(2)雑木林に降る強い雨
音。
音がした。
おそらく今日初めて耳にした物音。時江さん? 隙間風? どちらだろう。どちらでもいいか。いや、どちらか調べた方がいい。空腹もそろそろ限界だ。いや、そんなことはどうだっていい。時江さんは大丈夫だろうか。心配だ。
立ち上がると膝関節からパキパキと小枝を折ったかのような音が鳴った。縁柱に手を添えて軽い立ち眩みが過ぎ去るのをしばらく待ってから、背後にある座敷の障子を少し開け、なかをのぞく。
薄暗い。目を凝らす。敷き詰められた畳の上に卓袱台が一つ浮かび上がる。殺風景な内装。障子を全開にすると陽光が厖大な滝のように室内へどっと行き渡り、全容があらわになる。中央にある卓袱台以外に家具はない。やはり殺風景という表現がしっくりくる。おそらくここはなんの用途にも使われていない空き部屋だ。あの卓袱台も少しでも生活感を出すために置かれたものなのだろう。
僕は卓袱台に歩み寄り、天板に手を乗せる。埃一つない。時江さんはこの部屋も毎日掃除していたのだ。冷たい濡れ雑巾で、誰にも使われない机を、毎日、意味もないというのに拭いていたのだ。
どうしてだろう。誰か使う当てでもあったのだろうか。今まで誰一人として来客がなかったというのに。
もしかするとこの部屋は僕のためにあるのだろうか。
その推測によって僕は背後から心臓を握られたかのような衝撃に襲われる。その手は心臓を握力計のように握り締めたり緩めたりして鼓動をかき乱す。全身をめぐる血流に強弱が生まれ、脳に届く血液に波ができる。引いては打ち寄せ、僕を沖合へと浚おうとする。めまいに耐え切れなくなり尻もちをついた僕の視線は、なにもない部屋のなかから懸命になにかを見出そうとしているかのように、天井、天袋、白壁、襖、敷居、畳、あらゆる箇所を行きつ戻りつする。
なにもない、殺風景な部屋。
まるで僕の中身のようだ。
そこにある、一つの卓袱台。
これは僕のなんなのだ。
胸が重石で圧迫されているかのように苦しい。吐息は途切れ途切れになって口腔から飛び出し、なにもない部屋を埋めようとしている。けれど吐息では空間を埋められない。吐いても吐いても、なにもない僕から出るものでは、なにもない部屋を満たすことはできない。いつまでも。なにもかも放り出してこのまま眠ってしまいたくなる。なにもない場所で、なにもないまま、なにもなく、なにものでもなくなって、しまいたい。
「――ゃん」
その声は、白紙に垂らされた一滴の墨のように、なにもない僕のなかに落ちてきた。
声量は神経を研ぎ澄まさなければ感じられないほど薄弱としていたけれど、なにも描かれていない紙面ならばその弱さはさほど問題ではない。滴下した地点からじわりじわりと拡がっていき、その円周が煙のように滲みはじめた頃にはまた次の点滴が生じて、真っ白だった紙には墨の点が散発的に描かれていく。
慈雨のように聞こえてくる声にこのまま身を晒していれば、なにもない僕は満たされていくような気がした。しかし、声は降り終わりのように一滴ごとに力が失われていっている。次第に勢いがなくなり、やがて色を失った無色の液体が落ちてくる。そのなにもない液体は、せっかく紙面に染みついた墨の点画をぼかしてしまう。それをどうにかしなければ、紙は無残なごみ屑に変えられてしまう。そう思った僕は、声の在り処を求めて隣室へと通じる襖を開いた。
そこに時江さんが横たわっていた。
萎んだ布団に挟まれて、小さく震えて僕の名前を呼んでいた。
今にも途絶えそうなその様子を見て、僕はこの部屋に踏み入っていいものか躊躇した。足裏がこの一間の領域に触れた瞬間、着地の微細な振動が切欠となって時江さんをバラバラに砕いてしまうような気がした。
そんな懸念などお構いなしに時江さんは血の気のない唇で執拗に僕を呼び続けている。自分でも忘れてしまうほど取るに足らない名前だというのに、息子のように愛おしく連ね続けている。
その一声ごとに勇気をもらい、僕は一歩ずつ、凍り付いた湖の上を踏むように用心深く時江さんのもとへと歩んでいく。
平気、平気だ。時江さんはまだ僕を呼んでいる。僕はまだ時江さんに呼ばれている。名前を呼ぶということは必要としているからだ。時江さんは、時江さんだけは、僕をまだ必要としているのだ。
仰向けの時江さんのそばに寄り、その枕元に慎重に座りこむ。時江さんは名前を呼ぶのを止め、顔のしわと変わらないくらい細く、目を開ける。
「――ンちゃん」
