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(4)雑木林に降る強い雨



 その名を最後に口にして、淀みなく動き続けていた唇が停止する。それと同じくして僕の頭のなかで繰り広げられていた言葉の奔流も停まったが、眉間の裏側辺りで時江さんが語った過去がまだ強固に留まっていた。

 僕はその一部に自らを投影し、融和しそうになっていた。時江さんによって語られた家族の一員に僕が加わっており、増えた分だけ誰かが抜けている。僕がいなければその誰かが家族のなかにいる。誰かって誰だ。僕か、いや、父か。違う、僕だ。僕は僕。そう言い聞かせることで、僕は父ではないのだと幾度も言い聞かせることで僕は僕であろうとして、父と僕を同一視してしまうことを食い止める。

 しかしそうすることで、時江さんの瞳に映っていた僕とは僕ではなく父であった事実がより克明になる。やはり時江さんは僕を媒介にして父を見ていた。目元や鼻筋に宿る面影から父を連想し、その思い出を顔全体まで引き伸ばし塗り重ねて父を再構築していたのだ。

 やけに喉が渇いていた。かき集めた唾液でなんとか潤しながら、蝋人形のように青白い時江さんを見つめる。

 時江さんは息や瞬きといった生体行動を一切しなくなっていた。死んだ。死んだのだ。しかし死んだはずなのに、部屋中に横溢していたあの臭いは鼻を鋭く衝きはじめていた。毛虫が肌を這うような不快感が全身のみならず体内からもあふれ出した。我慢の限界などとうに超えていた。僕は度し難い癇癪を起したかのようにぶるぶると震えながら立ち上がり、閉じ切っていた襖を勢いよく開けた。

 外には錆びた針のような雨が降っていた。

 なにもない部屋を通して見るその景色は、不自然なほど明瞭になって僕の瞳を通過していった。

 重く垂れこめた灰色の雲から幾億も吐き出される雨。大気から不純物を吸収して鈍い褐色を帯び、隣接する雨と触れ合っては、金属を擦り合わせるかのような音を上げて大地に突き刺さっていく。

 室内外を隔てていた薄い一枚の障壁が払われたことで、部屋を満たしていた臭いが外へ吹き出し、雨に焚き付けられた庭の臭いが部屋に吹きこんだ。その中間地点である殺風景な部屋で双方が入り乱れ、混じり合った。僕の嗅覚は不快なその臭気を最初のうちは拒否し続けていたが、徐々に順応していき、やがて抗うことを諦めて受け入れた。すると僕の頭に義務感のような感情がわき起こった。それは知性ある人類に刻まれた習慣のように僕を突き動かし、殺風景な部屋を通過させて縁側まで導いた。

 強風にあおられた数粒の雨が軒を越えて顔へ飛んでくる。目をつむっているとそれが雨ではない別の液体に思えてしまうような気がしたので、眼球を見開いて飛んでくる雨をしっかりと見据えた。

 針の雨は景色を細かく縦に引き裂いていた。細かすぎてその裂け目がわからなくなるほどだった。もしかしたら雨は景色を裂いているのではなく繋ぎ止めているのではないかと思った。今にも崩れ去りそうなこの景色を必死に縫い合わせて維持しているのではないかと思った。

 雨を受ける雑木林の草木は、胸騒ぎを起こしているかのようにざわついている。屋根瓦を叩かれている家は雨樋から吐瀉物のように雨を吐き出し、倒壊の前兆を思わせるほどに大きく軋んでいる。なにかが終わろうとしているのか、はじまろうとしているのか、やはり僕にはわからなかった。

 しかし僕はやるべきことを遂行するため、素足のまま縁側を降りて泥沼と化した庭に突き刺さっているシャベルのもとまで歩く。僕がシャベルの取っ手に触れたときには、身に着けていた服は隅々まで濡れていた。

 地面から引き抜いたシャベルの予想外の重さに驚いていると、腹の虫の音に似ている遠雷が重く響き渡って雨音を一時的に打ち消した。体温は少しずつ雨に奪われていた。このまま雨に打たれていたら僕も冷たくなってしまうのだろう。あの死体のように。

 僕は死体を埋葬するのに目ぼしい場所を探す。雑草が茂り、雨に溶かされている庭はどこも相応しいように思えた。

 それならば中心がいいだろう。目測した庭の中心にシャベルを突き立て、半固形状の土塊を掻いて穴を掘っていく。

 シャベルを地面に刺しこみ、肩のように突き出した足掛けに泥だらけの足裏を置いて土を掘り起こす。久々に身体を動かしたので早くも足腰に痛みを覚えたが、堪えて穴を掘る動作を反復する。

