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(1)雑木林に降る強い雨



 縁側から眺めるその庭は、荒波立った大海に見えた。

 禍々しく不均一に生い茂った雑草は苛立った波頭、土埃に汚れ底にぽっかりと穴を空けて転がっているバケツは大嵐に呑みこまれた船の残骸だ。

 その船の乗組員や乗客たちはそこから四、五歩離れたところにある割れた鉢植えの孤島に無事に漂着できたのだろうか。横倒しになった脚立の岬の近くに立っている野晒しのシャベルは、行方の分からない漂流者たちを探す灯台なのだろうか、彼らを弔う墓標なのだろうか。


 どちらだろう。

 どちらでもいい。


 僕の思考は渡り鳥のように庭の先にある雑木林へと移っていく。数える気も起きないほど数多の木立が折り重なり合い、上部の葉はそれが誰の所有物か判別できないほど錯綜し、その内部は鬱蒼としている。そのため、いくら目を凝らそうとも木々の種類を見分けることができない。だからすべて同一のものに見えてしまうが、それでもあの木の群れを雑木林と呼びたくなってしまうのは、青天まで頭を突き上げた彼らが互いの肩を押し退けるようにして密生しているからだろう。

 その疑問を置き去りにして、意識はさらに雑木林の奥へと突き進む。地面で絡まり合っている下草を踏み越え、新月夜のような奥部へと向かっていく。隠れている獣たちの臭い、威嚇する鳥の叫び、素肌を狙って奇襲を仕掛けてくる虫を間一髪で回避しながら、あの雑木林のただなかで起こっているかもしれない光景を夢見心地の半眼になって思い浮かべてみる。

 生き争っている木々。その根元を覆うようにして生えた草の薮。そのなかに腰を屈めてうずくまり、銀色の刀身を晒したナイフを握りしめて息を殺している人物がいて、土塗れの服を着込んだその全身は水を浴びたかのように濡れそぼっている。それが雨なのか汗なのか僕にはわからない。彼が誰なのかも見当がつかない。僕の知らない誰か、僕の知っている誰か、それとも僕か。このどれかが正解だろうか。

 そのどれかの人物は、薮の隙間から雑木林を監視している。瞬きの少ない眼や呼吸の深度から、彼がそこでなにかを待っているのだと、本人であるかのように感じる。

 一体なにを待っているのだろう。

 その続きを考えようとするとき、毎回のように背後の座敷から時江さんの擦れた声が投げかけられ、雑木林をさ迷っていた僕の意識を乱して縁側へと連れ戻すのであった。


「今日は洗濯日和のいいお天気ね」


 その度に僕は、脳内の映像を時江さんにのぞかれているかのような錯覚に陥り、もしそうならば、時江さんは草薮のなかの人物や、彼がなにを待っているのかを知っているのではないかと密かに疑う。時江さんは僕に疑われていることも知らないで、骨の上に直接皮膚を巻きつけたかのような細い身体を精一杯使い、荒廃した庭の片隅にある竹の物干し竿に洗濯物を干し出す。

 昨日僕が着ていた白いシャツと黒いズボン、下着が僕自身の抜け殻のように竿に吊るされる。風が吹けばそれに合わせて蝶のように舞い、しわを伸ばしながら水気を失くして乾いていく。

 毎朝繰り返されるその光景に、時江さん自身の衣類が加わったところを僕はまだ見たことがない。時江さんは自らの痩身を包む薄汚れた浴衣によほど愛着があるかもしれない。それとももっと別の理由があるのだろうか。

 僕は、汚れが一つもなく動くと花のような匂いを立てる自分の服と、ぼろ切れのようで通り過ぎると雑巾のような臭いを漂わせる時江さんの浴衣とを見比べる。そして、一日中なにもせず縁側から庭を見つめている僕が、時間を惜しむようにまめまめしく家事に勤しんでいる時江さんよりも上等な服を着ていることに罪悪感のようなものを覚える。

 ほんの少しだけ胸が苦しくなったので、せめてもの罪滅ぼしをしようと洗濯物のしわを伸ばしている時江さんの目を盗んで庭に降り立ち、縁側の下にある乾いた土を拾い上げて着ている服に擦り付けた。それだけで時江さんに少し近付いた気分になって苦しさが消え、再び縁側の定位置に据えられた藤の座椅子に戻る。


