(5)雑木林に降る強い雨
長い間雨に晒された雑木林は憔悴していた。植物たちはしなびているかのように軟弱に見え、それぞれの疲弊の具合が異なるように場所によって葉の濃淡が違っていた。僕は堆積した枯葉を踏みしだき、行く手を遮る枝葉や蜘蛛の巣をナイフで切断してモクセイが罠にかかっていた場所へといの一番に向かった。記憶が確かならばこの木陰に仕掛けた括り罠にモクセイが捕まって鳴き声を上げていたはずだ。
当時のことを思い返しながら見通しの悪い辺りの雑木の間をそぞろと歩く。どこかに猫が巣にしているような穴蔵や木の洞はないだろうか。草薮の下に猫の家族が暮らしていないだろうか。思いつく限りの個所を探し歩いてみたが、猫の姿はおろか動物の糞や足跡すらなかった。
ここへ来ればなにか手掛かりがあるのではと期待していただけに激しく落胆した。背面にあった喬木にもたれかかり、地面の緩い起伏に倣って背丈を変える草木を眺めながら僕は早くも途方に暮れかけていた。
視界に映る景色は写真のように変化がない。雨だけが頭上を覆っている葉群の先で騒がしく降り続いている。植物も動物もこの激しい雨に怯えて息を沈めているのだろう。
このまま諦めて帰ろうか。
という思いが頭に過ぎった、そのときだった。
もたれていた木のすぐ背後から、なにかが移動したかのような葉擦れの音が聞こえてきた。
僕は瞬時に振り返り、音を発している斜め後ろを凝視した。草薮の一カ所がイノシシのように膨らみ、葉々についた雨露を振り払うようにして小刻みに揺れていた。その薮のなかに、なにかが潜んでいることは一目瞭然だった。
しばらく成り行きを見守っていると、揺れている薮が少しずつ移動を開始した。当然、地面に根を下ろした薮が動くはずはない。薮のなかにいる得体の知れないなにかが移動しているのだ。
木立の根元を覆い隠すようにして広がっているその草薮の果ては、ここからではうかがえない。まるでこの薮自体が一つの小さな雑木林のように地面に根付いている。
雑木林のなかにある雑木林、そのなかを緩慢に動いていくなにか。僕はそのなにかの追跡するため、草薮のなかに入った。
牛の歩みのように時間を掛けながら数十歩進んだとき、鋭い小石でも踏み付けたのか足裏に痛みが奔った。思わず声を上げそうになったが舌の付け根で咽頭を圧迫し押しとどめる。しかしわずかに洩れた息が口腔で歪に反響した。先を進んでいるものがその音を察知して逃げ出すのではないかと肝を冷やしたが、薮は先ほどと変わらない速度を維持してゆっくりと移動していた。
雨音のおかげで聞こえなかったのだろう。そう結論付けたが、これからはどんなことがあっても物音一つ洩らさないように心に誓う。
それでも木の葉を抜けてきた雨が頭上へと落ちてくる度、その無機質な冷たさに驚いて声を出しそうになる。たとえ何百粒を身に受けたとしても、この冷たさに慣れることはないと思った。
頭髪にしばらく絡みついてとどまっていた雨は、歩く振動で頭皮の間を掻い潜り、汗と混じり合うことで粘り気を増して少しずつ垂れてくる。自らの分泌物と混じることで、あれほど冷徹に感じていたものが血液のような温もりを帯びていくように感じた。
もしかしたら本当に出血しているのではないかと心配になっていると、進路は緩やかな坂に差し掛かる。その手前で長らく続いていた草薮がようやく途切れていた。追いかけていたものの姿がやっと拝めると思い、僕は全神経を目に集中させた。
しかし、緊張と緊張の間にある束の間の安息を射抜くように、薮からなにかが飛び出したかと思えば、それは目にも止まらぬ速さで坂を駈け上がっていってしまった。
薮のなかを進んでいたときとは見違えるような緩急の差に虚を突かれた僕はしばし呆然としていたが、見失っては今までの苦労も水泡に帰してしまうと気を取り直して坂を上がった。
