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ヤバい。マズイことになった。
コンクリートに吹き晒す風も、国語教師が唱える呪文も、当てられて質問に答えるクラスメイトの呪文すら耳に入らない。
浮かれている。
僕は浮かれまくっている。
勉学が学生の本分だ。そうだ、その通りだ。エライヒトよ、よく言った。
する、すれ、せよ、知った事か!
ダメだな。僕はもうダメっぽいな。
ああ、チャイムが待ち遠しい。さっさと終われよこんな授業。
ノート取らないと怒られるから一応黒板は書き写すけど、まったく頭に入らない。意味を噛み砕く事が出来ないまま、表面を丸写すだけの単純な作業と化している。
次のテストはズタボロです。予言します。100点を取れる気がしません。
こんなのはシャーペンの無駄使いです。替え芯が何本も折れてます。何故ならば手の力加減が適当だからです。今日は朝からダメでした。
ムダに歯を二回も磨きました。
ムダに鏡の前で三回も髪をセットしました。
いつもヨレヨレのシャツとパンツなのに、ムダにメーカーブランドのロゴが目立つシャツを着て、カッコイイと思われるガラパンを選んで履いています。
どうやら授業が終わりそうです。
僕の頭もオワッテますが何か?
ヤバい。足がヤバい。
浮いているのかソワソワ感がハンパない。
多分、傍目には『トイレを我慢している可哀想な子』に見えるだろう。
ばかやろう。
そんな訳無いだろう。い、今から僕は肛門に行くいやいや、校門に行くんだ。裏門だ。そうだ、裏門で待ち合わせだ。
うわはー、うわっほーい、やっほほーい、
ニヤケてる。ヤバい、顔に出てる。
冷静に、そうだ冷静になるんだ。
紳士だ、ジェントルマンだ。
君の名は?そうだジョセフィーヌ、一杯のワインはいかが?
何を言ってるんだ、
「おい、波多野、一緒に帰ろうぜ」
中村、お前をコロス。
速やかに撲殺する。
いやいや、冷静になれ。
終業のチャイムと共に僕の前に現れたクラスメイトの中村を見つめて、僕はカバンにノートや教科書を詰め込みながら言葉を返す。
「すまん、用事あるから無理」
黒髪の短髪で背の高い級友は、スポーツに適したその体格をテニス部に費やしている。
いつも部活ですぐに教室から消えるので、今日は帰りの誘い声を掛けて来たのは珍しい。
しかしながら、僕には先約がある。
そう、先約だ。
裏門で奥村美夜を待つ。
それがもう楽しみでならなかった。今日は一代イベントだ。女の子と待ち合わせだ。男となんか帰れるものか。邪魔するならば貴様の口に青酸化合物を混入したココアをスポイトで飲ませるからな。
僕はカバンの詰め込みを完了しそれを手に持つと、机に掛けた別のリュックサックを背負う。
これは今日の為に昨夜用意した道具が詰まっている。片腕でも背負える一本ベルト式を右肩に引っかけ、目を丸くして見送ってくれる中村に背を向けた。
「おい、どっか行くのか?」
中村の投げ掛けに僕は足を止めない。
「本を読むんだ。止めるなよ」
「え?とめ……ないけどさ」
「じゃな」
「おお、じゃあ……」
中村の小さな呟きが聞こえて来たが、僕はもう振り返らなかった。
本を読みに山登り?でもするのかな?
ははは、その通りだ。
なかなか察しがいいなぁ。
おそらく、本の続きを読む。
ならば山の中のハズだ。ふ、抜かりは無い。見ていろ、今日は靴も装備も万全だ。何があっても負けないからな。
僕は廊下を突き進み、階段を降りて下駄箱へ。昇降口の扉を押し開いて校舎の裏へ回り、自転車置き場を走り抜けて裏門へと向かった。
ダッシュだった。
それはダッシュだったよ。
どこへ行くの?お母さんが倒れたんだ!とかナントカ言ってもおかしくない程のダッシュだ。
自分が何をしているのか、理解出来ているか?そうさ、女を待っているんだ。天変地異でも起きそうだな。今までにない高揚感だ。
裏門に着いた。
待機します。
はい、待機しまーす!
早かったな。
さすがに早過ぎたな。
僕の目の前を、自転車に乗った生徒が走り抜けて裏門を出て行く。
ひとり、二人とまた帰る学生の波を見送る。
歩きで帰る者も少なくない。校舎の脇から見える人影に、目を奪われては一喜一憂する。
特に女生徒の姿には超反応をしてしまう。違うと萎える。
何回か繰り返し、まばらに増えて来た生徒達の帰る姿。
裏門って意外と使われてるんだな。
中には同学年の顔見知りがチラホラと。去年、同じクラスだった奴も一人居たな。
まぁ、そんなのは当然なわけで、どうせ誰かに見られるのさ。避けられない事なんだから、堂々としてやるのが一番いい。悪い事をしているわけじゃなし、ただの待ち合わせ、そう待ち合わせだ。
奥村を待っている。待っているだけだ。ああ、まだかしらキタ~!!!
キぃタぁーあああ~!!!
うはぁー!!
待って!待ってましたぁー!!
あ、何を言おう?
こんにちは!?
やあ!僕は待ってたよ!
ちがうな。
ハァイ、マドモアゼル!
