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空気が変わったのを感じた。
肌で感じる空気、それが冷たくなった。
冬の図書室には暖房が付いており、常に室内の温度は快適に保たれていた。そのはずだ。
だが顔の皮膚を舐める風や、手の甲から感じる冷気は、慣れた空調設備の整えたそれではなく、教室の外に吹いていた冬の低気圧でもない。
足元から伝わるザラついた土くれも、教室の木目フロアでは無い事を教えている。
僕は眩しさで閉じた目をゆっくりと開いた。
目に残る波紋は次第に薄れ、視界を取り戻しながら異常事態を僕の脳裏に焼き付ける。
目の前に広がるのは木、緑の覆い茂る森林、太い幹が空に向かい成長し、曲がりながら枝葉を広げる樹木に絡まりながら花を咲かせるツタの植物。
酸素が濃い。
遠くに聞こえるのは鳥の声か、風にそよぐ葉音が辺りを充満していた。
足元を見る。
土くれや木の根を覗かせたケモノ道。細く、長く伸びる先はゆったりとカーブして視界から消えている。まだ先はあるようだが、それが森の中なのか外へと続く道なのか今は知りたい。
何が起きた?
光に包まれた所までは覚えている。夢中で掴んだ手も。
そうだ、僕の右手は空っぽではない。一つの柔らかくて温かみを帯びた手のひらを掴んでいる。
僕は掴んでいた手をぐいと引き寄せた。
「きゃっ」
その手の持ち主である奥村美夜は小さく声を上げて僕の身体に寄りかかる。急に引き寄せたからバランスを崩して当然だ。
僕はその肩に手を回し、少し背が低い女の子を優しく抱き止めた。
僕の肩に奥村が顔を寄せ、頭に乗せたお団子をしきりに動かす。何か戸惑っている。動揺するのも無理はないな、突然光に包まれて森の中だ。
「奥村さん、大丈夫?どこか痛い所無い?」
僕は努めて優しく尋ねた。
奥村が動揺している事が、逆に僕の頭に冷静なスイッチを入れた。
周囲にもう一度目を配る。
多少見慣れない植物ではあるが有酸素状態を維持しているとして、光合成して酸素と思われる空気を循環していると仮定する。
つまり光イコール太陽、太陽イコール地球に酷似した惑星及び天体。
銀河系であるとして何かの拍子で物体の移動が行われた?
光によって飛ばされたとしても、地球であり地上である事が最も有り難いのだがな……しかしながら瞬間移動とは恐れ入る。おかげで校内を歩くための上履きのままだ、汚れたら洗わないとダメじゃないか。
冬のはずだがここはそんなに寒くはないな。
木々に遮られて日が当たらないから風が冷たく感じるだけで、春か秋頃の気温だ。
木々に緑が多い、まだ夏の終わりとしても、日本が冬の間にそんな季節の国なんか知らん。
さて、周囲に敵、及び肉食系の獣の気配は無し。自分の五体満足、装備は制服に上着のパーカーが一枚か。
あとは奥村だが……?
「奥村さん?」
抱き締めたままの奥村にもう一度声を掛ける。
彼女は目を閉じて、僕の腕の中で薄っすらと微笑んでいるように見えた。
「大丈夫?」
再び聞くと、
「大丈夫。このまま死んでもいい」
と、訳のわからない事を言って返す。
安全を確認した矢先に死なれては困る。
僕は奥村の肩と右手から手を離し、解放した。
「あ、そんなぁ」
何故か残念がる奥村。周りを見回して僕に尋ねる。
「誠くん、ココどこ?」
「解らない。僕が聞きたいくらいだ」
とにかく、この場で得られる情報がもう無さそうだ。移動するべきか。
奥村の服装を見る。
制服のブレザー、上着には黒いカーディガン。何故か腰にはコットンの巾着袋をぶら下げている。
そんなに大きくはないが、ハンカチやサイフ程度なら入りそうだ。女の子が持つ『秘密の小袋』というやつか?トイレに行く時には何故か必ず持って行く、男子には解らない秘密の小袋だな。今は中身の詮索はしないでおこう。
森の中を見回して、獣道の伸びる先がやや登りになっている事に気付く。
右手から奥に行くにつれて傾斜している。
太陽と思わしき光に指先で影を作り、自分の手のひらに日時計を作る。
太陽が作る影はその長さや角度でおよその時間が解る。季節や国にもよるが。影が短い。つまり太陽が高い。今はまだ正午か昼過ぎ辺りと見る。
北半球だとして、太陽の方角が南と仮定して、獣道の右手が東、左手が西。
右手に登り、開けた場所から位置を探るか、左手に下って運が良ければ森を抜けられるかもしれない事に賭けるか。
ただ、森や山林の場合、道は平坦ではない。今見えている場所がたまたま傾斜しているだけで、すすんでみたら山の中にさらに入って行く事もあるのだ。
「どうしたの?早く行こうよ。帰ろうよ」
うむむ、奥村の発言が突拍子も無く希望が湧かない。
仕方ない、とにかく、現在地を知りたい。山の上か下か、手掛かりが欲しい。
となると、上だ。上から見るのが早い。
僕は上着のパーカーと制服のブレザーを脱いで奥村に手渡して言った。
「ちょっとコレ持って、もう少し待っててくれる?」
「うん、どうするの?」
「上から見る」
僕は周りの木の中から、枝葉の太い、比較的登りやすい木を選んで枝に飛び付いた。
懸垂から枝に乗り、次の枝に手を掛ける。木の上をとにかく目指す。
一本の木の、枝葉が日光をまともに受ける位置まで登ると、枝の隙間から山の景色が開けて見える。
どうやら山の中腹ではあるが、そんなに上という程でもないらしい。
木々から見える全景を見回すと、南側に太陽を反射させる水面、湖のようなものが見える。
もしも湖に流れ込む川があれば、それを伝って湖に出られる。そして湖から海に続く川、もしくはそれを辿れば町に続くはずだ。
ならば道は下り側、左手に獣道を進む事にする。そして南側に出る事を意識しておく。
ついでに木の上から獣道の先を見据える。うねるように続く道、そして見えるのは、木の屋根。
むむ?