「あら。どうしたの、それ?」


 僕の服にある償いの跡を見付けた時江さんは、嬉しそうに笑って目尻に扇状のしわを増やす。なにがそんなに嬉しいのだろう。仕事を増やされたというのに怒りもしないで。ぼろ切れをまとった自分との距離が縮まったことを喜んでいるのだろうか。

 そうじゃない、と僕は思う。

 仮にそうだったらこんなにも屈託なく笑わない。時江さんはもっと純粋な理由で喜びをあらわにしている。

 それはなんだろう。

 僕はまた問題を前にして考えこむ。口を開いて理由を訊ねればいいのに、独りで思考のなかへと沈みこんでしまう。

 黙りこくる僕を見る時江さんは、目を細めて顔面の笑みを深くする。まるで、なにかを懐かしんでいるかのように遠い目をして微笑みを顔中に広げる。

 その表情の正体を知るために僕はさらに思考の底へと向かう。わからないことばかりのこの世をわかろうとしないために内側に引きこもる。


 こうして今日も一日がはじまる。流れ雲のように掴みどころのない、そもそも掴む気もない散漫な思考に耽り、気付けば居眠りをして、時折、家内から聞こえてくる物音、綺麗好きな時江さんが家内のどこかを掃除して駈け巡っている音でぼんやりと目覚める。

 なんとなく空腹を感じはじめると折よく時江さんが食事を盆に載せてやって来て、酸欠の金魚のように開口する僕の口に薄く塩の味がついた粥を運ぶ。僕は匙が口元に近付けば開口し、遠ざかれば閉口して咀嚼するという単調な動作だけを繰り返す。それだけで僕の腹は満たされる。

 昼食の給仕を終えた時江さんは、僕の口端に付着した食べこぼしを真っ白なハンカチで拭き取り、言葉を一言二言投げかけてから台所へ戻っていく。


「ギンちゃん、今日は全部食べられたね」


 他愛もないその言葉で僕は自分の名前を思い出し、自分の名前を忘れてしまっていたことを思い出す。どうして忘れてしまっていたのだろう。名前を忘れていたということは、その物体が存在している理由を知らないようなものじゃないか。

 たとえば座椅子という呼び名がなければ、今僕が座っているこれは、腰を掛けられるという役割を備えたものなのかも分からなくなる。もしかしたら僕は、これを勝手に椅子と決め付け、座っているだけなのかもしれない。これの本来の用途はもっと違ったものなのかもしれない。

 それならば名前を忘れていた間の僕は、どんな理由で存在していたのだろうか。僕は本当に存在していたのだろうか。実は僕なんていないのではないだろうか。

 それはないはずだ、と僕は僕に反論する。だって、時江さんは毎日のように僕に話し掛けてくるのだから。

 そこまで考えてから、この家にやって来てから僕は時江さんとまともに言葉を交わしていないことに思い至る。いつも時江さんが一方的に喋りかけてくるだけで、僕からなにか返事のようなものを放ったことは一度もなかった。

 そうか、だとしたら僕はやはり存在していないのかもしれない。時江さんは頭脳に致命的な損傷を負った哀しい老女で、縁側にある置物を人だと勘違いして毎日話しかけているのだ。口を利かない置物のために朝昼晩の粥をつくり、愛着を持って名前までつけているのだ。

 あり得るだろうか。あり得るような、ないような。

 別にどちらでもいいけれど、あり得ると仮定したときに衝突する疑問は僕のこの自意識だ。

 僕は僕であることを認識しているし、だからこそこうやって思考できている。しかし、もしそれすら時江さんの壊れた頭のなかで空想されているものだとしたら、僕は一体なにものなのだろうか。


 僕は一体、なにものなのだろうか?


