もしも、ADHD・ASDが伝染病だったら(当事者の空想)
小説内で、発達障害者は無表情だとの描写がされていますが、個人差があり、表情豊かな発達障害者もいるということを追記しておきます。
それから、話の都合上、伝染性と書かれていますが、現実の発達障害は先天的な脳の機能障害であり、決して伝染したりするものではないことをお伝えいたします。
今回は、当事者に対する配慮が足りず、誤解を招くような書き方をして、誠に申し訳ございませんでした。
「また取引先を怒らせたな!どういうつもりだ」
上司に怒られるのは、今月に入って七回目だ。いつも思うのだが、怒鳴り声という物は心臓に悪い。全身の力が抜けて、血の気が引いてしまう。御手洗信人は、上司の文句は頭の中をすり抜け、声の大きさと山鳴りを思わせる低音の響きに恐れおののいていた。しかし、彼は発達障害だったので、無表情のままだった。それがさらに上司の怒りに火をつけた。
自分の席に戻って、仕事にとりかかろうとするが、さっきの罵声から過去のいじめられた思い出がフラッシュバックしてその世界に浸ってしまい、はたから見てもぼーっとしているようにしか見えなかった。
「御手洗くんまた叱られたのね」
「やる気なさすぎだわ」
最近はテレビなどで発達障害が取り上げられるようになったが、主な視聴者は当事者とその家族が多く、まだ世間に浸透するには時間がかかった。特に御手洗のような中小企業では、発達障害について認知も薄く、配慮は一切受けられなかった。
フラッシュバックの嵐から抜けて、やっと仕事に取り掛かれるようになった御手洗だが、仕事振りは遅くマルチタスクが苦手なので、電話対応は大の苦手である。しかも、彼はクローズ就労と言って、会社側に障害をひた隠しにして面接を受けたので、大っぴらにはできなかった。
薬ももらえず、くたくたになって、帰りの電車に乗った。窓を流れる夜景を見ても心は何も感じなかった。
「僕の苦労が一般の人にも知られる様にならないのか」疲れ切った彼は独り言をつぶやき、目を閉じて空想した。
*
「クローズ就労していた、営業課の新人、辞表を出して退職したわ」
「案外早かったな。全くふざけた真似しやがって」
「これからは面接ではじかないと、業務に支障が出やがる」
課長の山下は、人事課の篠原と昨日やめた新人について話していた。その男性社員は、発達障害だったらしい。度重なる失敗に問い詰めてみるとあっさりと白状した。その上、「配慮があれば、仕事が出来るようになります」とのたまったのであきれてしまった。でも、直ぐにやめてくれたので厄介払いができたと喜んでいた。
「でもこれから、精神障害者の就労義務ができたから、発達障害者の入社もあり得ますよ」
「配慮している余裕なんて、どこもないだろう」
山下は、会社のエレベーターに乗り、篠原とは別の階で降りた。今日も変わり映えのしない一日が始まると思っていたが、予想外のことが起きた。
今までそこそこ仕事が出来ていた、部下の岡野が急に無能になってしまった。山下が指示した仕事を忘れて、居眠りをしていた。
「どうした。体調が悪いのか」
「別にどこも悪くないよ」
驚いたことに態度まで豹変した。敬語を使わず山下に向かってため口を聞いて来たのだ。それも不満そうな口ぶりだった。ビジネスマンの会話ではなく、ぶっきらぼうな中学生を思わせた。
「何か不満があるのか」
「どうしたの急に」
「いや、指示した仕事忘れてるだろう。来月の会議の資料ができていないんだが」
「え、聞いてないですよ。山下課長」
「確かに言ったはずだ。今後、俺の指示はメモするように」
「はい」
今日の岡野は何かがおかしい。まず目を合わせなくなった。顔にも表情がなくなり能面の様だった。居眠りもやたら多くなった。山下は後で岡野のことを産業医に相談することにして、女性社員の北上にデータ入力を頼もうとして、北上の机の上を見たら、書類の山でごっちゃになっていた。おまけに化粧品などの私物も散乱している。
「どうしたんだね。この乱雑ぶりは」
「ああ、山下課長。昨日もらった資料がみつからない」
彼女もため口を聞いてる。何かおかしい。課全体がたるんでいるかのように思われてしまう。
山下は、北上の話し方を注意して、私物を片付けるように言った。だが、北上は要領を得ずおろおろしている。片付け方を忘れてしまったようにもみえた。
山下はすぐに資料を見つけて、彼女に教えてやった。指で書類の所在を示したが、すまなそうな表情一つせず。無表情のままでいる。彼女も視線を山下の頭越しにさまよわせていた。
「そこにあったんですか、すみません」
「熱でもあるのか」
「ありますよ。人間ですから」
おかしいと山下は思った。彼女は口答えをするようなタイプではなかったはずだ。課の人間が少しずつだが劣化しているようだった。その日の仕事は、岡野と北上を除いては、普通に進行している。あの二人にはあとでお灸を据えてやらなくてはいけないだろう。山下は今日のスケジュールを思い浮かべてお説教の時間があるかどうか計算した。
