02-出会い
鳥の囀りが聞こえる。爽やかな草木の香りが鼻腔をくすぐる。
俺が目を覚ますと、そこには森の中だった。頭上には背の高い樹木の壁があり、地面は雑草や落ち葉に覆われている。
「これが、異世界?」
見知らぬ光景に、俺は仰向けのまま静かに呟く。別に驚いていなかったわけではない。未だ微睡の中にいる精神状態では、そう反応するのが精いっぱいだった。
とりあえず寝起きの目をこすると、鈍重な動きで起き上がった。改めて周囲をうかがうと、ここがそれほど深い森ではないことがわかる。木々はそれほど密接して生えているわけではないし、落ち葉だってこんもりと積もっているわけでない。
「ん、んん」
右方から妙に艶めかしい声が聞こえた。もしかして野外ほにゃららというやつだろうか、と俺は胸を期待で膨らませる。おいおい、こんな近くに人がいるのに続行するとか、なんてエロゲー的な思考をしているんだ。
心臓をドキドキさせながら振り向くと、そこでは一人の女生徒が寝返りを打っていた。さっきの扇情的な声はただの寝言だったらしい。
つまり、エロゲー脳だったのは俺のほうだったという話。まあ、実際によろしくされていたところで、携帯でムービーを録画して全国に動画をばら撒いてやっていただけなので別にいい。リア充は砕け散れ。
「つか、他にもいっぱいいるな」
俺と女生徒の対角線上をずっと眺めていくと、そこには何人かの少年少女とプラスアルファが意識を失って倒れていた。ちなみに、プラスアルファというのは塚原のこと。やつはアラフォーなので天地がひっくり返っても少年ではない。
俺は彼らが倒れているのに駆け寄ることもせず、その場で脳内議会を始めた。議題は彼らをどうするのか。そこでは天使と悪魔の二人が議席についていた。あ、そこ、議員少ないとか言わない。二人とか超多い。友達が二人もいれば人生が薔薇色になるレベル。二人で満足できないとかいうやつは心が汚れている。欲に塗れすぎている。神様に罰せられるべき。
出でよファルルウ!
まあいいや。
そんなことより、心の中では既に議論が始まっていた。
『わたくし悪魔は、彼らを助ける必要はないと考えます! なぜなら、彼らは友達ではないからです。むしろ彼らは主(俺のこと)の敵でありました。こちらは暇な時間に任せて全員の名前を覚えていますが、彼らがこちらの名前を憶えているかと言えば、否! そんな最低な人種に対して施す愛などありません。特にそこで寝ている塚原教諭は教師という生徒に対して中立の立場をとらなければならない職業であるにも関わらず、主を『エロがみ椎名』という悪神に陥れるという罪過を持っています! これをどう思いますか、天使議員!』
『異議なし! むしろ、彼らを放っておくことこそ正義であると、わたくし天使は考えます! ここで彼らを救ったところで何の得にもなりません。それどころか、そんなことに時間を消費して、足手まといを増やすのは悪かと! ここは異世界、何が起こるかなんてわからないのです!』
そんなわけで、ほんの一瞬で議決してしまった。というか、そもそも最初から意見は一つしかなかった。議論する意義などなかった。それこそが時間の無駄。
というわけで結論。彼らを助けてやる義務もなければ義理もないので放置。別に、友達じゃないから無視しても構わないとは思わないが、彼らも同じようなことをしていたのだからお相子である。ここで大事なのは、仕返しではないこと。あくまでも俺の行動はロジカルに組み立てられたものによる……。
頭の中で結論付けた俺は、わざわざクラスメートが多く倒れているルート選別して、これ見よがしに彼らを見下ろしつつ、その場所を後にした。ひい、ふう、みい、ここにはクラスの半数がいた。残り半数はどこにいるんだろうな。
割とどうでもいいけど。
そんなこんなで、それから十分が経った。
そして今の状況を簡単にまとめると、俺は完全に道に迷っていた。ただ、森での遭難のお約束、同じ場所をぐるぐると回っているわけではないのだろう。それは、クラスメートの死体――じゃなくて姿をみないことからわかる。
しかし、その事実は何の解決も与えてくれない。どこかに進んでいることがわかっているだけマシと言えなくもないが、それでも森を脱出したわけではないのである。結局は同じことだった。