 満腹からきた眠気で意識が暗転していたことを覚醒してから知る。小さな欠伸をして澱のように残った眠気を吐き出し、空模様や大気の温度から時刻を推測する。

 どうやら一、二時間ほど寝入っていたようだ。

 そう思っていると、僕と同じく微睡みから覚めたかのように雑木林との境目にある草薮が動き、そこから三毛猫がふらりと現れる。その三毛猫は、なにかを求めているような、いないような足取りで茫々と雑草が茂った庭を散々歩き渡り、底の空いたバケツの中身を探るようにのぞきこんでから、まるで枝先に飛来する小鳥のような身軽さで僕の隣にやって来る。

「私はあの雑木林から遥々やって来た」

「それは見ていたから知っているよ」

「そうか。それならば話が早い。お前はそろそろあちらへと戻るべきではないか?」

「あちらってどちらさ」

「あちらとは、雑木林を越えた向こう側のことだ。そろそろ戻ってもいい頃合いだろう。そう思わないか?」

「僕はまだだと思うけど」

「いいや、戻るべきだ。自分でももうわかっているのだろう。心身は十二分に癒えていることに」

「…………」

「だんまりか。お前はいつもそうだ。都合が悪くなるとすぐに内側へと閉じこもる」

 大気に散乱している卵色の日光の粒を食べるかのように三毛猫は大口を開け、牙を剥き出して欠伸をする。そして、昏々とした睡眠へひょいと落ちていった。

 夢の世界へと渡っていった猫に誘われるようにして、僕にも眠気がやってくる。庭先にある岩盤のような沓脱石と地面が接する隙間から伸びてきた夢の草冠が投げ出された足の指に巻き付き、踝、脹脛、太股、腰、腹、胸、首、顔、と順々に上ってくる。目を覆われた所為で三毛猫の姿は隠れてしまったが、継ぎ接ぎ柄の尻尾はまるでそれ自体が一つの生体であるかのようにひょこひょこと前方の茂みを進んでいた。

 僕はそれを目印にして三毛猫を追跡する。清潔な服から露出した肌をナイフのように鋭利な葉が掠める。その度に軟弱な僕の表皮から赤い血液が流れ出していないか気を揉んだ。しかし、先を行く尻尾から目を離して三毛猫を見失う方が恐ろしいと思ったので、切られた肌の損傷具合を確認することを我慢する。それをいいことに葉は続々と肌に群がり、それがまた一つの刃となって手の甲や首筋を怪しく撫でるので僕の肌はぷつぷつと鳥肌を立てた。

 気が触れてしまう寸前のような危うい心地になり、脳みそが沸騰したかのように頭に血が上って目の前が真っ赤に染まる。確かめたい。確かめたい。誘惑に踊らされながら気性が上下し、いっそのこと全身を掻き毟って小さな裂傷を幾筋もつくって血塗れになってしまいたくなる。この肌の下を廻っているか細い管のなかにいる血を、すべて吐き出してしまいたくなるような誘惑に踊らされて、ふと気づくと継ぎ接ぎ柄の尻尾が視界から消えている。

 途端、僕は恐ろしくなって立ち止まる。周囲から音が消え、静寂だけが目前と足元で揺れている。よくよく耳を澄ませば刃物でなにか刺突するかのような音が低く響いている。あれだけ歩いたというのに呼吸は一切乱れていない。不思議だ。なぜだろう。三毛猫を追うことは呼吸を乱すほど重要な行為ではないということだろうか。それならば、呼吸が乱れる行為とはなんなのだろう。耳の底で静かに鳴っていた音がすぐそばまで接近していた。息を呑み、周辺の草薮を凝視する。


 なにもない。

 誰もいない。

 けれど音は、

 鳴り止まない。


 切られた肌から血が出ていないか気になる。赤い血が出ていないか気になる。三毛猫はどこにいっていしまったのだろう。もう遠くへ行ってしまったのだろうか。雑木林の向こう側へと、行ってしまったのだろうか。それとも近くの草陰から狼狽えている僕を監視しているのだろか。あの草薮のなかでうずくまってなにかを待っている人物のように三毛猫は僕を、


「あら、ネコちゃん」


 時江さんの擦れた声によって辺りを覆い隠していた葉群が一斉に燃え去り、僕はいつもの縁側へと戻っている。姿の見えなくなっていた三毛猫は当たり前のように僕の隣におり、時江さんの声に片耳をわずかに動かしただけですやすやと安眠を食んでいた。


「どこから来たんだろうね?」


 腕に抱えていた洗濯籠を脇に置いて屈みこんだ時江さんは、木星のように丸まっている三毛猫を指差してそう訊ねる。僕が目顔を使って三毛猫がやって来た方角を示すと、時江さんは首を捻ってそちらを見、目を細くして沈黙した。

