18
何か夢を見たわけじゃない。眠りからの目覚めが必然なのか、誰かの声がしたのか、僕は不意に目が覚めた時、白い土壁と同じ色をした天井をしばらく見上げていた。
霞む世界と見慣れない天井に、僕の意識はゆっくりと揺れ動かされる。
数回、瞬きをしてから周りを見ようと首を動かして、電気のように脊椎を走る激痛に呻く。僕の全身を駆け巡る筋肉が軋む痛みが、揺れていたはずの意識をハッキリとした表世界に連れ戻す。
見慣れない家の、見慣れないベッドの上に僕は居た。
乾いた土壁の臭いに混ざって、アルコールと葡萄の香りを感じる。果実の香りがわずかに食欲を思い出して、口の中に唾液を分泌してくれた。
木で出来たベッドにはふかふかの毛布が敷かれ、寝心地はわりと良い。たが、いくらベッドが良くても身体の激痛は無くならないわけで、身を起こそうとした僕は何度も悲鳴を上げた。
土壁に開いた四角い穴が隣の部屋に続く窓の代わりのようで、そこから男が顔を覗かせた。あれはワシっ鼻が特徴的な、僕が命名した中年の酒屋さんワッシーだ。
「マコト!目が覚めたか!」
木製のドアをバタンと勢いよく開いてドカドカと部屋の中にワッシーが現れ、駆け寄って来る。僕の目の前で身を屈めると、体制を崩した僕の身体を仰向けに戻してくれた。
激痛が和らいで、僕の意識は冷静に周囲と自分の状態を観察し始める。
ワッシーが安堵した様子で僕に話しかけて来るが、僕はそれに対して喫茶店でラジオを聴いているだけのようにしか捉えきれない。今はただ自分の事だけで必死だった。
「目が覚めて良かったぜマコト!あのまま放っておいたら病院のヤブ医者に連れて行かれちまうからよ、取り敢えず俺の家に運んだんだ!あのあと王宮からエライ医者も来てくれてよっ、全身イロイロ折れてるかもしれないけど大丈夫だって言ってたぜ!」
そいつはエライ医者だな。
何だか助かるものも助からない気がするよ。
そんな事も冗談めかして言ってやりたかったが、しゃべると痛いからやめておいた。
えーと、……何時間くらい経ったんだ?
こっちの世界では時間が経つ事も大事だけど、現実世界との関係もある。どれだけ寝てたかよりも、どれだけ物語が進んでしまったのかを見極める必要がある。それが現実世界での僕らの時間に影響を与えるからだ。
次第に頭がハッキリとしてくると、色々な事が思い出される。例えばあの巨大なドラゴンが奥村を連れ去った事が物語にどんな影響を与えているのか、気になる進行状態がよく分からないじゃないか。
物語は終わりまでぶっ飛んでしまったから、ジャーマハルの婆さんはキスしろ、みんなもいいぞキスしろコールだったんじゃなかったか?
あのドラゴンは何なんだ?
ここに来てラスボスとか、まさか隠しボスとかいるのか?
奥村の見せた必死な顔と、何かを叫んでいた姿を思い出して、僕は痛む身体を振るい起こした。
寝てる場合じゃないよな、これ。
「ワッシー、僕はどれくらい寝てた?」
尋ねる。
ワッシーが返した言葉は短いものだった。
「まるっと二日間だ」
……
……
……なに?
僕は愕然とした。
「お嬢ちゃんが連れてかれてショックだと思うが、まずは自分の身体の心配をしろ」
ワッシーが神妙な顔で言うと、僕の中の体内時計がまったく役に立たっていない事を知る。
まる二日だって?
数時間とかそんなレベルじゃないのか!?
なんてこった。
……美夜は?
美夜はどうなったんだ!?
余りの事に逆に冷静になろうと頭を回転させる。
最初から時間軸を思い出して、カラオケ部屋から本を開いた事、ドラゴンが現れた事、どっちに飛んで行った?
