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☆ ☆ ☆
図書室に戻って来た僕たちは、作業中だったシール貼りを再開させていた。だが余りにもショッキングな体験が頭から離れず、冷静に作業を続けるなど不可能だった。
一冊の本にシールを貼る度に、手を止め、あの絵本に手を伸ばす。
一人でいくら力を込めても開かない本の扉は、今、何度目かの奥村の挑戦を退けた所だ。
「やっぱり開かないね」
何故か残念がる奥村美夜。
折角帰って来れたのだから、また危険をおかす必要など無い。
「二人じゃないと開かないのかもね」
奥村は机に突っ伏して僕を見やる。
「うう~、お城ぉ~」
どうやらあのお城にどうしても行きたいらしい。
その哀しく嘆願する瞳が僕に刺さる。
何故にそこまでこだわるのか?
かく言う僕も、またあの森に行く事には興味がある。かなり、まんざらでもない。
戻って来た事が心の警戒心をダルンダルンに緩ませている。
また再び戻れる可能性があるとすれば、不意打ちで行かされるよりもずっと良い。やはり下準備を改めてしてから、だろう。
図書室のカウンターの上に掛けられた時計が、4時半を示す。
僕は浮かないままの奥村に言う。
「この本、借りられないかな?」
奥村は振り向き、本来の図書委員としての顔を見せた。
「別に貸し出しは出来ると思うよ。入荷したばかりだけど、貸し出しの手続きしてあげようか?」
「ああ、頼むよ」
「貸し出しカードは持ってる?入学式の時にもらった青いカード」
「たぶん……無い。ていうかカードすら覚えてない」
「あはは、みんな無くすんだよね。じゃあ私のカードでやってあげる。一週間だから来週の金曜日までに返すんだよ」
「わかった」
奥村は椅子から立ち上がり、本を手に図書室の受付カウンターに向かう。カウンターの端に可動式の板がバネを効かせて入口の役目を果たす。
カウンターの中で一瞬しゃがみ込んだ奥村が、黒い皮の学生鞄を持ち上げてカウンターに置いた。奥村の物だろう。そういえば僕の荷物は教室に置いたままだ。
奥村は鞄から水色の厚い紙で出来たカードを取り出す。どう見ても会社などで使われているタイムカードにしか見えない。
カウンターのペン立てに起立したボールペンで水色のカードに何やら記載している。
その横顔が何故か微笑んでいるように見えた。
来週の金曜日に来たら、きっと奥村が居るんだよな。それまでに色々調べて、分かったことをまとめておきたい。
そうだ、荷物取りに行かないと。
僕は立ち上がりながらカウンターの中の奥村に声を投げる。
「ちょっと自分のカバン取って来る。すぐ戻るから」
「あ、うん。わかった」
奥村はニコっと笑った。カウンターの中の奥村はちゃんと図書委員に見える。さっきまで僕の後ろにくっ付いて歩いてた時は、少し臆病で落ち着きも無い、天然さんだったのに。
僕は図書室を出て、廊下を急いだ。
ダッシュする程では無いが、いくぶん小走りにはなっている。
夕暮れの学校は人影少ない。
運動部の活動や練習の声に、ブラスバンド部の練習の音。
ざわめき。
遠くに誰かの笑い声。
僕は、廊下を急ぐ。
お尻にユサユサと、何かが当たる。
僕が歩くリズムに合わせて、触れてはその存在感をアピールする。
はて?何だっけ。
腰に揺れるのはコットンの袋。
ベルトに結びつけた、奥村の物だ。
あ、やべぇ。まだ返して無かった。
僕は袋を掴む。そして袋の上から伝わる三本の手ごたえと共に、背中に走る強烈な悪寒を感じた。
「ウソだろ……」
誰か嘘だと言ってくれ。
制服のポケットに手を突っ込む。確かに自分が入れた物がそこにある。そりゃあそうだ。入れたのは自分だからな。