 なぜ黙るのだろう。なにを考えているのだろう。疑問をわき上がらせながら時江さんの頭で光っている白髪を数えてみようとしたが、五本目で残数の厖大さを知って早々に諦めた。

 この白い筋の本数が時江さんのたどってきた年月を示しているのだとしたら、時江さんは何歳になるのだろう。僕の父とは、いくつ歳が離れているのだろう。

「お前の父親は、どこにいるんだろうな」

「さぁ、知らないよ」

「私は知っているぞ。教えてやろうか?」

「別に、知りたくはないよ」

「そんなものなのか?」

「そんなものだよ」

 日の傾きとともに庭の影が濃くなっていく。その様子を傷口から流れ出る血のようだと思う。

 昼の明るさで摩耗し、擦り切れた庭からどろどろと流出する濃い影は、黒い血液のようにどろどろとこちらへと迫ってくる。どろどろの日没を迎えればこの荒廃の庭はいよいよ死滅してしまうのだろうか。今までも生きているようで死んでいたようなものだったから、死んだところでそれほど大差はないだろう。

 赤い太陽が毛を逆立てた動物の背のような雑木林の上端へと沈みはじめると、自分の寝床のようにくつろいでいた三毛猫が大きく伸びをし、庭へと降りる。そして来たときとは反する確固とした足取りで庭を縦断し、辞去の言葉もなく雑木林へと帰っていく。

 空はしばらく鮮やかな紅に染まっていたが、太陽が雑木林へと完全に沈みこむと一転して真っ暗になる。放置されているバケツやシャベル、生え荒んだ雑草、それらを包含する庭は影絵のような平面状になって瞳に映る。ずっと遠く、しかしそれほど遠くもない場所で葉の擦れる音がした。夜行性の鳥獣たちが活動をはじめたのだろうか。

 閑寂とした空間で蠢くその気配は、夜目では停止しているように見える庭の微かな息吹。絶え絶えで弱々しいが、それは確かに吐息のようだった。僕が勝手に死んだと決めこんでいただけで、庭はまだ死んではいない。そう思った。

 当て推量で抹殺された庭の奥底、雑木林の葉陰から星のような煌めきが二つ、こちらを監視していた。僕の動静を、逐一、見逃さないよう、息が詰まる星は増殖する。微生物のように増えて、増えて、増えて。僕の動静を、逐一、片時も、見逃さないよう、息が詰まる。星は増殖する。微生物のように。震えて、震えて、震えて耐える。夜が来る度現れる、幾兆もの視線から逃れるには死ぬか殺すしかない。僕か誰かを。

 星は増え続ける。人が願いを止めない限り。増えて増えて、重なり合い、合わさり、一つの光となり、それがまた別の星の光と合わさりより大きな光となり、いつしか空には太陽が昇っている。


「今日も、洗濯日和のいいお天気だね」


 雨が降ればいいのに。そうすれば星から見られなくなる。温い粥を喉へと滑らせながらそう思い、庭の隅で風に揺らめく服を見て、昨日着ていた自分の服の色を知る。水色のシャツ、黒いズボン。

 昨日つけた土の跡は綺麗さっぱりなくなっている。そのことに気付いたとき、僕の口へと匙を運ぶ時江さんから漂ってくる臭いが普段よりも強烈であることを鼻が感じ取る。

 僕はこみ上げた吐き気でとっさに口を閉じる。匙を拒まれたと勘違いした時江さんは、「もう止めておく?」と気遣うように首を傾げる。僕はまだ鼻を激しく衝いてくる臭いを堪えながら考える。

 一体なんの臭いなのだろう。時江さんの薄汚れた浴衣を隅々まで眺めてみたがその出所は掴めない。困惑する僕の目端では、昨日の服がまるで手招きをしているかのようゆらゆらとはためいていた。

 そのまま食べる素振りを見せないでいると、時江さんはまだ七割も残っている粥を盆に載せ、家の奥へと消えていった。

 時江さんがいなくなるのを待ってから、僕は庭に降り、揺れ動く昨日の服に鼻を押し当て臭いを嗅いだ。時江さんのとは違って吐き気も不快感もない、真新しく清潔で、花束のような香りが鼻腔から脳天へと抜けていった。