 足元に穿たれた黒い穴が大きくなっていく度、どうして僕がこんなことをしなければならないのだろうか、あのまま放っておいても別に構わないじゃないか、もう死んでしまっているのだからお為ごかしなんて止めてしまえ、媚びを売ってもなにも見返りはないぞ、たいして感謝もしていないのだから適当に拝んでここからおさらばすればいいじゃないか、という自らの行動を疑問視する想念がいくつも脳裏を過ぎった。その答えを地面の底から掻き出すようにして、痛む両手足を動かした。

 雨音のなかに土を掻く音が異質に残っていた。それは人ひとり分の場所をつくり出すための音だった。一つの生物を埋めるための穴を掘り出すには、どれほどの労力が必要なのだろう。この音をあと何回聞けばいいのだろう。雨が止むまでだろうか。もがけばもがくほど泥沼にはまっていくかのような無意味な行為のように思えてくる。でも、そんなこと言い出したら、どうせ人間は死んでしまうのだからなにもかも意味がない。学校も会社も人間も猫も父も母も生まれることも死ぬことも僕も意味がなくなる。

 それでもいいのだろうか。

 僕たちはどんな意味を持って生まれてきた。

 僕はどんな意味を持っているのだ。

 僕に意味なんてあるのか。

 意味とはなんだ。

 僕のことか。

 僕が意味なのか。

 それならば意味なんてないじゃないか。

 全身を浸していく疲労を振り払うように一心不乱になって作業に集中していると、その穴は、まるでもとからそこに空いていたかのように突然現れた。

 穴を見て気が緩んだ僕は、膝から崩れ落ちそうになった。しかし目的はまだ途中である。シャベルを地上へと放り投げ、僕自身も穴底から這い出す。上の灰色からくる雨粒の一打一打が皮膚を鋭く、そして奥深くまで突き刺さしてき、気絶寸前に陥っているかのように意識を曖昧していく。混濁した意識で宙を縦断する雨粒を掴みながら家を目指し、やっとの思いで縁側を上がり、一部屋抜けて死体のもとまで向かう。

 直接触れればたちまち崩れてしまいそうなほど、その死体は脆く見えた。だから僕は死体が寝ている布団からシーツを剥がし、それで死体を蛹のように包んで引きずって運んでいった。

 泥の足跡が殺風景な部屋の畳から縁側の先へと点々と続いている。さっき自分で付けた足跡だ。僕はそれをたどっていく。敷居の段差を越えたときにわずかな衝撃、縁側から庭へと降りたときに大きな衝撃。蛹の中身は壊れていないだろうか、なかから体液が漏れ出ていないだろうか、気になったが、地中に戻して上げればそれらはすべて杞憂に変わる。そう信じて、穴へと蛹を放りこみ、地面で濡れそぼっているシャベルを手に取って土を被せていく。

 蛹に、死体に、時江さんに。

 白いシーツは泥を吸いこんで土のように茶色い。そこに土を乗せていく。積み重ねていく。シーツが土に埋もれて隠れていく。そしてすべてが土の裏に収まったそのとき、時江さんは庭になった。

 シャベルを放り出し、僕は縁側の座椅子に座る。雨が降っている。庭に降っている。この庭のどこかに死体が埋まっている。それは僕が埋めた死体。雨が降る庭のどこかに死んだ体を僕は埋めた。僕だけじゃなく僕の似た人もかつてこの庭のどこかに死体を埋めた。それは飼い猫の死体。二つの死体が埋まったらそこはもう墓地だ。死んだ体を埋めるための場所だ。

 空に白い稲光が走り、輝き、少し遅れて轟音が鳴る。雨は激しさを増し、地面で弾けた雨滴が飛沫となって景色を煙らせていく。蜃気楼のように霞んだ庭を眺めながら、僕は、死んだ生物の魂や心がいくところについて考える。

 天国。地獄。なにもないところ。

 そんなものいくら憶測を飛ばしても、実際に自分が死んでみないとわからない。わからないことを無理になにかに当てはめる必要はない。そんなことに意味はない。

 それならば、死んだ生物の体はどこにいくのだろうと考える。死体はこの世に残る。死んだものは自力で移動することはない。死体は動かない。けれど変化はする。死体に変化があるとき、それは外部からなんらかの力が加わったときだ。

 生者は死体の痕跡を残してその生前の姿を思い出として保持しようとする。遺族によって焼かれれば死体は灰に姿を変える。その灰を骨壺に積めこんで墓石の下にしまって、気が向いたときに拝んで死者の記憶を甦らせる。もしかしたら、そのときに遺族の頭中で想い起されているものが魂や心といったものなのだろうか。