取り出した白いロウソクを見て、苦笑いをする。さすがに腰の袋を開ける気にはならなかった。
☆
教室から荷物を持って来て、図書室のドアまで急ぐ。
廊下から見えた図書室の前に、奥村が立って居た。自分の荷物を手に、僕が走り寄るのを待っている。
「あれ?どしたの?」
僕は奥村までの距離を1メートルまで縮めながら言った。
奥村は一瞬だけ下を向いて、和かに笑みを見せて答える。
「さっき先生が来て、もう帰りなさいって。だからもう閉めちゃった」
図書室のドアに触れると、カギのかかった音と手ごたえが伝わる。
「そか、もうちょっとでシール貼り全部終わるんだけどな」
何だか中途半端で残念だ。仕方ない。
奥村は赤いヒモが付いた鍵を見せる。それが図書室のカギらしい。
「最後にこの鍵を職員室に返すの」
「そか」
短く言葉を返した僕は、職員室に向けて歩き出した奥村の後ろについて行く。
本当ならここで先に帰る選択もあるのだろうが、もう少し、奥村と話したかった。
廊下を歩きながら、奥村が振り向き、あの本を差し出した。
「ハイこれ、重すぎだよね」
ガッシリと重量感を得ながら、受け取ると、僕は自分のカバンに本を入れる。カバンの中の教科書やノート、ロウソクのような物を覆い隠すように。
「僕も奥村さんにコレ返すの忘れてたよ。ハイこれ」
コットンの袋を差し出す。
もちろん中身はカバンに移してあるから、空の袋だ。
「あ、そだね。ケイタイ入れなきゃ」
奥村がその袋を開けて、ふっと立ち止まる。
あ、気付いたな。
「あれ?これって中身は?何も無かった?」
「あー、うーむ、そのー、まぁ何と言いますかー」
僕は正直に言うか迷った。
奥村はハッとした表情を浮かべる。
「もしかして?」
黙って頷く僕。
ぼくは正直モノだな。
「その、もしかしてます」
「まさか!」
「そのまさかです」
「持って来ちゃったの!?」
「いやぁ、来ちゃいましたね」
「ウソぉ!」
僕はカバンの中に手を突っ込んで、紙で巻かれたロウソクっぽいモノを取り出す。
「ほらね」
「出さないでいいよこんなとこで!」
そりゃあ職員室の前で爆発物所持はマズイよな。仕舞おう。
「いやぁ、まさか僕も持って来てるとは思わなくて」
「かんべんしてよー、どうするのそれ?」
「うーん、返した方がイイと思う?」
奥村は眉根を寄せて頷く。
「そりゃ、きっと、返した方が……」
「だよなぁ~」
参ったぜ。またこの本を開かなくちゃダメって事だろ。
「カギ、返して来る。ちょっと待ってて。帰らないでよ!」
強い口調で言うと、奥村は職員室に消えた。
『失礼しま~す、お疲れ様でした~、失礼しま~す』
さっきまでの奥村の声とは違う、少し高い、よそ行きの声が聞こえる。
僕はカバンから取り出した発破をハマキに見立てて口にくわえるというナイスジョークをしながら待つ。そして再び職員室のドアを開いて出てきた奥村にしこたま殴られた。
「オウッ!ジョーク!イッツ ジョーク!」
「ノォ ジョーク!ノォサンキュー!!」
☆
昇降口、下駄箱が並ぶ列の前で奥村が僕を待っていた。靴を履き替えた僕は、既に履き替えて待っている奥村を見て、再び自分の上履きを見る。泥が着いた上履き。持って帰って洗う事を考えると投げ出したくなる。
奥村は持ち帰るようで、キチンと上履きを白いビニールの買い物袋に入れて、鞄へと入れていた。
うう、面倒臭さい。
でもここで持って帰らないと奥村にイヤがられそうだしな。
汚れた上履きの裏同士を合わせて、仕方なく手に持つ。すると奥村が僕に近寄り、自分の鞄から小さく折り畳んだビニールの買い物袋を取り出して僕にくれた。
「便利だな。猫型ロボットみたいだ」
「学校の帰りによくスーパーで買い物するから、いつも二枚くらい持ち歩いてるの」