坂を越えた辺り一面には、腰元ほどの高さがある草薮が密着するようにして繁茂していた。まるで織物のように組みついている草々の一つをナイフで切り取ってみると、断面から泥水色の汁があふれ出した。それを指先に付けて舐めると微かに土の味がした。
服の裾で汁を拭き取りながら、少し背伸びをして辺りを見回す。左斜め前に揺れている地帯を発見し、僕はそちらを目指して薮をそっとかき分け進んだ。
先ほどと同じ工程がまるで夢のように繰り返された。薮が途切れたかと思えば、そこからなにかが飛び出し、その度に僕はその姿を見逃す。何度やっても変わらない。僕は大事なところばかりを見逃し、その度に自分の意識の散漫さを呪う。
いい加減、この反復に嫌気が差してきて、近くにあった木の幹に向かって力任せにナイフを突き刺した。この物音であれが僕の存在に気付き、手のとどかないところまで一息に逃げ去ってくれればいいと思った。しかし、雨水を吸い膨れ上がった木の幹は、僕の刺突を吸収し、高らかに鳴り響くはずであった音をその内部に封じこめてしまった。僕の拳だけに痛みが残った。
仕方なく僕は追跡を再開することにした。僕にはもうそれしか残されていなかった。
草薮をかき分け、途切れ、飛び出し、見逃す。その工程を繰り返す。そうしているうちにふと、僕は追跡しているのではなくて誘導されているのではないだろうかと思った。
果たしてそんなことがあり得るのか。野生の動物はそこまで狡知に長けているのだろうか。そもそもあれは動物なのだろうか。まだ姿を見ていないのだから、動物と断定することはできないはずだ。
そんなことを考えながら後を追っていると、風邪を引いているときのように頭がぼんやりとし、目の焦点が合わなくなっていた。今までは雑木林のおかげで雨に直接さらされることはなかったが、それでも隙を衝いたかのように落ちてきた雨滴が確実に意識を奪っていっていたのだろう。僕は手近な草をナイフで切断し、あふれ出してきた泥水色の苦い汁を啜って意識を保った。
雑木林には間断なく雨音が響いていた。それを忘れてしまうほど僕は雨音に慣れ親しんでしまっていた。もしかしたら、落ちてきた雨が耳の窪みを乗り越え、耳孔で溜まっていたのかもしれない。だから雨音が聞こえなかったのだ。
そうひとりでに納得をしていると、雑木林のどこかから雨音とは異なる音が響いてきた。
まるで啄木鳥が木の幹を穿っているかのような、カッ、カッ、という力強い音。その刺突の音は、潮の満ち引きのように近寄っては遠ざかって響いていた。しかし、地歩を固めるように着実にこちらへと接近しているようだった。
僕の心はその音によってかき乱された。数限りない不安感が今まで無意識に踏みしだいてきた植物たちの怨念のように足元から立ち上ってきた。膝が震えだし、瞬きに落ち着きがなくなった。怖いと思った。呼吸が乱れ、視界に星が散った。その星の軌道につられてよろめき、近くにある木に手を付いてうつむいた。熱風のような息を肺から絞り出し、顔を上げる。
僕は薮を移動しているなにかを見失っていた。
頭上を厚く覆う木の葉の間を抜けてきた雨粒が眉根に落ちた。鼻筋をたどりながら口端へと垂れてきた雫を拭うことも忘れ、僕は雑木林のどこかにいる、探しているものを見付けるために目を凝らした。木々の陰すべてがそれのように思えた。その一本一本にナイフを突き立て、悲鳴を上げたものがそれだと思った。
近場の木の幹に逆手に持ったナイフを突き刺した。手応えはあったが悲鳴はなかった。この木は探しているものではなかった。その隣に生えている木に突き刺す。刀身の半分を幹に沈めて停止しているナイフにさらに体重を乗せ、抉るようにして最後まで押しこむ。しかしその木も違った。同じ動作を繰り返し、六本目の木に傷跡を残したとき、自分が探しているものがなんなのかを、木の幹に穿たれた刺突の跡から見出そうとした。
目前の幹には、ナイフの刃を写し取ったかのような押し潰した菱形が刻印されている。そこを片目でのぞきこみ、内部を凝視する。なかは暗く、なにもない。