 この違いはなんなのだろう。洗濯してあるか否かの単純な違いなのだろうか。僕は自分の上半身を覆っている服の裾を持ち上げ、鼻を押し当てる。干されているものとまったく同じ香りがする。屈みこんで土塊を拾い上げ、それを服に擦り付けて再び臭いを嗅ぐ。土の臭い。そのなかに少しだけ時江さんのものに似通った臭いが潜んでいる、ようだ。

 これはどういうことなのだろう。縁側の座椅子に座りなおして僕は物思いに耽る。

 土に含まれていた時江さんの臭い。それは時江さんが日々刻々と土に近付いているということだろうか。いや、土自体が時江さんに近付いているという場合もある。そのどちらだろうと、土と時江さんという二つの要素が接近していることは間違いない。そして、このまま両要素が接近し続ければいつしか両者は混じり合う。土がしわと白髪の時江さんになるのか、時江さんが荒れた庭の土になるのかわからないが、それは今まで僕と雑木林を物理的、精神的に隔てていたもの同士が一体化することを意味している。

 果たしてそれが良いことなのか悪いことなのか僕には判断できない。二つの要素の同様の機能を有していた部分が一つにまとまるというのであれば、両者の役割として無駄がなくなるので良い気がする。しかしその結果、片側にしかなかった特異的な部分が削げ落とされ、それによって新たに不具合が生じる可能性もある。

 できることなら現状のままなにもかもが変化なく時が経っていけばいい。

 けれど、先ほどの時江さんの臭いを嗅いだ限りでは、その瞬間はもうそばまでやってきているようだ。

 時江さんと土が一つになる、その瞬間が。

 僕の推察を裏付けるように普段なら時江さんが家事をする物音が、まるで屋根裏を走るネズミの足音のように絶え間なく家中から響いてくるのだが、今日は絶無といって差し支えないほど物静かだ。それは、太陽が中天を越えて軒の先から顔をのぞかせはじめ、蜂蜜のように濃密な日向が縁側にいる僕の腰元まで拡がってきても変わらなかった。

 時江さんがはたはたと床板を踏み鳴らしながら昼食を運んできてくれる時刻はとうに過ぎていて、台所から炊飯の匂いが香ってくる様子もない。太陽は淡々と空を移動し、空腹を報せる虫が腹の底で時報のように数回鳴いた。その虫の声に気を引かれたのか、昨日と同じ個所から昨日と同じ三毛猫が姿を現す。そしてやはりなにかを求めているような足取りで庭を徘徊してから、僕の隣の陽だまりにひらりと着地する。

「腹が鳴っているぞ」

「僕が鳴らしているんだから知っているよ」

「そうか、それはそうだな。ならどうして食事を取らないんだ?」

「…………」

「出たな、お家芸。黙っていればなにもかも解決すると思うなよ。それは子どもだけの特権だぞ。お前はもういくつになる。子どもと呼ばれる年齢はとっくのとうに過ぎたろうに」

 それでも置物のように口籠る僕を見て、ため息交じりに三毛猫は続けた。

「まったく、言わぬが花などと気取っているのなら考えを改めた方がいいぞ。お前の沈黙はただの逃避以外のなにものでもない。お前は本当に逃げてばかりだな。ふん。そんなことはない、という面構えだな。それならば、お前はどうしてここにいる。お前はあの雑木林の先にある場所から逃げてここにいるのではないのか。違うなら違うとその口で言ってみろ。言えないだろう。事実だからな。お前は逃げて来たのだ。そしてその逃避の場所でも、お前は沈黙することで回答を拒み、逃げている。……ふん、まだ黙るか。まぁいい。お前がどうしようと私には関係のないことだ。けれどこれだけは言っておくぞ。お世話になった人の最期くらい見届けてやれ。誰にも見守られず独り死んでしまうことは、それまでの人生すべてが無意味だったと突き付けられるくらい、つらいことだ。大草原の片端でひっそりと消えていくような孤独な死に様を耐えられることができるのはな、猫だけなのだよ」

 今まで目を背けていた現実を言語に変えて提示されたことで、僕はようやくそれを視界に収める。

 この家に来てから、いつか訪れると感覚的に見抜いていた光景。それが脳裏で映写される。その映像を繰り返し観ても悲劇だと思えないのは、時江さんがこの世を去る悲しみよりも先に、自らの保身を考えてしまったからだ。