「ああ、帰りにしょう油買って来てってやつな。わかるわかる」
「……行こ」
「ああ、ありがと」
僕は上履きをカバンに入れた。
昇降口の大張りのガラス戸に手を掛けながら、奥村が尋ねる。
「……正面じゃなくて、裏門から帰らない?」
「いいよ、別にどっちから出ても距離変わらないし」
「そ、良かった」
奥村が重いガラス戸を押し開く。非力なのか外の風に負けているのか、モタつく奥村の後ろから僕はドアに手を掛けてグイと押した。どうやら非力な方らしい。
一歩外に出ると冬の冷たい風が僕たちの頬を撫でる。
思わず目を細めて奥村を見ると、僕の顔を振り返りながら同じように目を細めて居た。
「あ、忘れてた」
言って奥村は頭の上に手をやり、髪を丸めたお団子を外した。
黒くて艶のある髪がふわりと舞う。
今まで見えていたうなじも耳も、隠れてしまう黒髪がゆるく波を作り、甘い匂いを振り撒きながら肩までのカーテンのように風に揺れていた。
「こっちのがあったかいのです」
ふふふと笑う。
正門の脇に運動部が駆け回るグラウンド。正門には一足先に帰る生徒の姿。別に知り合いではない。それらに背を向けて裏門へと向かう。
校舎の裏側に出て、自転車が並ぶ駐輪場を横目に見ながら歩く。
ますます人が居ない。
校舎を盾に歩くと幾らか風が弱く感じる。なるほど、こっちのが寒くない。
「奥村さんは家まで歩き?自転車?」
「歩きだよ。誠くんは?」
「僕も歩きです」
「あ、じゃあ近いんだ」
「うん、15分くらいかな。N町の団地。奥村さんは?」
「……同じくらいかな、F町だけど」
「あー、裏門右に出て、僕はずっと真っ直ぐだけど、奥村さんは途中で左に曲がる感じだね」
「うん、そだね」
「途中までは一緒に行けるね」
「……うん。一緒ですよ」
「でも奥村さんって同じ小学校だっけ?」
「ううん、違うのです。実は私は中1の時に引っ越して来たばかりなのです」
「あ、そーなんだ」
「親がマイホームをF町に買いまして、私も自分の部屋が欲しさに友達に別れを告げたのです。ワリとあっさりと」
「あっさりかよー」
「えへへ。今は両親共働きで必死に働いてる。だから私がたまに晩ご飯の用意もするの」
「ああー、そりゃスゴイな」
二人で裏門を抜ける。
人影は無く、沈みかけた夕日が少し眩しい。
「誠くんは兄弟とか居るの?私は一人っ子だけど」
「ああ、三つ下の弟が居るよ。両親は共働きみたいなモノかな。親父は大学で講師してて、母さんは化学者で同じ大学で研究に没頭中。たまに帰って来るけど、基本的にレトルトとお惣菜が無いと生きていけない仕様だ」
「スゴイね。さては誠くんはサラブレッドだね?」
「ん〜?親の化学の資料や本を遊び道具に育ったからな。部活で化学部に入ってみたけど、やってる実験のレベルがつまらな過ぎて辞めた。今日辞めた」
「え?今日辞めたの?」
「ん、なんて言うかさ、中学の部活でやるには設備が足りないんだ。みんなは手作りの火薬に火を点けてポンポン鳴らして満足らしいんだけど、僕がやりたい実験はまず遠心分離機が要る」
「……中学にソレは無いよ」
「だから行く気が無くなりました」
「高校に行っても無いと思うけど」
「それは激しく同意と言うヤツだ」
僕が呆れ口調で言うと、奥村はクスクスと笑っていた。
僕にも自然と笑みがこぼれていた。そういえば女の子とこうして長いことおしゃべりするなんて初めてだな。
ちょっと前までは嫌われたと思ってたんだけど、案外嫌われてないのかもしれない。
むしろ……
いや、ソレは無いよな。
僕なんかにモテる要素は一切無いからな。逆に女子に嫌われるって事なら3秒もかからない自信がある。
隣を歩く姿をこうして改めて見てみると、奥村は可愛いと思う。