「……喉、乾いたな」
俺はゾンビのような足取りで、森の中にできた小道を歩いていた。小道というのはズバリなんとなく道っぽくなった場所のことで、他の凸凹したところを歩くよりは特段に歩きやすい。しかも、これはおそらく人が通った道なので、どこか人里に繋がっている可能性があった。早く誰かに助けてもらいたい。いっそ養ってもらいたい。俺はニート志望に進化した。今覚えている技の代わりに気遣いを覚えますか。いいえ。
意味不な思考で暇を紛らわせつつ、たった一人で俺はぽつぽつと冒険を続ける。すると、三分ほど歩いたところで、周囲がどこか今までと違う雰囲気になっていることに気が付いた。
吹けば消えてしまいそうな、小さな違和感。
「水の音だ」
わずかな変化の原因を悟った俺は、自然の力によって舗装された地面を蹴った。小さな石ころが転がっているだけなので、山道に不慣れな人間が走ったとことで問題はなかった。
少しだけ走ると、唐突に森が晴れた。息を切らした俺を出迎えたのは、心地の良いせせらぎ。清涼な水が流れる川が、俺の進行を遮っていた。
俺はまず、その水の透明さに驚いた。なんと、水底を泳ぐ魚の姿がしっかりと目視できるのだ。そのあと喉がからからだったことを思い出して、俺は急いで川辺に寄った。水は綺麗だし、ちょっとくらいなら大丈夫だろう。
喉を鳴らして川水を飲む。生き返ったようだった。元気ハツラツゥ。ついでに顔を洗った。冷たくて気持ちがよかった。
欲を満たしたのちすくりと立ち上がると、上流と下流を交互に眺める。このような水辺には、集落ができやすいと聞いたことがあったからだ。まずは自分の安全を確保しなくてはならないと考えていた。
「どっちかなー」
きょろきょろと観察してみるが、一向に何もわからない。どちらに集落があるのかも、そもそもこのあたりに集落があるのかどうかもわからない。
その時だった。背後の草むらががさがさと音を立てた。
なにやら嫌な予感がして、何もありませんように何もありませんようにと祈りながら、俺はゆっくりと振り返った。
「あ、死んだ」
巨大なライオンがいた。厳密にはライオンではないのだろうが、立派な鬣を持っているあたりがそっくりである。四足歩行だし、でかいし、威厳のあるフェイスをしているし、余計にそれっぽい。ただ、体は黒い体毛に覆われていた。どこか中二っぽいその荘厳な姿は、俺の恐怖心を刺激した。
走って逃げることもできずに、俺はじりじりと後退する。なんで、なんでこんなところに化け物がいるのん? いや、その疑問は愚問。俺が通ってきた道が人道などではなくて、ただの獣道だったという話。すげえ簡潔、まじピンチ。
巨大な黒い獅子は顔を獰猛に歪ませて大口を開いた。空の向こう側に向かって咆哮する。
俺はようやく全身の麻痺から立ち直った。ただ、恐怖を振り切ったわけではなく、単に火事場の馬鹿力が働いただけなのだろう。
幸運にも川はそれほど深くなかった。足首が軽くつかる程度の水位しかない。俺は大きく水音を立てながら慌てて川を横切る。
「な、なんだよあの怪物!?」
叫び、俺は再び未開の森林の中へ飛び込んだ。背後から聞こえてくる重い音に恐怖しつつも、木々を縫うように駆けていく。ちらりと後方をうかがうと、黒い獅子は未だに追いかけてきていた。しかし自身の巨体が仇となっているのか足取りは遅い。逃げられる、と俺は確信した。
だが、その時、風が吹いた。それはそよ風なんてレベルではなく、俺の脇をかすめて木々を易々と切り裂きなぎ倒した。
風の正体。それは黒毛を纏いしライオンである。こいつ、木を無視して突進してきやがった。
「馬鹿じゃねえの、馬鹿じゃねえの!?」
言っても伝わるわけはない。ライオンはここぞとばかりに勝鬨を上げた。その声は大気をびりびりと揺らした。
「もう嫌だ……」
思い返せば、悲惨な人生だった。学校には友達が一人もおらず、学校には友達が一人もおらず……ていうか、友達どころか知り合いすらほとんどいなかったから、辛いエピソードもそれに関することありませんでした。
涙目になった俺を、黒いライオンが上から見下ろす。このゴミ虫が! って言われているような気がした。俺、卑屈すぎるだろ。たぶん、美味そうくらいのことは思われている。俺、食べられちゃうのかよ。