僕はナイフを握る手を固くし、雑木林のなかをさ迷い歩く。幾本の木を前にしたかもう覚えていない。手首に痺れを覚えるようになり、指先の感覚がなくなっても僕はナイフを木に突き立てた。たとえ手がもげようとも求めているものに行き着くまで雑木林を徘徊しようといきり立っていたのだが、感覚をなくした手はついにナイフを取りこぼし、凶器をなくした僕の手は力なく木の幹を叩いた。
雨水をたっぷりと吸った木が、ぽぉおん、という気の抜けるような打音を反響させた。その音は樹木から樹木へ、そしてまた別の樹木へと伝達されていき、数十秒後には僕の敗北が雑木林中に吹聴されていた。それがまるで逃げてきたあの場所に戻ったかのようで、激しい憤りとともに、今すぐこの場からも逃げ出したいという思いに駈られた。しかし、僕にはもう戻る場所がないことをすぐさま思い出し、逃げることは諦めた。
拾い上げたナイフの刃は、折れはしてないものの先端が欠けて丸みを帯びていた。これを堅い表層に刺しこむには先ほどよりも力をこめなければならないだろう。僕はナイフを左手に持ち替え、その感触を味わうように強く柄を握ってみた。それはもうなにかを殺せるような感触ではなかった。
ナイフが消耗した今、僕は作戦を変えざるを得なかった。やたら滅法に木を刺していくのをやめ、草薮のなかに隠れて探しているものが通りかかることを待つことにした。
息を潜め、瞬きを止め、身体を覆う草薮の葉々と一体になる。気配を最小に、けれど意識は大きく膨れ上がっているかのように明瞭に。まるで植物のようにその場に根付く。静かに続く雨が大地を潤す。その潤いのただなかに僕は腰を据える。
いくつかの記憶が甦り、形をなして正面を走って行った。運動会のような競走として、通勤ラッシュのような競争として。僕はそれらを隠れて見つめる。決して馴染むことができなかったその動きを見つめる。
そして、それらから逆行するようにして逃げ出した己の幻影が走り去っていく。どこへ。ここへ。逃げている。僕は、これからも。逃げ続ける、のだろう。知るか。僕が待っているのは、そんなものじゃない。僕が待っているのは、巨大なようで矮小で、産まれたときからずっとそこにいる、塊だ。そいつが、逃げていったそいつが現れるのを待つ僕は、草薮のなかで、走馬灯のように通過する記憶の断片から、そいつの姿が現れるのを待っている僕の手は震え、ナイフが震え、空気が、雨が、水が、土が激しく震えていた。
僕は震えるナイフを握りしめ、目をつむって想像する。弱々しい足取りでここへとやってくるなにかの姿を、強く想像する。しかし、思えば思うほど着実に近寄ってきていた気配は雨音の裏に隠れたかのように薄まっていった。いや、そもそもそんなものなんて最初からなかったのかもしれない。それよりも草薮の下を移動していたなにかを見つけ出さなければ。
僕は頭を抱えながら雑木林のなかをふらふらと歩き出す。もし、あいつがモクセイと関係のないただの小動物であったら、この追跡もすべて徒労に変わってしまう。とんだ無駄骨だ。覚悟を決めてあいつのもとへと全力で駈けて一息に捕獲してしまえばよかった。そうすればこの追跡が無駄かどうかわかったのに。
悔み言を呟きながら進んでいると周囲から草薮が消え、視界の開けた場所に出た。息が詰まるような薮のなかを進むのはもう飽き飽きしていたので、それだけで大分気分が良くなった。軽くなった足取りで二、三歩進むと、まるで僕の到来を待っていたかのように右方にある薮ががさがさと音を立てはじめる。
僕は反射的に動きを止めて蠢く薮を見つめ、その揺れ方にふと違和感を覚える。十秒ほど動きを注意深く観察していると、やがて不自然な個所がじわりと浮き彫りになる。草薮の揺れ方が先刻までとは違い、大きくなっているのだった。