コレもちがうな。
今日もキレイだよ、
殴られそうだな。
褒めてるのにおかしいな。
ゆっくりと歩いて来る奥村美夜。
制服の上からカーディガンと、今日はマフラーをしている。ベージュ色のマフラーだ。口元が隠れて、紅潮した頬が半分見える。
僕の姿を見つけて、歩いていた速度が早まる。
断続的に、歩いて……ちょっと走る。歩いて……ちょっと走る。
手にはピンクと白の毛糸で編まれた手袋をしている。昨日はそんなに着込んでなかったのに、今日は完全防備だな。
まだ日も半ばだから、そんなに寒いわけじゃないんだが、まぁ……
可愛いからいいか。
あ、僕は今、だらし無い目をしている。
僕の目の前、5メートルから小走りに駆け寄る姿に、ペンギンぽいな、と思ってしまった。
言わないけど。
奥村は僕の目の前で足を止めた。
「ドモ、お待たせしました」
小さくお辞儀をして、上目遣いに僕を見上げる。
僕は笑顔がやめられない。
「じゃ、行こうか?」
「……はい、ワタクシ着いて行きます」
「ははっ、何それ」
「何処までも着いて行きまするぅ~」
僕たちは裏門の外へと歩き出した。
あ、もっと気の利いたこと言えば良かった。
☆ ☆ ☆
歩く僕たちを追い抜いて行く自転車の群れ。
先を歩く僕。1メートルくらい離れた後ろから、奥村があとを追って来る。傍目から見たら、一緒に帰っているのか、たまたま同じ方向なのか微妙な距離感。
僕は時々振り返りながら歩く。
振り返ると奥村が居て、目が合うと少しだけ小走りに距離を縮める。
自転車の群れが少なくなって、団地の手前、畑地帯に来た辺りで僕は足を止める。
奥村が追い付くのを数秒待ち、切り出した。
「あのさ、本を開く場所を考えてたんだけどさ」
奥村は目の前に来て立ち止まり、僕を見上げる。
「うん、私も考えてたよ。何処でもオッケーって訳にいかないし」
一応、候補として考えたのは、漫画喫茶やネットカフェでフリータイムを選んで個室を借りる。カラオケの個室でもフリータイムはあるとして、幾らかの出費になる。
図書館に行くと、勉強や読書スペースというものが一人分だが借りられて、こちらは無料だが、少し距離があるので自転車に乗って行くのが望ましい。
なるべく人目に付かない場所を考えていたのだが、あの光や長時間帰れなくなった場合も含めてかなり限定される、そしてやはり有料の場所はリスクもある。長時間帰れなくなった時の料金や、店員が室内を確認しに来る場合も考慮しなければならない。
僕の提案に、奥村は同じ事を考えていたと答えた。そしてどれも首を振る。
「やっぱりお金かけるのはやめようよ」
「そうか、じゃあ図書館に行こうか」
僕が言うと、奥村はまた首を振る。
「ちょっと遠いし、それよりも良い場所しってるよ」
え?これは意外な展開。
「どこ?」
奥村は目線をナナメ上にして、自分の頭を指差す。
「ワタクシのおうちです」
……
……
……
「え?」
「両親は仕事で夜まで居ません」
「ええええ?」
「もちろん無理にとは言いません、誠くんが良ければ、だよ」
「そ、それは……」
僕だって自分の部屋を考えた。でも家には弟が居るし、奥村の部屋だなんて使えるわけがないと、最初に除外した場所だ。
「安いよー、お兄さん安いよー」
「え、と、いいんですかね?」
「ウチは無料だよー、寄っといでー、そこのお兄さん、良い子がいっぱい居るよー」
「何でキャバクラの客引きなんだよ」
「じゃあ、誠くんのウチは?」
「え!両親は居ないけど、弟が居るぜ」
「全然いいよ、弟くん見てみたいし」
「いやいや、ダメダメ!絶対に邪魔しに来るから!」
「あそ、じゃあ、決まりだね」
言うと奥村は歩き出した。
僕を追い抜いて先を歩く。
「私の家、コッチだよ」
振り返って手招きする奥村の頬が、マフラーに隠れながらも赤くなっているように見えた。
最後はついダメなんて言ってしまったけど、僕の部屋に来てくれるなんて想像するだけでも頭の中は容量オーバーになりそう。何だか乗せられたような感じもするけど、いつの間にか前を歩く奥村の後ろに付いて歩くのは僕。おいおい、立場が逆転してるじゃないか。
☆
ヤバい。おかしい。
どうしてこうなったんだろう?
激しい記憶混濁が見られる。
白い洋風の近代住宅、さすがは新築だな、窓が小さい。
玄関の吹き抜けの開放感と、南側からの光を見事に計算して取り入れた明るい部屋、リビングにキッチン。ドイツ製のシステムキッチンは奥様こだわりの一品。収納も匠の技が活かされた隠された収納。窓に見える中庭は一本の青い竹が和室に静けさと木漏れ日を演出します。
随所に間接照明を取り入れた大人の空間、白い味のある壁材は手作りと自然を調和する、ここにも匠の技が。
いやぁ、いい家ですねぇ~。
とても、いい匂いだ、これは何の香りですか?ティモチェですか?ビダルサルーンですか?
あなたの髪に、
スゴく、ときめいています。
奥村に案内された、奥村の部屋で、中央に置かれた小さなテーブルの前に座った奥村を、僕は背後から包み込むように腕を回し、
今まさに、抱きしめようとしています。
止める者など誰も居ない。
少し振り向いた奥村の髪が揺れて、僕の鼻腔をくすぐる。
そんな嬉しそうな瞳で見つめるなよ。
吐息が近くで混ざり合う程に、僕たちは密着している。
ヤバい、
これはいかがなものか?
どうしてこうなったのかは少し時を遡る必要がある。
マテ、次回。