今は身体がヒドイから頭を使うしかない。
あの時、事前に打ち合わせや僕の知っている事を教えておけば、まだ何かマシな状況になったんじゃないのか?
こんな全身打撲だって、本から出てしまえば元に戻るはずだ。二人で同時に合言葉を言えば、なす術無く連れ去られる事にならなかったかもしれない。
これは僕のミスだ。
甘かったんだ。
絵本だからと舐めてしまった。
最初はあんなに慎重に準備までしていたはずなのに、風呂場で気付いた情報に慎重さや危険だって意識が無くなってしまったんだ。
合言葉、奥村が何処に連れて行かれたのか分からない。離れた場所に居る状態で同時に言うなんて不可能だ!
……
……
……そうか、
冷静に考えれば簡単な事だった。
あの時、奥村はこう叫んでいたんだ。
「ブックマーク」
……
……
……
僕はヤニ臭い部屋に居た。
ベッドの温もりは消えて硬いソファが僕のケツの下にある。
歌詞を映すはずのテレビモニターがアーチストの歌をランダムに再生させている、薄暗いダウンライトとミラーボールの安い照明。
暗がりの硬い床に、うずくまるのは丸く背中を曲げた人影。
黒い髪が無造作に波打ちながら、ホコリにまみれ、ボロボロになってしまっていた。
「……ぐ、……まぁぐ……ぶ……ぐ……ばぁ……ぐ」
丸い背中が小さく唱え続けていた。
きっと泣いていたんだろう。
ずっと叫んでいたんだろう。
言い続けていたんだろう。
何処に連れて行かれたのか分からないけれど、
奥村はずっと、
この二日間、
「……ぐ、ばぁ…ぐ…」
僕を呼んでいたんだ。
身体の痛みがまだ消えない。
戻って来てもすぐには治らないらしい。
痛む身体を起こして、丸い背中に絞り出すように言う。
「ゴメン……君を、守れなかった」
僕が声を掛けると、ビクンと身体を震わせて、丸い影がゆっくりと振り返る。
ずっと唱えていたから気づかなかったのか、戻って来た事にすら気づかなかったようだが、それは彼女にはどうでも良いようで、小さな丸い影は立ち上がる。
返す言葉よりも先に奥村は、僕の姿を見付けた瞬間に、フラフラと歩み寄って、倒れ込むように僕の首に両腕を絡ませてしがみついて来た。
「ばごどぐん!!……じんじゃっだがと!……おもっだ!!!」
さっきまでこの部屋で綺麗な歌声を奏でていたはずなのに、奥村のその声はすっかり変わり果てていた。
僕は身体に走る痛みを超えるほどにこの胸が苦しくて、切なくて、夢中で奥村を抱き締めた。
「美夜、ゴメン!本当に、ゴメン!!」
抱き締め合いながら、お互いの体温と、匂いと、汗や血の跡を確認する。
膝の上に乗せた奥村が軽いのは、気遣ってくれているからなのか。たった二日で痩せてしまったのかもしれない。
そのまま五分もすると、僕の身体から痛みは消え始めて、奥村の声も、元に戻っていった。
☆ ☆ ☆
テーブルに置かれた4つのグラスはジュースと氷をまだ波々と満たしており、グラスに付く水滴はまだ少ない。中村と松下の姿は無かったが僕たちが本に入ってからさほど時間は経過していないらしい。
泣き止んだ奥村の頬を伝う涙の跡を親指で拭う。冷んやりとしながらも柔らかな温かみがあるのは彼女の体温のせいか。頬に当てがう僕の右手の平をくすぐったそうにしながらも拒否しないのは何故だろう。出来ることならこのままずっと柔らかな素肌に触れていたい。
不思議と落ち着いているのは、奥村が無事だった事の安堵と、現実世界にまた戻れた事の安堵だろう。
「良かった。ホントに治ってる」
