2:弟が出来るそうです
パン、パン、パン、とリズムをとって打ちつけられる手拍子が私を追い立てる。
「ふとももが下がっている! 後ろ足を引きずらない! 上体をゆらさない!」
パン、パン、パン、稽古場の端に引かれた直線の上をただひたすらスキップしながら往復し続けている。それもまっすぐだけではなく、一歩まっすぐに踏み込んで、左右にジャンプ、そして後ろ足を引き寄せるか一歩前に踏み込む。
毎日毎日、武術の稽古といったらひたすら道場の端っこでスキップし続けるだけ。しかも見た目と違ってきついんだ、これが。なにしろふとももを床面と水平になるまで上げないと怒られる。
「最後、一周!!」
パンパンパン、とリズムが早くなったのに合わせて素早く、しかし体幹を揺らさずスキップする。今晩もまた筋肉痛だ。お風呂でよくマッサージしないと。
「今日はここまでです、ヒルダ様」
「そう、ありがとう、バルバラ」
歩法の稽古が終わったからといって、その場で立ち止まったりしない。ゆっくりと歩きつつ、バルバラと呼んだ女騎士から受け取った手ぬぐいで汗をぬぐう。前世の記憶に、激しい運動をした後はそのまま身体を休めるのではなく、息を整えつつ少しあるいて身体が落ち着いてから休むべし、というのがあった。
しかし歩法三年とはいうものの、本当に毎日毎日歩法だけやらされるとは思わなかった。さすが父上、こういうところの手抜きはなさらない方だ。
「……本当にヒルダ様は天才でいらっしゃいます。リズムを変えても足はこびも姿勢もくずれません。そろそろ型稽古に入ってもよいかもしれませんね」
「お父さまのおかげね。あとバルバラの教え方が上手なおかげよ。ありがとう」
我が父ゲオルグは、前の国王陛下の近衛騎士団長を勤めていらっしゃった武人である。当然、それに相応しくお強くていらっしゃって、並いる騎士達が束になってもかなわなかったそうである。どうやらその才能は私にもしっかり受けつがれているようだ。ありがたいことである。
そして、私に稽古をつけてくれている彼女バルバラは、お父さまがその職を辞した時に一緒に近衛騎士団を退団し、このヴァルトハイム辺境伯領までついてきてくれた騎士達の一人である。ありがたいことで。
彼女は今では結婚もし、子供もいる身である。母親に似たこげ茶色の髪と瞳の、ちょうど五歳になったばかりのやんちゃ盛りの男の子で、時々一緒に泥だらけになって遊んであげてもいる。弟も妹もいない一人っ子の身としては、嬉しいことこの上ない。
「もったいないお言葉です。この二年、一言も文句を言われず稽古にはげまれたヒルダ様の努力のたまものです」
「歩法三年と言うでしょう? その覚悟でいたもの」
「その言葉を正直に受けとめる者は、中々いないものですよ。大抵のものは歩法も型稽古もそこそこに、打ち合いばかりやりたがるものです」
「まあ、仕方がないと思うわ。だってそちらの方が楽しいもの」
正直自分も試合とかしてみたい気持ちはあるが、この身はまだ八歳である。
前世、国体に出場したのは高校三年生の時である。あの時は準々決勝まで進んで、そこで負けてベスト8入りであった。つまり一人前の剣士と自認できるようになるまで、あと10年は鍛えないといけない。
というわけで、むしろ基礎鍛錬や身体作りを一からやれるのが嬉しいくらいである。転生によるやり直しって素晴らしい。ヲタの粘っこさは伊達ではないのだ。
稽古場を後にしてから、まっすぐ浴場に向かい汗を流す。運動着として身につけていた丈の短いチュニックとタイツをぱっぱと脱ぎ、そのままの勢いで肌着もパンツも脱いですっぽんぽんになって浴槽に飛びこむ。
浴場といっても日本やローマみたいな水周りのしっかりした造りのものではなく、バスタブと排水口があるだけの簡素なものである。当然のことながら、我ら家族用と城勤めの貴族用と騎士用と使用人用と別にあって、男女は時間で分けて入るらしい。
なお、お父さまとお母さまはよく一緒に入って洗いっこなどしているそうだ。お盛んなことである。うらやましい。
「湯加減はいかがでしょうか、お嬢様」
「よい加減よ、マリア」
私付きの侍女のマリアは、ヴォルズニア家の遠縁のゼンメルハイム子爵家のお嬢様である。
ローズゴールドの髪を頭の後ろでお団子にしている美少女で、今年で十七歳のはずである。貴族の子弟付きの侍女侍従ともなると、よほどに信頼のおける家の出身でなくては任せるわけにはゆかない。
なんせ、自力救済、つまりはヒャッハー様上等の世界なのだ。下手な人間を身の回りに置いて寝首をかかれてはたまったものではない。
「殿様より、夕食後書斎に来るように、とおおせつかっております」
「判ったわ」
くたくたに疲れた身体を湯にひたすのはなんと心地良いものであろう。この世界が中世ヨーロッパみたいな風呂を忌避する文化でなくて本当に良かった。
「それではお身体をきれいにさせていただきます」
「お願い」
父になんで呼びつけられることになったのか、疲れた頭ではろくに考えることもできず、シャボンで全身の垢が落とされてゆく心地良さにきれいさっぱり忘れてしまったのであった。
夕食後、お父さまに呼ばれていたことをすっかり忘れてしまっていた私は、マリアにそれとなくうながされて冷や汗をかきながら書斎へと向かうはめになった。
ノックの後「入れ」の言葉に入室した時には、きちんと心根も落ち着いてヴォルズニアの姫にふさわしい態度でお父さまの前に立つことができた。猫かぶりもまた貴族のたしなみのひとつなのである。
「ヒルダ、次のシーズンにはお前も一緒に王都へ行く。そのつもりでいるように」
「はい、お父さま」
お父さまの灰色の瞳は相変わらず何をお考えになっていらっしゃるのか判りづらくて、私は小首をかしげてみせて、何故ですか、と疑問をあらわにしてみせた。
「国王陛下にご挨拶申し上げる」
「はい」
貴族の子弟が国王陛下に謁見しご挨拶申し上げる、つまりその家門につらなる貴族として認めていただくのは、一般的には大体十歳から十二歳くらいのはずである。
この国では成人貴族として認められるのは、貴族専門の教育機関である王立学院の前期三年の教育を終えた時である。陛下に謁見を賜るのは、それ相応の作法や言動ができるようになったと認められたということなのだ。
私はまあ、生前の記憶を思い出してしまったために随分と早熟なのであるが、それでもたかだか八歳の小娘である。国王陛下に謁見を賜るには、ちと幼い。
「ヒヨルスリムの代わりに、私と共に社交の場に出てもらう」
「お母さまになにかありましたか?」
お母さまの健康に異常がないことは、今朝の魔術の稽古の時に確認してある。高位魔族でいらっしゃるだけあって、相変わらずのお美しさに衰えの見えない方で、女としてはうらやましいことこの上ない。
「子供ができたそうだ。四ヶ月だそうだ」
「、おめでとう、ございます」
「あれの言うには、男の子だそうだ」
今、全身の筋肉がぷるぷるいっている。これが父上の前でなければ、ひゃっほいとはねまわっているところだ。
やったぜ、ようやくのお世継ぎだ。生まれてきたら、一人っ子だった八年分たっぷり可愛がってあげよう。
ここで私は、嬉しさのあまり大切なことを失念していた。
家督を継ぐ弟ができるということは、私は政略結婚の駒として他家に嫁ぐことができるようになった、ということであることを。