 逃げ場所を失ってしまう僕はこれからどうなるのだろう。またあの場所に帰らなければならないのだろうか。それは嫌だ。嫌だ嫌だ。嫌だからなんとしても回避しなければならない。

 すんすんと鼻を鳴らしている三毛猫を睨みながら、あらゆる手段を考えてみたが、納得のいくものは思いつかない。またあの場所に戻らなければならないと思っただけで背中に冷や汗が浮き出してきて、動悸が激しくなる。

 高ぶっていく心境を映し取ったかのように、夕暮れ前の穏やかな風に吹かれた洗濯物の影は次々とその姿を変えた。トラになってサイになって、戦闘機、革靴、トマト、信号機、電池、ネクタイ、そしてシマウマからキリンになった。

 次々に姿形を変じていくその影にどうにかして終止符を打つため、僕は目を閉じて暗闇に飛び込み、安心できるそのなかで解決策を考える。

 そもそもあの三毛猫が好き勝手に喋っているだけで、僕はまだ自分の目で時江さんの安否を確かめてはいない。時江さんはちょっとした体調不良で仮眠をとっているだけ、もしかすると私用でどこかへ出掛けてしまっているだけなのかもしれない。それに、たとえ時江さんがいなくなったとしてもこの家はここにあり続ける。時江さんがいなくても、ここさえあれば僕はあの場所に帰らなくてもいいのだ。

 暮れかけていた前途に光明が差したことでにわかに高揚した気分を、続く三毛猫の言葉が台無しにする。

「急にニタニタ笑い出してどうした? まさかお前はまた現状を都合よく解釈して楽観視しているのではないか。だとしたらとんだ阿呆だな。いいだろう、仮に自覚がないなら、それなら本当の阿呆だが、その可能性も考慮して私がはっきりと告げてやろう。お前がいくら回答を先延ばしにしようとも世界は刻々と流転する。いいか、世界とはあの雑木林の先にある場所のことだ。そしてそこにいるものたちは、皆一人残らず労働している。そこからあぶれたものは不適合者だ。世界から脱落した、自堕落で、怠惰な、どうしようもない不要物だ。お前はその場所から上手く抜け出したのではなく棄てられたのだ。お前は必要とされていないのだ。お前を必要に感じている場所なんてどこにもないのだ。時江がいなくなればこの場所も消え果ててしまうぞ。この場所は時江とその家族のための場所だからな。部外者が入る余地などないのだ。そんなはずはない、と言いたげな顔だな。ならば訊こう。毎日掃除に勤しむほど綺麗好きな時江がこの庭を荒れ放題にしていたのはなぜだ? 自分の浴衣を薄汚いままにしていたのはなぜだ? いいか、この場所すらお前を必要としていない。お前はなににも必要とされていない。この現実を、その腐った精根で痛感しろ」

 獣のくせに偉そうに説教を垂れる猫に思わずカッとした僕は、その首根っこを鷲掴みにし、雑木林に向けて目一杯放り投げた。しかし猫はくるくるりと器用に宙を回転して身を安定させ、何事もなかったかのように四足の裏でしっかり庭の地面を捉えた。

「癇癪を起こすなんて本当に子どもみたいだな」

 吐き捨てる、というよりは、自らの不正への嘲笑と憐憫のような語調で三毛猫はそう口にして、身を反転させて雑木林の方向へと向かっていった。

 まだ怒りが収まっていない僕は、くねくねと挑発的な動きで遠ざかっていく尻尾に手近なものを片っ端から投げつけてやろうと思ったが、子どもの近くに危険物がないように僕の周辺にも投げつけるものがなかった。

 それなら仕方がない。追いかけてあの尻尾を掴んで力の限り引っ張って引き千切って地面に打ちつけて踏みつけて踏みつけて唾を吐きかけて罵声を浴びせてやろう。と、座椅子から腰を半分上げかけたところで、家の何処かから響いた微かな物音が、憤怒の熱湯で満たされた頭蓋骨のなかに、一欠けらの氷のように投じられた。

 しかしその氷片は熱湯に触れた瞬間に溶解し、温度をわずかに下げることもできなかった。が、水面を振動させ沈殿していた冷静さを浮上させる切欠になった。




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