昼食時間になり、食堂に出かける。販売機でカレーライスの食券を買い、カウンターに差し出した。しばらく待って出てきたのは、かしわそばだった。
「おばさん。俺が頼んだのはカレーライスなんだけど」
「あれ、確か、かしわそばじゃなかったかい」
おばさんは食券の半券を見て頭をひねっている。こんなことは今までなかったのに不思議だ。相手はいつものベテランのパートさんで、新人ではない。作業はルーチン化してるはずだし、わざとかと思えて仕方がなかった。
「じゃあいいよ。かしわそばで」
山下は、かしわそばを持って空いているテーブルに座った。途中、どこかの社員がぶつかってきた。危うく、そばをこぼしそうになった。今日は変な日だなと思っていると、別の課にいる林が隣に座った。
「林くん、今日はおかしなことがなかったか」
「うちの課の部下が二人、大幅に遅刻して来たんですよ」
「やっぱりそうか。うちの部下もおかしくなっている」
「若い奴中心に、たるんで来てるんじゃないですか」
「次の朝礼で檄を飛ばすか」
「最近の若者はメンタル弱いですから、あまり激しくしない方がいいですよ」
山下が昼食を終わらせて職場に戻ると、女性社員の南さんがすまなそうにお茶を持ってきた。
「すみません。課長の湯飲みを不注意から富井さんが割ってしまって、これ代わりです」
「まあいい。それより何か変わったことはなかったか」
「富井さんがシュレッダーの操作を間違えて紙を詰まらせました」
「なんてことだ。今日は厄日だ」
その日の仕事は、岡野と北上と富井の連係プレーで散々になってしまった。大事な書類を紛失したり、書類の反対側をコピーして使い物にならなかったり、挙句の果てには岡野が社内で迷子になってしまった。山下は、三人を呼び出して軽く注意をした。「なんでこんなことになったかわからない。私、馬鹿になっちゃったの」と富井が泣き出してなだめるのに一苦労だった。
会社から出て、駅に向かう途中、人にぶつかって来る者が増えてきた。朝はそれほどでもなかったのに妙な気分だ。横断歩道を渡る時も、信号を無視する車が増え、あちこちで小さな追突や交通違反が起きていた。
駅に着くと、駅は異常に混雑していた。窓口には切符の払い戻しを要求する客が増えていた。掲示板を見ると、ダイヤに乱れが生じて、まともに運行されていなかった。
山下は、近くにいた男性に話しかけた。
「今日は変な日ですね」
「あの、何ていったのかもう一度お願いできませんか」
「今日は変な日だって言ったんですが」
「いや、天気は曇りでしたよ」
周囲の人たちの会話もチグハグで、会話として成立していなかった。鉄道のダイヤの乱れに対して癇癪を起して怒鳴り合う人が、増えてきた。罵声が飛び交うようになったので、慌てて駅から出た。
鉄道は当てにならないと思った山下は、金はかかるが、仕方なくタクシーを捕まえて、帰ることにした。
「まいったなあ。今日は軽微な事故が増えて、道路はどこも渋滞ですよ」
「電車もダイヤが乱れているんだ。運転手さんなら道を知っているだろうから頼む」
「なるべく大通りを外して行きましょう」
俺はチップをはずんで、抜け道を通ってもらい、なんとか自宅に着いた。呼び鈴を押すと、妻が迎えに来るかと思ったら、出てきたのは息子の勝だった。
「母さんは、疲れたと言って今寝てる」
山下は、部屋を見て驚いた。居間が物であふれていて、洗い場は食器が山のように積まれていた。洗濯機の中には、洗い終わった洗濯物が取り込まれずに残っていて、部屋のあちこちに照明がつきっぱなしになっていた。水道の蛇口は開きっぱなしで、水が勢いよく出ていた。冷蔵庫の戸も半開きになっていて、警告音が鳴っている。
「おい。どうした病気か」
「ああ、あなた。なんか家事がはかどらないの」
妻は疲れた目をして布団に横になっていた。妻も視線を合わせてくれなかった。
「とにかくテレビで情報を得なきゃ」
テレビをつけたが、民放は放送されていない所もあり、番組表にない映画を流している局もあった。どこの放送局かはわからないが、ニュースをやっている所があり。画面を見ていると、医者らしき人物が、アナウンサーと会話していた。
「おそらく強い伝染力を持つ脳疾患が大流行しているようです。症状は発達障害によく似ています」
「流行源はなんでしょうか」
「わかりません。とにかく人ごみには出ないで、家でじっとしていてください」
「繰り返します。伝染性の脳疾患が猛威を振るっています。むやみな外出は控えて、自宅待機してください」
「馬鹿馬鹿しい。俺には仕事があるんだ」
俺はチャンネルを変えようとして、あることに気づいた。
「あれ、リモコンどこに置いたっけ?」
「それより父さん、カバンもってきてなかったよ」
*
「これぐらいになれば、僕も配慮されるだろうなあ」
御手洗は駅について、表示を見て、一駅乗り過ごしたことに気づいた。慌ててホームの反対側に行き反対方向の列者を待つ。冷たい風が御手洗の胸元をかすめて流れていった。