17
目の前に広がる光のカーテンが消え失せると、僕の視界に昨日見たばかりの群衆の目、人垣が現れる。さっきまで居た歌唱遊戯室のヤニ臭さは消え、解放的な外の空間と、群衆が足を立てて舞い上げる砂埃っぽさが鼻をつく。
取り囲む人混みのざわめきが大きく波打つように広がり、僕らが一瞬で服を着替えたように見えたらしい事が解る。ま、そりゃあ驚くわな。学校の制服姿が「ブックマーク」の叫びと共に冬のファッションになったんだから。繰り返していたキスしろコールが鳴り止んで、少し静かになったからいいか。
記憶を辿ると思い出して来るのはやはりあの婆さんの顔。確か名前はジャーマハル。この国の王様よりも話が通じそうだし、何かイロイロ知ってそうな雰囲気なんだよな。
そのジャーマハルは王様の近くに立ち、僕をフードの下から見上げている。右手でフードを軽く上げて、少し驚いたように眉を動かし、シワの刻まれた両目を一瞬開いた。
「ほほぅ、理の呪文を使ったね」
ジャーマハルが呟くように言って口元を横に歪める。
「どうやって知ったんだかね。太古の呪文を知る術は無いはずなんだがねぇ」
老婆の目が鋭く僕を見る。
コトワリがどうとか僕らの知った事じゃない。『ブックマーク』の発見は偶然だったし、コイツらに教える必要も無いだろう。
僕はその刺さる視線を無視してジャーマハルに言った。
「やり直しを要求する」
そうだ、やり直しだ。
ジャーマハルは僕の言葉を小さく一度だけ繰り返して、首を横に振る。
そんな事は馬鹿げている。時間の無駄だと呆れた目を返した。
「その娘に、あとはキスして終わりだって教えたろうに。また最初に戻ってやり直しをするつもりかい?こっちも忙しいんだ、遠慮しとくれよ」
ジャーマハルの言葉に即座に切って返す。
「遠慮しろって事は、こっちの意思でどうにかなるって事だよな。主導権は僕らにあるんだろ。だから無理だとは言わないし、言えない。そっちの都合もあるだろうけど、僕らも不本意な事が現実に起きてるんだ。だから言わせてもらう」
僕が強気で言葉を向けると、ジャーマハルは苦笑して見せた。
僕の後ろでは奥村が不安そうな目で僕を見ている。
ここから言う言葉は僕のハッタリだ。でもおそらく、間違ってはいない。
「僕らがここまで来たのを無しにして最初からやり直しが出来るんだろう。たぶん、あなたがさっき言った『理の呪文』とかいうやつを使うのかな。その呪文、心当たりがあるんだ。試しに何て言うか当ててみせようか?」
僕が言うとジャーマハルは余裕のあったはずの口元を引き締めてさらに眼光を鋭くした。
本に影響を与えることが出来る。
『しおりを挟む』のが『ブックマーク』
だったら、
『やり直す』『最初から』『最初に戻る』そんな意味のある言葉を言ったらどうなる?
これはもうカンとか、当てずっぽうとかの領域なんだけど、ジャーマハルの様子を見て僕はそれが、出来る、存在すると確信していた。
自動車だって欠陥が見つかれば整備のやり直しくらいするんだぜ?
本を読んでて、途中だけどまた最初から読み直すなんて事くらい出来て当然だろう。僕らは飽くまでも読者なんだ。
最初からなら『リスタート』、自動車なんかだと『リコール』って言うやつさ。僕は自信を持って本の住人達の前に立ち、どっちを言ってみるか脳内で選択。思案する。
そんな一瞬の思案の中、ジャーマハルの鋭い視線が細くなり、また見開いて、ぐっと空を見上げた。
観念したか、と僕は思った。
だが、ふと隣りの王様と腕を置かれたままの兵士が同じように空を見上げた。
その後ろの人垣の何人かが、つられて空を見上げる。
……何だ?
僕も同じように空を見た。
奥村も見ただろう。
城壁に囲まれた青い空に、陽光が眩しく光る。
雲は無く、空の青が透き通るようにずうっと奥まで続いている。
不意に、陽光が遮ぎられて影が横切る。
静かに流れる影は太陽を背にして、僕の視界をくらませる。
見上げた空に黒い影が広がる。
それは手のひらのように小さい物かと誤認する。だが一瞬、黒い影は太陽の光を大きく、大きく遮ぎり始めた時、それは僕の真上から降りて来ているのだと知る。
何だ?何か大きなモノが空から降りて来る。
いや、速い!?