見間違いだろうかと目を擦り、再びそこを見ると動きはさらに大きくなっていた。あの草薮の下にいるものは、先ほどまで僕が追っていたものとは別物なのだろうか。そう思いもしたが、僕は直感的にその考えを否定した。あそこにいるなにかは、僕がずっと追ってきたものに違いない。そう確信している間にも、草薮のなかにいるなにかは数十年分の成長を数十秒でしているかのように揺れ幅を大きくしていた。
今にもそこからなにかが飛び出してきそうに草薮が一際大きく揺れ、僕はとっさに、追いかけていたはずなのに遠ざけるように後退りして、息を呑み、待つ。そこからなにかが現れるのを待つ。
雨雲の奥ではいくつもの星が輝いているのだろう。
僕を監視し続けてきたいくつもの星たちが。
しかし、今は違う。
監視の目は雨雲と雑木林に阻まれ、僕を見失っている。
息を、
止める。
ナイフを抱いて身構える。
そして、地中から顔を出す土竜のように、ぬっ、と草薮の先から姿を現したそれを視界に収め、僕は目を疑った。
僕だった。
ずっと僕が追いかけていたものは僕だったのだ。
狼狽のあまりじりじりと後退する僕を威嚇するように、その僕は僕とまったく同じナイフを胸の前に構え、腰を少し屈めて僕の心臓に狙いを定めた。
探していたものが一つの形となり目前にいる。それは自らの姿形を取って存在していた。だからどこを探しても見付けることができなかったのだ。僕が探していたものは、皮膚と肉と骨でできた、この肉体に内在されていたのだ。
僕は興奮のあまり見開いた両目で、鏡写しのように正面に立っている僕を睨みつける。線が細く見るからに弱々しい外見。ナイフなんて使わなくても軽く押しただけで倒れて死んでしまいそうだ。そう思っていると、自らの弱さを見せ付けるように僕が卑屈に笑った。その顔を見て、僕は無性に腹立たしくなってナイフを強く握り締めた。
雨音は耳に親しんだかのように、もう聞こえない。無音に近い、限りなく。自分と相手の呼吸がわかる。タイミングは完全に一致している。僕が動けば僕は動くだろう。手に持ったナイフで僕に襲い掛かってくるだろう。
そして、
一滴の雨が二人の間に音もなく落下する。
誰が決めたという訳でもないのに、それが合図になった。
僕は全力で僕へと向かって駈け、細い腕を突き出し、薄っぺらな胸板に刃を突き刺す。ナイフは抵抗もなくずぶずぶと胸のなかに沈んでいく。その代わり赤い血液がナイフを押し返す勢いであふれ出し、僕は仰向けに倒れていた。
木葉を抜けて降ってきた雨がいくつか顔面に衝突して弾けた。呆気ないと思った。死とはこうも呆気なく自らに訪れ、猛暑のような熱気に包みこまれたかと思えば、季節が跳躍したかのように身体が一瞬で凍え、もう温度を感じることができない。
しかし驚くべきは、まるで破裂する水風船を見ているかのように自らの生体機能の停止を感じられたことだ。
自分が死んだという感覚を、死んでいるというのに感じることができた。これが死ぬということなのだろうか。ならば死とはなんなのだ。身体が停止し、生物として終わったというのに、意識は衰えることなくむしろ肉体という枷が外れてより鋭敏になったかのように、周囲に起きている出来事が手に取るようにわかるのだ。
空から降ってくる雨の微弱な衝撃が皮膚に触れるかのようわかる。その雨粒が葉の表面に留まり、少しずつ滑り落ちてくる様子が手に取るようにわかる。雨の冷たさが大地から温度を奪っていっていること、大地が水分で満たされ飽和へと向かっていること、この雨があと数時間で止むということ、そしてその後に長らく空を覆っていた厚い雲が風に流されて散り散りとなり、目眩むような青空にとけていくこと、卵黄のように初々しい太陽の光がすべてを照らし出すことも。
嵐の後の穏やかな空気が雑木林に充満する。息を吸えばその滑らかな喉ごしに思わず咽てしまいそうになるはずだ。
そして、雨音だけが長らく鳴り響いていた雑木林に生物の活気が戻ってくる。それは単調な雨の音律よりも遥かに豊かで表情に富み、いつまで耳を澄ませていても飽くことのない力強い演奏なのだろう。