 わからない。わかりようがない。そもそもこれは関係がない。僕は今、死んだ人の体の行方を考えている。雨が降っている。強く。

 反対になんの力も加わらず放置された死体はどうなる。自らを溶解しながら腐敗し、鳥獣や微生物といった自然の手によって小さく分解されていき、最後には消失する。そうか、死体は死体という状態のまま留まることなく変化するのか。

 僕はそれが生きていた頃とは異なる変化だということに気付く。はじまりは一つの精子と卵子。その微小な二つが反応して拡大していき、生死の境を越えると縮小する。人による手が加わればごみ屑のような灰に変わり、加わらなければ自然によって無に帰る。

 どちらが正しいのだろう。どちらがいいのだろう。人としては前者だろうか。生物としては後者だろうか。時江さんはどちらがよかったのだろう。僕はどちらを望んでいるのだろう。

 雨は針ではなく銃弾のような勢いになっている。その雨に打たれた雑木林から野獣の断末魔のような唸り声が上がった。

 雨音に掻き消されていった絶叫に耳を澄ませながら盛り上がった庭の中心を見つめる。あそこに時江さんが埋まっている。棺桶代わりのシーツに包まれ、埋まっている。土のなかでは灰にならない。灰になるには炎で焼かれなければならない。土のなかで時江さんがたどる過程とは、灰として縮小することではなく、自然の手による消失だ。

 時江さんがそうなることを望んでいたかなんてもう確かめようがない。死体の処置は自己ではなく他者に委ねられる。自らの死体を自らの思うように処理することはできない。たとえ遺言を残したとしても、その処置が正しく行われたか確かめるすべはない。

 結局、人は死ねばそれまでだ。死んだあとのことなんて一切口出しできない。死人に口はない。時江さんがどう願おうとも、僕は時江さんの死体を土に埋めた。それが人の最後に相応しいと思うからだ。

 灰色の空一面が一際明るく光り、間髪いれずに耳をつんざくような雷鳴が轟く。その間隔は先ほどよりも短い。大気は引き裂かれたかのように振動し、鋸歯のような痛みが肌を通過する。鼓膜から痛みが引き始めると、蚊のような耳鳴りがしばらく耳にまとわりついた。

 雨は大地と死体を馴染ませるかのように強く、強く降りしだく。僕もいつかそこへ向かいたい。心のどこかでそう呟かれる。僕は死んだら何一つとしてこの世に残したくない。髪も、肌も、爪も、歯も、内臓も、踝も、目も、灰ですら、この世界に僕がいたという痕跡を残したくない。

 そんな想いが浮かんだ瞬間、激烈な閃光が瞬いて景色を純白に染めた。

 なにもない、空白の瞬間が訪れる。

 そのなかに雨音だけが鳴り響き続けていた。

 ゆっくりと視界が戻ると、沓脱石の上に転がっているサンダルが真っ先に目に入った。時江さんが洗濯をするときに履いていたものだろう、ハの字になって横たわったそれは、接吻をする寸前で絶命したつがいのネズミのようだった。

 僕はその無残な履物を感慨もなく見つめていた。すると、二匹の中間辺りの石面にビー玉ほどの窪みが穿たれていることに気が付いた。どうしてこんなところに。理由を考え出そうとした僕の注意を引くかのように、軒先からその窪みに向かって一滴の雨粒が、

 ぽつり――。

 と落下してきた。

 僕は、窪みに溜まった雨水が柔らかく波打つ様子を見つめる。この窪みはこうやって、何十年も前から少しずつ抉られてできたものだろう。弱くても、少しずつ。硬い石をいつか貫くことを夢見るようにして。

 僕の似た顔の父も、ここでこの窪みを眺めていたのだろうか。まだ笑窪のように小さなときから、この窪みを眺めていたのだろうか。

 眼前の庭は嵐のように激しく展開している。いくつもの鋭い雨粒が縦横無尽に飛び交い、暴風に煽られたバケツが端まで追い詰められている。雑木林の木々は叱責に耐える子どもたちのように揃ってうな垂れ、葉を茂らせた頭部に拳骨よりも重い雨の粒が流星群のように降り落される。

 その荒々しさと反するような明るく騒がしい声が、背後から聞こえてきた。不思議に思いながら肩越しに振り返ると、後ろにある殺風景な部屋の天井には、太陽のように眩しい電球が煌々と輝いていた。

 温もりを宿した明かりに照らされているのは、大きく広げた新聞紙の上に屈んで爪を切っている大柄の男、机に置かれた湯呑を下げている慎ましやかな女、小さなボールを転がす利発そうな女の子、そのビニールボールを追う無邪気な三毛猫。