丸い黒い影から、左右に伸びる影。
何だか見覚えのあるシルエットに僕の背中が凍りつく。
眼光が二つ。ツノが二つ。
大きくて、巨大なトカゲに似た体躯。ウロコが陽光に反射して、血のように紅い巨躯が、左右に伸びたものが翼なのだと知らせる。
ドラゴン。
巨大なドラゴンが僕の真上から急降下して来たのだ。
「うわぁ!!」
叫んでみたがそれは一瞬で舞い降りた。
ラチルが乗っていたワイバーンを遥かに超える巨大なドラゴン。
ツノのある頭から丸太のような尻尾の先まで、10数メートルは余裕である。
それは大きな翼を数回羽ばたくと、突風のような風を撒き散らして目の前で急停止して、その巨体を滞空させた。そしてややゆっくりと地面に降り立つ。
僕の目の前に立ち上がる真紅のドラゴン。
硬い頑強そうなウロコが呼吸をする度にうねり、脈打つ。
僕は数歩たじろぐ。その圧迫感、今にも喰われそうな恐怖、リアルに目の前にある巨大な生物に、頭から滝の汗が流れるようだ。
周囲の群衆が悲鳴を上げる。
「ちょっと、冗談でしょ?」
悲鳴に紛れて僕が顔を引きつらせて呟くと、ドラゴンは長い首をぐるりと回して周囲を見渡し、
オオオオォォォン!!
と咆哮を上げた。
耳の鼓膜が振動する。
巨大な時報サイレンが目の前にあるよりキツイ。
ビリビリと空気が振動して僕らは身体を硬くする。身体がすくむってこうなる事かと思い知る。
王様や兵士が尻もちをついて這うように逃げ出す。
ドラゴンはその愚行を一瞥すると振り返って僕を見る。
優しさなどカケラもない、生物としてのテカリを眼球に見て、僕は命の危機を知る。
ドラゴンは象並みに太い後ろ足を器用に動かして僕の方に向き直る。体躯の前足、いや腕と呼ぶに当たる方だろうか、細く……といっても僕の足に比べたら太ももの三倍以上ありそうな腕だが、鋭く突いた爪が僕の方に伸びる。
僕の目の前に突き出されたドラゴンの腕が一瞬揺れる。
いや、僕は不意に右側から突き飛ばされたようだ。
右肩に伝わる衝撃に、それが人の身体だと直感する。
長い黒髪が視界に揺れる。
奥村だ!
僕を突き飛ばしてドラゴンの前に立ち塞がるのは奥村美夜だ!
ドラゴンの腕が伸び、奥村の肉体を掴む。まるで子供がオモチャを持ち上げるように無造作な動きだ。
地面から浮き上がる奥村の身体が、ドラゴンの呼吸に合わせて上下する。
僕は叫んだ!
「リコール!!」
……
……
……
あれ?
何も起きない。
何も聞こえない?
そういえばさっきから何だか音が聞こえない?
奥村が僕を振り向くのが見える。
捕まれた肉体がジタバタ揺れて、必死の形相で僕に何か言っている。
クチパクに見える奥村の顔に、血の気が引いていくのがわかる。
そうだ、僕だけ叫んでも仕方ないんだ!
僕は叫んだ!
「奥村!同じ言葉を言うんだ!リコール!リスタート!リロード!」
しかし、そう叫んでいたはずの僕の声が届かないのか、奥村は僕を必死に見ては振り返り、ドラゴンの腕の中でもがくだけ。
口はパクパクと何かを叫んでいるみたいだが、何を言っているのか僕には聞き取れなかった。
おそらく、僕も奥村も、あのドラゴンの咆哮で、耳をやられていたんだ。
何も打ち合わせもせずにここに来てしまった事を、僕は絶望として刹那の焦りを感じた。
突風に体があおられる。
舞い上がろうとする紅いドラゴンは奥村を握りしめたままだ。
僕は走り寄って浮き上がりかけたドラゴンの後ろ足に体当たりした。
硬い表皮が僕の頬に触れると鋭利な刃物に触れたように僕の頬の肉が裂けた。生温かい液体が僕の頬から痛みを伴い、地面に鮮血を散らす。
ドラゴンがさらに舞い上がろうと翼を大きく羽ばたくと、僕の身体は耐える事も出来ずにバランスを崩した。
ドラゴンが巨躯を捻り、空を見上げる。
次の瞬間、僕の視野にドラゴンの巨大な尻尾が唸りを上げて迫って来るのが見えた。
ヤツにとっては、邪魔な虫ケラを払っただけなのだろう。
丸太のような尻尾の一撃を、僕は必死に防ごうと伸ばした両腕もろともに真正面から受け、もの凄い衝撃と共に吹き飛ばされる。宙空をキリモミ状態で舞いながら、人混みを飛び越え、10メートル近い距離をなだらかな放物線を描いて民家の土壁に木偶人形かボロぞうきんのように突っ込んで強烈に身体を打ち付けた。その民家の壁がボロボロに砕けて僕の上に降りかかる。
砂まみれの視界に、民衆の人混みが揺れて霞む。
民衆の声は聞こえないが、皆一同に空を見上げ、浮き上がって行く真紅のドラゴンと、腕に握られたままの奥村美夜を成す術なく見送っていた。
見る間に飛翔する翼竜を、人間は見上げる事しか出来ずに居た。
僕は、余りに酷い全身の激痛と、自分の愚かさに泣きながら、そこで不覚にも意識を失なってしまったんだ。