奥村の呟きに、頷きを返す。
「さっき言ったろ。すぐ治るって。声もちゃんと治ってるし」
既に僕の中にあるのは冒険心などでは無くなっていた。せっかく戻れたのだからこのままでいたいと思うのは当然だろう。それが脅威からの逃避だとしても、また奥村を危険な目に合わせる事などしたくない。そう思う僕の心を知ってか知らずか、奥村は首に回した腕を解いて僕の右手に触れた。両手を添えて自分の頬に当てがう僕の右手を包み込むと、柔らかな笑顔を見せて瞬きする。
「私を助けに来てくれますか?」
奥村が向けた問いに、即答出来ない自分が居た。
奥村は、僕の右手に頬を擦り寄せて、言葉を続ける。
「私、待ってます。信じて、待ってますから」
「でも、奥村さ……」
言いかけた僕の唇を人差し指の先で封じる。細めた瞳がちょっと悲しそうに潤んで、僕に要望する。
「美夜って呼んで」
その一言に、さっき咄嗟に名前で呼んでしまったのを思い出して、ちょっと照れ臭くなってしまう。
でもまぁ、本人に呼んで欲しいと言われてしまっては呼ばないわけにはいかない。なんて、自分を擁護したところで、僕もずっとそうしたかったわけだが。
「でも……美夜、また危険な目に合うかもしれない。無理して本を開く必要はないだろう」
すると彼女は即答して返す。
「あります。私を奪われたままでは、ご褒美はあげられません」
ちょっと偉そうに言ったあと、拗ねた子供のようにプイと横を向いた。
「ご褒美って何だよ」
僕が尋ねる。
「私の……」
彼女は振り向き、両目を閉じてゆっくりと僕の顔に近づいて来る。
静かに閉じられた両瞼。
ピンク色の唇。
……
おいおい、まさか。
ゆっくりと迫る唇は僕の唇から10センチ手前で止まったあと、彼女の瞳が開いて瞬きする。
「……ファーストキスです」
イタズラした後のように笑むと、美夜はすぐ様離れて立ち上がる。
赤面しているのだろう、僕を振り返る事なく、あらぬ方向を見上げている。
うわぁ、めちゃ欲しい……
それは欲しいぞぉ。
思わずにやけてしまう所をぐっとこらえて、美夜の後ろ姿を見ながら僕は立ち上がる。身体に痛みがもう無くなっている事を再度確認して、僕は美夜に言う。
「一人で大丈夫なんだな?」
「はい」
美夜は振り返って頷いた。
「じゃあすぐに迎えに行くから、おとなしく待ってろ」
「はい!」
美夜は嬉しそうに跳ねた。
僕と美夜は手を繋ぎ、本の前に向かう。
いざ、ってここに来て、ちょっとヒントが欲しい。
「あのドラゴンかなり遠くまで飛んでった?」
美夜は少し首をひねり、
「山っていうか森?びゅーんって飛んで、一度着地してもう一回飛んで、今は洞窟みたいなトコに居る。身の回りの世話する人みたいな女の人がひとりだけ居て、パンとかリンゴとかくれたよ」
「……ふーん、メシ付きなら死にゃしないか」
「お風呂はなさそうですが」
「それはいかんな。急いで行くわ」
「いつまでに?」
「そうだな……夜までには」
「ちょっと、ほぉんとにぃ~?山を二つ越えて来るの!?」
「問題ない」
「でっかいドラゴンも居るよ?」
「ん~、まぁ、たぶん、問題ない」
「無理しないでね」
「するさ、俺の人生で一番無理しまくってやる」
「じゃあ……」
「うん」
「……待ってるから」
「ああ、期待して待ってろ」
僕と美夜はお互いに見つめ合った後、二人で同時に本を開いた。
光を放つ魔法の絵本は、4つのグラスと共にテーブルの上に置かれたまま、僕たちを見送った。