普段のように微笑もうとしているが、それが叶わないことが表情から伝わってくる。顔のしわはもうしわではなくて、ただの傷跡のようにしか見えない。頭部を覆う白髪は時江さんに血液がもう残っていないことを示しているようにしか思えない。
終わる。
終わってしまう。
一人の人間が目の前で終わろうとしているのに、僕はまだ頭の端で自らの進退を気にしている。そんな僕のことを終わってしまうはずの時江さんが気に掛けている。
「ごめんね、お腹減ったよね」
その一言で僕は知る。他人を思いやらないで自らのことばかり心配しているから、僕の居場所はどこにも存在していなかったのだ。
自分以外を思いやる気のない僕に居場所は永久にない。それなら僕はどうすればいい。場所がないのに、僕はどこで生きていけばいい。誰か教えてくれ。いや、ずっと教えてもらってきたのだ。あらゆる人から、僕は教えてもらってきたのだ。
だから知っている。人を気づかうしかないのだ。人を気づかい、そして、その人のなかに自らを定着させるしかないのだ。居場所はそうやってつくりだすものなのだ。
今更、僕にできるだろうか。やるしかない。今ここで変わろうという意志を示さなければならない。自らの命を賭してそのことを教えてくれた時江さんに示さなければならない。
薄っすらと目を開けている時江さんをのぞきこみ、そのまぶたの奥に潜んでいる渇いた瞳に頷きかける。言葉がなければ考えは伝わらないことはわかっている。しかし決意は、言葉なくとも通じるはずだ。
僕は台所を探すことにした。もう昼時はとっくのとうに過ぎている。時江さんだって空腹だろう。なにか栄養を摂らなければ恢復もしない。
僕は一旦、殺風景な部屋まで戻り、右手にある閉じ切られた襖を開ける。そこから先は隧道のような廊下に通じていた。
廊下の幅はひと二人が優にすれ違えるくらいあったが、やけに薄暗い。奥の突き当たりからは左右に通路があるようで、その右から光がぼんやりとこぼれていた。その光がなければ、この廊下はもっと暗いのだろう。そう思いながら床板を踏むと、骨が折れたときのような不気味な軋み音が鳴った。音は最初の一歩だけに発せられ、二歩目以降はなにも伴わなかった。しかし、進むごとに足裏から温度が失われていっているような気がし、僕はやや歩調を上げて急いだ。
突き当りに到達すると、洞窟から抜け出したかのように明るくなる。目を慣らしながら光が射しこんでいる方を見ると、そこは玄関だった。
コンクリートの土間には、色の褪せたサンダルとくたびれた運動靴が一組ずつ置かれていた。曇りガラスの玄関戸から採りこまれた淡い光がサンダルの突っ掛けにある金具に反射して、その部分だけが真新しいように見えた。
なにもかもを放って、その玄関から飛び出してしまいたくなった。けれどそれは許されない。もし実行してしまえば、僕は永遠に居場所を得られなくなるからだ。
玄関から顔をそらしてその反対側へと移す。そちらには小豆色の暖簾が掛かっていて、僕はそろそろと足場を確かめるようにしてそこへと赴いた。
手で暖簾を払ってなかをうかがうと、そここそが僕の求めていた台所だった。
それがわかった瞬間、ずっと押し黙っていた空腹の虫たちが子どものように喚き散らし、胃のなかで暴れ出した。片手を腹に添えて虫たちをなだめるように擦ったが、食物の気配を感じ取った虫たちの興奮は治まらず、ますます声を増大させ、胃液を撒き散らせては内壁に突撃して大暴れした。
腹の内側から勢いよく衝突してくる虫たちを手の平で押さえながら、僕は暖簾をくぐって台所へと踏み入る。
三畳ほどの台所は整然としていた。壁際にある食器棚のなかには正三角形のように形を揃えて積まれた平皿と汁椀と小鉢が数組あり、その棚のそばにある小机の上には、白い台布巾が畳まれて置かれていて食べかすなども当然ない。一見して清潔な印象を抱いたが、どこか荒廃した空気のようなものが部屋全体に陰っているように感じた。
腑に落ちない想いをしながら進んでいく。ステンレスの調理台に置かれていたいくつかの小瓶が目に入る。それぞれの小瓶には、塩、砂糖、胡椒など、瓶の中身を示す名前を記した紙が貼られていた。僕は何気なく瓶の一つを手に取る。「砂糖」と書かれた紙の端は、まるでその名前を葬り去ろうとしているかのように黄ばみが蝕んでいた。
瓶をもとに戻し、他に目ぼしいものがないか辺りを見回す。調理台の隣にある流し台、銀色の万華鏡のように光っている排水溝、水の張られたタライの水面、凍結しているかのように微動だにしないその死滅的な水面を見ていると、先ほど感じた荒廃の陰りを思い出した。