僕はその演奏を聴いてみたい、ずっと、ずっと耳を傾けていたいけれど、雑木林に降る雨が上がったとき、そこに弱い僕の姿があってはならない。
だから僕は、自らの墓穴を掘ろうと思った。
自分の痕跡がなにも残らないくらい深く、深く穴を掘ろうと思った。けれどあまり深さに拘っていてはいけない。深い穴を掘るには時間がかかる。穴を掘っている間に雨が上がってしまったら元も子もないのだ。僕はこの雨が上がる前に、雑木林が息を吹き返す前に、いなくならなければならないのだ。それを忘れてはいけない。
残されている時間はそれほど多くない。かといって少なくもない。それが自らの墓穴を掘るのには、打って付けの時間なのかもしれない。
多すぎず少なすぎず、
長すぎず短すぎず。
それがきっと、
生の最適な時間なのかもしれない。
雑木林の土はあの庭のものよりも固い。それでも水分を多く孕んでいるのでシャベルがなくても素手でどうにかなりそうだ。
試しに右手で土を掘ってみる。親指を除いた四本の指を匙のように湾曲させる、粥を食べたときのあの形。生きるために食事をしたとときと同じ形の手で、僕は死ぬための穴を掘る。
指先が土に触れる。少しばかり力をこめればすんなりと指の付け根まで地面にめりこむ。手首を返して土を掻き出す。すると小さな穴が空く。この小さな穴に僕はまだ入れない。虫なら入れるだろう。虫ならこの穴のなかに消えられるだろう。
僕は再び同じ動作をする。その度に爪の間に土と砂粒が入りこむ。まるで子どものときにした砂遊びのようだ。一人で黙々と、日が暮れて暗くなっても穴を掘っていたときのようだ。
あのときはただ夢中だった。この砂を掘り続けていたら、奥からなにか思いもしない未知のものが現れるのではないか、どこか見知らぬ場所へ通じるのではないかと、まだ見ぬものへの好奇心に駈られていた。
穴は先ほどよりも大分深くなっていた。腕で底までの深さを計ってみると、指先から肘関節くらいまでになっていた。
これでもまだ駄目だ。このくらいの深さでは猫が入れるくらいで僕はまだ入れない。それに深さだけではなく幅も広げていかなければ、僕が入る穴にはならない。指先を見ると爪が剥げて血が滲んでいた。でも痛みはわずかなものだった。
雨の音はまだ聞こえている。けれど穴が深くなっていくのに合わせて勢いは弱まっている。そろそろ時間なのかもしれない。それならば穴はもうこれで十分なのだろう。
僕は掘るのを止め、穴のなかで横になってみる。頭頂部が土壁に擦れ、じっとりと湿った土の塊が顔にかかる。穴幅に合わせて関節を折り曲げ、胎児のように膝を抱えた姿勢になる。冷たい穴底に頬を付け、小さく縮こまった僕は、それほど悪い気分ではなかった。
眠る前のように意識が朦朧としてくる。雨はもう止んでいるだろうか。僕は自らの墓穴をちゃんと掘れただろうか。
心配になって薄く目を開けて見上げた先には、雨を受けて色濃くなった木々の葉が仲睦まじく重なり合いながら一面に茂り、その微かな隙間からいくつもの光が射しこみ、まるで宝石のようにきらきらと輝いていた。
この様子なら、雨はもう止んだのだろう。
そう思った僕の目は、遥か上方にあるはずの葉の表面に付着していた小さな雨粒が、倒卵形の葉の脈をレールのように伝って、ゆっくりとこちらへと落下してくるのをはっきりと見て取っていた。
すぼまった葉の先端から滑り落ちた雫が湿気を含んだ空気を押し退けるようにして落ちてくる。木洩れ日の淡い光がその輪郭を縁取り、生命の営みのように刻々と色合いを変貌させていった。こちらに接近してくるにつれてその変移は速度を増していく。まるで走馬灯のようだと思い、僕は点眼の前のように緊張しながらその雫を待っていた。
