くなるのを感じた。
「バカ。それはこっちのセリフだよ」
僕は美加から花束を受け取ると、そのまま両腕で彼女をぎゅっと抱きしめた。
「僕の方こそ、ずっと辛かった。一週間、美加の声が聞こえないだけで、すっごく不安だった。来てくれてありがとう。それから、ごめん」
「大ちゃん……」
「ごめんねの証。僕も送りたいけど、何にもないや」
「キス……」
「ん?」
「なら、キスがいい……」
耳元でささやく彼女の言葉に僕は「うん」とつぶやいた。
そして、そっと身体を離すと。
泣き顔で濡れる彼女の唇に優しくキスをした──。
あの女性が何者かなんて、わからない。
もしかしたら、クリスマスの夜に舞い降りた天使だったのかもしれない。
ケンカ別れをした僕のために現れてくれた、神様の使い。
無神論者の僕だけど、その時ばかりはそんな気がした。
お読みいただき、ありがとうございました。