僕はその原因を探すため、台所の端から端へと視線を移動させた。答えは時間を要せずに見つかった。ここには、冷蔵庫が見当たらないのだ。
冷蔵庫がないというのに、時江さんは食材の保存をどうしていたのだろうか。そもそも買い出しに行っていた気配が今までなかったことを思い出して不思議に思う。僕が寝入っている間に出掛けていたのだろうか。それとも、近所に住まう親切な誰かが配達してくれていたのだろうか。
数十秒の間、様々な想像をしていたが、それは今考えていても仕方がないことだと気が付き、沈みかけていた思考を慌てて釣り上げる。
他になにかないだろうか。見回しているとガスコンロの上に手鍋を発見する。蓋を取った先には、よく見慣れた、見ただけでその味を思い出すほど食べ慣れた粥があった。しかしその粥は、魂が抜かれたかのように冷め、押し固められた土となって鍋底にへばり付いていた。
湯気が消えてから久しい粥を見下ろしていると、どこからともなく唾液があふれてきて、腹の虫たちが気の触れたかのように声高に鳴きはじめる。
自らの空腹はもう隠しようがなかった。背後を振り返り、そこに誰もいないことをこの目で確かめてから、親指を除いた四本の指を匙のように湾曲させ、粥に直接手を付けた。
死体のような冷たさが指を覆う。構わず口へと運んで犬のように貪り食う。冷え切った粥の米粒は、蛭の粘膜のように口蓋や歯茎にこびり付き、なかなか喉元へと移動しない。僕は舌先でそれらを入念にこそぎ落とし、舌を波打たせて喉の奥へと進めていった。
おそろしく惨めで死んでしまいたくなるほどの後ろ暗さが背後から僕を見て笑っていた。この手を止めたかった。けれどそれはできなかった。手は夢中で死んだ粥を掬い上げ、口は手よりもさらに夢中になって粥を咀嚼した。胃袋では、すり潰された粥の残滓に腹の虫が殺到し、黒い一塊となり、粥が落ちてこなくなるまで僕の腹のなかで蠢いていた。
空になった鍋を流し台にあるタライのなかに沈めると、一仕事終えた後の安息を味わうかのようなゲップが出た。本当にどうしようもないと我ながら思った。
所詮、僕はこうなのだ。自分の損得だけを考えてばかりだ。でもそれは仕方がない。僕は自分のことでだけで精一杯だ。他人に配る思いやりなんて一欠けらもない。そもそも自分の面倒すら見られない人間が他人を気づかえるわけがない。そんなことをしたって迷惑をかけるだけだ。
そう開き直っていたら、全身を拘束していた力が抜けて楽になった。その後に少し虚しくなって、すごく悔しくなった。
目頭が炎であぶられているかのように熱くなり、それを消火するための涙があふれ出す準備をはじめていた。
僕は急いで水道の蛇口を捻り、流れてきた冷水で涙より先に顔を洗った。ついでに粥でベトベトになった手も洗い、着ていたシャツで顔と手から水気を拭う。そうしてから何食わぬ顔で時江さんのいる部屋まで取って返した。
僕が戻ってくると時江さんは、もうまぶたを開く余力もないのだろうか、目を開けずに薄く微笑んで迎えた。その邪気のない笑顔に怯みながら僕はまた枕元に座りこむ。
なにをしていいのか、
なにか話し掛けた方がいいのか、
どうすればいいのか、
僕はわからなかった。
いっそ時江さんに僕はどうすればいいか訊ねようとして口をぱくぱく開けたり閉じたり、餌の幻影を見ている阿呆の金魚のように、ぱくぱく、ぱくぱく、と開閉していた。その口から室内の空気が絶えず流入し、そうする度に時江さんのあの臭いが口のなかで濃縮されて肺腑へと取りこまれていくような気がした。しかし、肺から吐き戻されてくる呼気には時江さんの臭いはもう残ってなく、かといって僕自身の体臭として時江さんの臭いが発せられるようなこともなく、僕はいつまでも僕のままであり、この室内で変わっていくものは時江さんだけだった。
前と立場が入れ替わったというのに、なにもして上げることができなくて申しわけなさで鬱々としてくる。せめてこれまでのことを思い出すことがはなむけにならないだろうかと記憶を漁ってみたが、取り出した記憶はどれも不鮮明な色調を帯びていて、もしかしたら僕はそれほど時江さんに感謝していないのではないかという懐疑が脳裏を占領する。いやそんなはずはない、と頑なに否定を試みたが、それなら行動で示してみろと言い返され、二の句が継げなくなる。
だって僕は、
なにをすればいいのか、
本当にわからない。
その文句を呪詛のように心中で復唱する。
何度も何度も何度も。