雫のなかにも雑木林があった。そこでは、枯れ枝でつくった巣で雨が止むのを待っていた鳥たちが空腹を訴える子どもに与えるための食事を求めて宙に飛び立つ姿、大地から立ち上る蒸気に便乗するようにしてミミズが落葉の合間から姿を現し、植物の蔓のように蠢くそのミミズを目聡く見付けた鳥たちが我先にと急降下し、器用に嘴に挟んで濡れた翼で巣へ返っていく瞬間、その木の根元にある穴蔵からアカネズミが現れ、周辺の様子を警戒して鼻をヒクヒクと鳴らし、土に埋めていた木の実を掘り返して、その土を被った木の実を穴蔵にいる子どもに渡している、そんな自らの種のみの繁栄を望んだ光景が展開していた。
しかし、そこにも黒い陰りが現れ出した。最初は針で突いたかのような小さな穴だった。それは徐々に大きさを増していき、露に濡れた木々を、草花を、動物も鳥も虫も見境なく取りこんで、僕の眼球へと迫ってきていた。
その雫が眼球と衝突した瞬間、僕は勢いよくまぶたを閉じた。僕は雑木林から削り取られ、暗闇に放り出される。なにもない暗闇が僕を呑み込んでいく。僕は抵抗することなくそれを受け入れる。
目を開ければ、僕はもうどこにもいない。
どこにもない、なにもないその場所で僕は父と会う。父は足元からなにかを探そうとしているかのように背を丸めていたが、なにもないその場所でなにかが見つかるはずもなく、そのことにやっと気付いた恥ずかしさを紛らわすかのように笑っていた。
僕はその表情が昔から大嫌いだった。口元は笑っているのに目は虚ろで、現実をみようとしていないその瞳が嫌だった。
そしてなにより嫌だったのは、僕もやがて父のように逃避的な人間になってしまう確信が常に付きまとっていたことだった。
「あなたはまだ、逃げるのか?」
決して返事がないことを知りつつも僕はそう投げかけてしまう。父は笑みを引っ込めて真顔になり、またなにもないところからなにかを探しているかのように顔を背ける。僕はその態度にいら立ち、なにも持っていない拳を強く握りしめる。
「でも、お前は違うだろ? お前はもう、僕じゃないだろ?」
顔を背けながらそう言った父の姿は、もうそこにはいなかった。いや、僕がそこからいなくなったのだ。
涼やかな粒に頬を打たれ、喚くような鳥たちの囀りに導かれて僕は閉じていたまぶたを開いた。
横になった上体を起こし、まだぼんやりとした意識で周辺をうかがう。薄黄色に色付いた木立や草花が葉に乗った光を穏やかに転がすようにして、そこら中でそよいでいた。その動きに合わせて木洩れ日は生き物のように動き、微かな風とともに鼻先を土の香りがかすめていく。
穴から上がった僕は、まず自らの全身を隈なく眺める。指先から関節のしわ、足裏まで、どんな些細な欠落も見逃さないよう事細かに観察したが、僕からはなにも、なにも欠けていなかった。
今度は辺りの雑木林を見渡した。目には植物ばかりが映り、動物の姿はない。しかし、そこら中から鳥の囀りや獣が移動する物音、耳元を飛んでいく虫の羽音が、強弱の違いはあるが確かに聴こえ、この雑木林にいる多くの生命の存在をあふれんばかりに伝えてきた。
彼らは僕からなにも奪わなかったのだ。
僕はやっと世界に受け入れられたような気がして、瞳から涙をこぼした。
消えたくない。
僕は消えてしまいたくなどない。
強く、そう思った。
乾いた泥がこびり付いた手で目元を何度も拭ったが、再び雨が降り出したかのように瞳から涙が止まらない。
だがこの雨はあのとき見つめていたものとはまったく違う。
この雨は僕を消し去ってしまうものではなく、強くする雨だ。弱い僕を強くする、雨だ。
僕は涙を止めるのを諦め、夢のように歪んだ雑木林を確固とした足取りで進んでいく。行き先は決まっている。僕はこの雑木林を抜けた先にある場所に戻り、そこでもう一度、逃げてきてしまったものたちに立ち向かうのだ。
何年掛かってもいい
石を削る雨滴のように
何度も立ち向かい
僕という存在がいたことを
この世界に残してやるのだ。
久しぶりに長めのものを書くと疲れますね。
感想、意見、アドバイス等ありましたら是非お願いします。