「山小屋をはっけーん!」
とにかく、山の中で野宿、からの遭難は免れる、かもしれない。
僕は急いで木を降りた。
不安そうに見ていた奥村から上着を受け取る。
「すごいね!木登りなんてさすが男の子だね!」
何だか褒められた。
まぁ、誰でも出来ると思うけど、褒められると悪い気はしないな。
僕は奥村に小屋の方角と目測での距離を教え、その小屋に向かって歩き出した。
木造の小さな小屋に辿り着くまで、途中にクマもイノシシも、スライムも出なかったのが心残りでならない。
獣道を進んで辿り着いた小屋は、黒く塗った木の板を貼り付けた単純な造りで、はめ込まれた窓のソーダガラスから中を覗くものの、残念ながら人の気配は無い。表に乱雑に置かれた荷物運びの一輪車や空になった木の樽が地球文明である事を予測させる。
何より、木の樽にはアルファベットらしき文字がある。これは英語圏内だという証拠だ。
ただ、その樽には危険物だと思わせるバツ印やドクロの表記もあった事が不安にもさせる。
小屋の裏手にはもう一つ、さらに小さな小屋が。これは倉庫かトイレではないかと想像したが、カンヌキと鉄の鎖、そして錠が付いている事から倉庫であると断定する。
小屋の入り口に立ち、気配が無いと知りながらも扉を叩いた。
「すみません!ごめん下さい!ハロー!ボンジョールノー!」
僕の声だけが森に響く。
背後には奥村が不安そうに隠れるように立つ。
誰もいないようだと確認して、僕はドアノブに触れる。
打ち付けの金属のドアノブを引く。ドアはあっさりと開き、薄暗い室内を覗かせた。
窓から差し込む陽射しが舞い上がる埃をキラキラと写し出していた。
一部屋のみ、奥に二つのベッド、二段になっていてワラを編んで敷いてあるだけの粗末なモノだ。
小さな机が一つ。窓のそばに。
壁にはツルハシ、シャベル、ハンマー、穴掘りの道具だな。
てことは、表にあった一輪車も含めて、トンネルを掘ったり、鉱山なんかの作業用の小屋かしら。
埃がたまっていないので1日、2日以内には誰かの出入りがあったと見るべきか?
やや天井が低い。
いや、これは天井にも何かあるという事。二階部分だな。
壁に掛けられたハシゴを見つける。それの真上には天井に続く四角い穴。
屋根裏だと思われる。
「ちょっと中を調べてみようか」
僕はぐるりと部屋の中を調べ始める。道具や机などから使えそうなモノを物色した。
紙の袋が数枚、羽ペン、黒インク、丸めた紙、鉄のカギが一つ、ガラスの瓶に入った小麦粉、塩、鉄のフライパンぽいもの、だがコンロなどの火を起こせる場所が見当たらない。
トイレも無い。
紙切れや何かの包み紙らしいモノはたくさんある。
しかし、室内での火器は?ロウソクすら無いのか?
僕はカギを手に、小屋の裏にある倉庫に向かう。
奥村は梯子を登り、一人で屋根裏に上がって行ったようだ。
鉄の錠前を外し、鎖を緩める。開いた扉を開けると、目に入ったのはあの木の樽。危険物マークを向けて幾つも並んでいる。これだけか?
「誠くーん!ちょっと来て!」
奥村の声に扉を閉めた僕は、部屋の中に走り、梯子をよじ登った。
屋根裏は立ち上がるスペースが無く、ヒザを曲げているしかない。
四つん這いでお尻を向けている奥村が、しきりに何かを指差している。
ガラスの窓。小さな覗き窓のような、明かり取りのためのソーダガラス。
「アレ見て!」
僕は見事なお尻を眺めるのは口惜しいながらも後にして、奥村と同じように四つん這いに屈んで窓から外を見た。
薄くボヤけたガラス越しに、森林の木々の隙間から覗く湖。そして、
「ほらアレ、お城だよ!」
白い西洋風のお城。
これって、見覚えのある取り合わせだよなぁ。
「奥村さんはどう思う?」
「え?ディズニーランドみたいだよね!ステキなお城!」
「そうじゃなくて、この景色を見て、今、僕たちが置かれた状況を冷静に考えて、どう思う?」
「うーん?」
「森に湖、そしてあのお城。連想してみてよ」
もしも僕の空想とも言うべき答えと同じならば、僕は次の予測を立てなければならない。
僕だって、毎日が勉強ばかりじゃない、人並みにテレビゲームもするしマンガも読む。ファンタジーに抵抗は無いし、非日常はウェルカムの精神だ。
「多分だけど……」
奥村の答えは、
「……あの本の中に吸い込まれた?」
僕の空想と同じ答えだった。