 その団欒風景はそれで完成されていた。誰か一人が入る余裕もなかった。

 僕は自らの不必要さを痛烈に自覚する。父は僕がいなくても自らのために爪を切るだろう。母は僕がいなくても父のために湯呑を下げ、姉は猫と遊ぶためにボールを転がし、猫は自らの習性のためにボールを追うのだろう。

 くじ引きの三等景品のボールは、安っぽいビニール製の球面で敷居を跳ね越え、縁側の藤椅子に腰かけている僕の元まで転がりこんでくる。追ってきた猫は僕を見上げ、三等よりも格下だと判断してボールとじゃれつきはじめる。

 猫にすら興味を持たれない。それほどまでに僕という存在には魅力が欠如している。

 自らの愚鈍さを意識したのはいつからだったろうか。要領が悪いとよく言われていたので自覚はしていた。だが決して頭が悪いというわけではなかった。僕の意識は冴えている状態と濁っている状態を、ブランコのように絶えず行き交っていた。だから僕の頭は不安定だった。

 授業中、教師に問題を解くように指示をされ、開口する寸前までわかっていた解答が雷に打たれたかのように矢庭に頭から消えることがあった。友人との会話の最中にラジオの電波が乱れたかのように言葉の意味が頭に入らなくなることがあった。母親に夕食の完成を告げられた際、彼女が口にしている名前が誰を指しているのかわからなくて戸惑うことが、テストのときに答案用紙の氏名欄になにを書けばいいのかわからなくなり、無記名で用紙を提出したことがあった。

 普段できていることがなんの前触れもなしにできなくなる。そんな不確かな状態に陥る度、自分は頭がおかしいのではないかと思った。脳へと血液を送っている血管のどこかに血流を乱す瘤ができているのではないかと考えて、手首に浮いて見える青い筋や首筋に指を這わせてみたがそれらしいものは見付かったことはなかった。早く原因を発見しなければ、いつの日か周囲の人に頭がおかしいことを察知され、迫害されるのではないかと恐怖し、怯えていた。

 モクセイと名付けた猫は、名付け親である僕に懐いているようには思えなかった。猫にとって名付け親よりも世話をしてくれる人の方が大事なのだろう。僕に名前を付けたのは父親だろうか母親だろうか。僕の世話をしてくれているのは父親だろうか母親だろうか姉だろうか。僕は名付け親と世話を焼いてくれている人を大事に思っているだろうか。

 モクセイと名付けた猫は、世話をしてくれた姉に感謝をしていた。だから姉のもとで死ぬことを望んだ。名付け親の僕にはその役を望まなかった。僕は感謝しているだろうか。両親に、姉に。名付け親には感謝するのだろうか。僕の名付け親は誰だろう。死ぬときは誰のもとに赴けばいいのだろうか。

 姉と二人で庭の端に猫の墓をつくった。シャベルで小さな穴を掘り、そこに冷たくなった猫の死体を押しこんだ。

 茶色い土を上から掛け、カブト虫の幼虫のように縮こまった死体を見えないようにした。作業を終えると姉は二つの手の平を貝のように合わせて瞑目した。僕もその真似をしたが、こんな動作に意味があるとは思わなかった。そんなことよりも身近に起きた死という現象に興味を引かれていた。死とはなんだ。両親や教師に訊けばわかるだろうか。辞書を引けばわかるだろうか。数週間考えた末、実際に死を経験しているモクセイに訊くことが一番正しいように思えた。

 両親や姉が寝静まるのを待ち、モクセイを埋めた場所へと忍び足で向かった。目印に立てられたアイスキャンディーの棒には僕が名付けた名前が記されていたが、それももう消えかかっていた。

 棒を土から抜き出し、シャベルを使って音が響いてしまうことを警戒し、月明かりだけを頼りに素手で土を掘った。しかし、どこまで土を捲ってもモクセイは現れなかった。僕も月も死体を見つけ出すことができなかった。

 それが死というものだ、ぼんやりとそう思った。

 死は猫にだけではなく僕にも訪れる。それは日が明けると朝が訪れるくらい厳然とした事実だった。僕はいつ死ぬのだろうと考えた。四十を超えた父や母はまだ生きている。十四歳の姉も。モクセイは何歳だったのだろう。

 死について考えているときだけは頭が明晰だった。死について考えてさえいれば僕の頭が狂っていっていることを周囲に知られることはなかった。しかし死について考えているからといって死にたいわけではなかった。むしろ恐怖しているが故に僕は考えていた。