他の女子と比べてもいい線イッてるのではないかなぁと思うのだがこういうのは口に出すと大抵が女子の反感を買うから不思議だ。
個人の意見や趣味趣向に第三者がとやかく言うのは野暮だろう。
特に化粧っ気が強くないとこや、垢抜けているわけじゃないとこがいい。玉子形の輪郭に肩まで伸ばした黒い髪、眉はキリっとしてカッコイイし、目は丸みを帯びて優しい。それが笑うと細くなって頬が緩く膨らんで思わず触りたくなる。
そして唇、柔らかそうな厚みのある膨らみ、たまに噛み締めて何かを考えてたり。悩んでいるみたいに見える。
もし……もしも付き合うなら……こんなコがいい。
まぁ、無理なんだろうけど。
そしてその想いを心に閉じる。
きっと他に、イイ彼氏って奴が居るんだ。きっと出来るんだ。全てのイイ女の子には、先約があると思って接するべきだ。
前を向いて歩く。視界に続くアスファルト、草原や畑がしばらく続いた後、道沿いに民家が増え始める。
僕は車道寄りに歩き、少し前を歩く。
左に奥村が半歩下がるように歩いている。たまに走る軽自動車を避けて、一列に並んだり。
男が自分の左側に女を置くのは、本能的に護ろうとしている表れだ。
人間は心臓側を守護防衛する本能がある。女性が右側を歩きたがる場合、その女性が防衛本能として、左側の男性や子供を護ろうとしていると考えられる。
僕は、奥村を護ろうとしている。
一歩前を歩くのは、先導して、優先権を得たい表れだ。
僕は、奥村を……?
護りたいと、思っている。
そして、独占したいと、思って
「誠くん、聞きたい事があるの」
奥村は僕の左腕を後ろから引っ張り、足を止めた。
僕は振り返る。
視界に飛び込む、奥村の姿。
僕より少し背が低いからやや見上げる視線。
眉が少しだけ寄り、目が困ったように潤んで見えた。
僕の袖を掴んだまま、離さない。
「……何?……どうした?」
何か助けて欲しいのかと思った。
僕の本能が護らなければならないと叫んでいる。
でも、奥村は別に困っている訳じゃなかった。
「付き合ってる人とか、居ますか?」
……
……
……え?
「いや、居ないけど?どしたの?」
「気になるから!」
奥村は視線をそらさなかった。
この時、僕は図書室で自分が投げ掛けたデリカシーのかけらもない質問の意味を思い知る。
僕は渇いた喉に、ゴクリと唾を飲み込む。
早鐘のように鳴る心臓の音よりも、噛み締める奥歯の音が気になる。
僕はあの時、なんて言った?確か、居たら困るとかナントカ、
「今日は、手伝ってくれて、ありがとう」
うおぅ、突然お礼か、
「あ、いや……たいした事してないし」
「私、買い物して帰るから、コッチだから……」
奥村は左に見える住宅地への細い道を指差す。
「あ、そか。じゃあ……また」
「うん、じゃあ……」
「また明日な」
「うん、また……明日」
奥村は笑顔だったけど、とても寂しそうな目をした。
明日は半日だけど授業はある。だから、明日。
ゆっくりと後ずさりながら、左の道に行く奥村。
でも、別のクラス。
僕たちの距離が広がる。
僕は、このまま帰すのも、帰るのも、イケナイ気がした。
でも何を言ったらいいのか、全然セリフが出て来なくて、奥村との距離が開いていくのに焦って、口を突いて出たのは、本当にただの思いつきだった。
「明日の授業終わったら、裏門で待ってる!この本の続きを一緒に読もう!」
自分のカバンを持ち上げて、手を振った。
奥村は本当に嬉しそうに、笑顔になって、小さく手を振り返した。
「わかったー、待ってまーす!」
夕陽が奥村の影を長く映しながら、僕の横顔を照らす。
おそらく赤面している僕は、夕陽がうまくゴマかしてくれていると期待して胸を高めていた。