「伏せて!」
俺が現実逃避に身をゆだねたその時、どこかで誰かが叫んだ。俺は反射的に頭を抱えてしゃがみこむ。直後、さっきまで頭があった場所を烈風が通過した。
烈風は木々を揺らすことなくライオンに直撃し、その巨体を弾き飛ばす。彼の口からは苦悶の鳴き声が漏れ出した。ざまあみろ。予想外に自分を傷つけられたことに恐怖したのか、ライオンは脱兎のごとく逃げ出していった。猫兎さんさいなら。
「た、助かった?」
俺は頭をそっと上げてあたりを観察した。なにも変化はない。先ほどの風は、ライオンの突進の時のように自然を傷つけることもなく通り過ぎていったらしい。どういうこと? と首を傾げる。
「よかった、無事だったみたいね」
「ん?」
唐突に声をかけられた俺は、驚きつつもその方角へ振り向いた。
そこにいたのは美しい少女だった。身長は男子の俺と同じくらいなので、おそらく女性にしては高いほうだろう。髪の毛は緑がかった金髪で、ファルルウの金髪のように絶対的に美しいものではないものの、その分どこかミステリアスな雰囲気を醸し出している。
彼女は、その宝石のような青い瞳で俺の顔を覗き込んでくる。
「怪我はない?」
「え、あ、ああ。……えっと、あの、君は?」
しどろもどろに返事をしつつ、俺は問い返した。すると少女は不機嫌な顔になって、
「私、あなたのこと助けたんだけど?」
急に笑顔になると言った。なにこの娘めっちゃ怖いんだけど。一瞬でひよった俺はすぐに敬語で答える。
「ご、ごめんなさい、ありがとうございます。だから怒らないで」
俺は卑屈になることを運命づけられているのだった。しかしそれが、彼女を満足させるに足る対応だったらしい。少女はにこっと笑うと言った。
「よろしい。それで……私が誰かだったわね。私はリーフ。リーフ・アリソンよ」
「リーフ様、ですか?」
「なんで様付け?」
いけないいけない。女王様を前に奴隷に成り下がるところだった。
「リーフさんですね」
俺は改めて少女の名前を確認する。
「別に敬語じゃなくてもいいわよ」
「え、でも、敬語じゃないと絶対に怒りますよね」
「なんでそんなことで怒るのよ。私、貴方にどんな第一印象を与えたのよ?」
リーフ様――ではなくリーフさんはとても不思議そうな顔をして訊いてきた。しかし個人的にはそれは愚問。あの笑顔を見せられたら、全世界の男子は縮こまってしまうと思います。あ、訂正。例外を除いて縮こまってしまうと思います。怒られて喜んでしまう特殊民族のみんなごめんね。忘れてたんだよ。
「さっき、めっちゃキレてました」
本音はもちろん隠して核心を突く。
「あれは冗談よ。冗・談! お礼をするのは当然のことだとは思うけど、そこまで心の狭い人間ではないつもりよ。それとも、私がそういう人間に見える?」
「まあ、それなりに?」
殺人スマイル!
「もちろん冗談ですけどねごめんなさい」
「よろしい。で?」
「で?」
「貴方の名前を聞いてるの。まったく、それくらい察してよね」
そんな空気を読む能力があったら、俺はぼっちにはなっていないと思う。まあ、リーフさんにそんなことわかる由もないんだが。
「えっと、椎名です」
「シーナ? ちょっと女の子みたいな名前ね。いい名前じゃない」
ファーストネームも一緒に伝えようと思ったのだが、その前にリーフの言葉に遮られてしまった。この調子だと、俺のファーストネームがシーナになるのは必至。別にいいけど。
続けて、彼女がこんな質問を投げかけてくる。
「それどそのシーナはこんな場所に何しに来たの? モンスターも出るし、結構危険な場所よ、ここ?」
「まあ、色々あったんですよ」
「色々って何?」
「話すと長くなりますけど、聞きます?」
「聞くわ。でも、長くなるのね……それなら、ここでは落ち着かないから場所を変えましょう」
変えると言ってもどこに? 俺は目線だけで問いかける。
「私の家よ」
何も気にしていないという風な口調でリーフさんは答えた。
何それ、すげえドキドキする。つか、そんなことしたら俺、心臓麻痺で死んじゃうんじゃないの?
どうやら遺書を用意しておく必要がありそうだった。