 図書室にある死について書かれている書物をいくつか借りて目を通してみたが、そこに書かれているものはすべて嘘だと感じた。死は小難しい言葉で複雑化したものや高尚な意味合いを持ったものではなく、無意識に行われる呼吸と同じくらい自然で単純なことだと思った。なによりも嘘くさく感じた原因は、これを記した人物たちはことごとく死を体験していないことだった。

 僕はどうすればもっと深く死について知ることができるだろうかと考えた。行き着く結論はいつも決まっていた。何度か実践しようと思い立ち父親のナイフを持ち出してみたものの、手が激しく震えてナイフを握ることすらままならず目的は果たせなかった。やはり死ぬことは怖かった。だからこそ、さらに知りたくなった。

 死せずして死に近づく方法は、やはりモクセイを探すことだと思った。死んだモクセイを探し出し、死とはなにか訊ねればすべてが解決すると思った。そのためにはモクセイに出会う必要があった。僕は再びモクセイの墓を発き、他の場所も掘り起こしてみたが、モクセイの死体はこの庭のどこにも現れなかった。

 モクセイはどこにいったのか考えた。死者は土に還るという言葉をどこかで聞いたことを思い出した。土とはなんだと考えた。土とは地面だと思った。地面とはなんだと考えた。地面とは大地だと思った。大地とはなんだと考えた。大地とは陸だと思った。陸とはなんだ。海ではないところのことだろうか。海ではない場所にモクセイは還ったのだろうか。それはどこだ。それよりも、還るとはなんだ。還るとはもとにいた場所に戻るということだ。モクセイはどこにいたのだ。モクセイはどこで生まれたのだ。モクセイは生まれ故郷に還ったのだろうか。モクセイの故郷とはどこだ。モクセイは雑木林の罠にはまっていた。それならば、この雑木林のどこかにモクセイの故郷があるのだろうか。

 雨の軌跡は雑木林の一本一本の木立のようにくっきりとしていた。まるで雑木林が雨の力を借りてこちらへと迫ってきているようだと思った。ボール遊びを止めた三毛猫がこちらを見上げて言った。

「私はお前が探しているものの居場所を知っているぞ」

「教えてくれないかな」

「ふ、やっと決心したのか。何か心変わりをするような出来事でもあったのか?」

「…………」

「ふふ、出たな。まぁいい、教えてやる。お前が探しているものはあの雑木林にいる」

「わかった。ありがとう」

 座椅子から立ち上がり、雨降る庭へ向かおうとした僕を三毛猫が止める。

「用心のためにナイフを持っていけ」

「用心? あの雑木林のなかにどんな危険があるって?」

「念のためだよ。雨の日の雑木林には、どんな危険があるかわからないからな」

 釈然とはしなかったが、僕はその注意に従うことにした。

 踵を返して背後の部屋の敷居を跨ぐ。大柄の男が爪を切る横を通り過ぎ、時江さんが寝ていた部屋へと向かう。シーツが剥がされた布団を迂回し、桐箪笥の前に立つ。瞬きを素早く二度してから戸棚を開け、写真立ての横にあるナイフを手に取った。

 そのナイフは見た目よりも軽かった。この重さで身を守ることができるのか不安になったので、革の鞘を払って刀身を電灯に晒した。曇っていたが刃は鋭く研がれていた。これで一突きされれば大人でも一溜りもないはずだと思った。

 ナイフを鞘に戻して縁側へと取って返す。ボール遊びに夢中になっている猫の上を跨いでそのまま雨の下へと繰り出そうとすると、キンちゃん、と僕を呼び止める声がした。

「こんな遅い時間なのに、どこに行くの?」

「雑木林」

「雨、すごいよ」

「そんなの、見ればわかるよ」

「帰ってくるの?」

 その問いには答えることなく、僕は縁側から飛び降りた。

 沓脱石の先に着地すると粘度のある血飛沫のように泥が四方八方へと飛散した。融け出した庭に足が沈みこむ前に全速力で雑木林へと駈けたが、雑草が踝に巻き付いて足を取られ、泥沼の庭に何度も引きずりこまれそうになった。

 僕は遮二無二手足を動かして前進した。雨で遠近感が掴めないからか雑木林がやけに遠く感じた。強く前へと進もうと足に力をこめると、その分だけ泥水が飛び、それによってなにか大きなものが背後で崩れ去る音がした。僕は進めているのだろうか。握っているナイフが雨で滑り落ちているような気がして確認する。右手は抜き身になったナイフの柄をしっかりと握っていた。

 ほっとした同時に厚い膜に覆われたかのように雨の音が間遠になった。僕は雑木林へと突入したのだ。




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