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彼岸の花

作者: 涼星絵梨花
掲載日:2026/10/08

道端に咲く彼岸花を見ると、ふと思い出す言葉があります。


これは、幼い日に先生から聞いたお話と、大人になってから気づいた、伝えられなかった想いの物語です。

私が小学生の頃、先生がある話をしてくれた。


「皆さん、彼岸花って知っていますか?」


 窓の外では、秋の風に運動場の木々が揺れていた。

 何人かが手を挙げると、先生は黒板に赤い花の絵を描いた。細く伸びた花びらは、私には小さな手のように見えた。


「赤くて、きれいな花です。先生は小さい頃、亡くなった人がいる場所に咲く花だと教わりました。だから、学校の帰り道で見かけたら、そっと手を合わせてあげてください。亡くなった方も、きっと喜びます」


 今なら、それが花の咲く理由ではないと分かる。

 けれど、幼い私には、先生の言葉を疑う理由がなかった。


 彼岸に咲く花。

 会えなくなった人が、誰かに気づいてほしくて咲かせる花。


 そんなふうに思った私は、その日の帰り道、田んぼのあぜに咲いていた彼岸花の前で足を止めた。


 誰が亡くなったのかも知らない。

 何と言えばいいのかも分からない。


 ただ、ランドセルを背負ったまま、小さな両手を合わせた。


 翌日、そのことを話すと、先生は少し目を細めた。


「ありがとう、山田さん」


 褒められたのとは少し違う、静かな言い方だった。

 私は照れくさくなって、うつむいた。


     *


 それから、長い年月が過ぎた。


 ランドセルを背負っていた私は、いつの間にか、ランドセルを背負う子供たちを迎える側になっていた。


 小学校の先生。


 毎日は想像していたより忙しかった。

 授業の準備、保護者への連絡、山のような書類。子供たちに強い口調で注意した日は、帰ってから何度もその場面を思い出した。


 あの先生なら、どう言っただろう。


 そう考えることはあっても、連絡を取ることはなかった。

 教師になったと報告する年賀状を、一度送ったきりだった。


 いつか会いに行こう。

 少し仕事に慣れたら、話を聞いてもらおう。


 そう思ううちに、何年も過ぎていた。


 ある秋の日、登校してきた子が、道端に赤い花が咲いていたと話した。


 その言葉で、忘れていた教室の風景が戻ってきた。

 黒板の赤い花。窓から入る風。先生の声。


 私は、その日の道徳の授業で、彼岸花の話をすることにした。


「皆さんは、彼岸花って知っていますか?」


「知ってる!」

「おばあちゃんの家の近くにある!」


 声が上がり、私は黒板に花を描いた。

 あの先生ほど上手には描けなかった。


「先生が子供の頃、学校の先生から聞いたお話です」


 亡くなった人がいる場所に咲くという、昔の言い伝え。

 花を見かけたら、手を合わせてあげてほしいという願い。


「本当に、そこに誰かいるの?」


 一人の子が尋ねた。


「それは、先生にも分からない。でも、もう会えない人のことを思い出す時間があっても、いいと思うんだ」


 その子はしばらく花の絵を見てから、小さくうなずいた。


 子供たちに、どこまで伝わったかは分からなかった。

 それでも今は、あの日、話してよかったと思っている。


     *


 その夜、職員室で仕事を整理していると、携帯電話が鳴った。


 知らない番号だった。

 普段なら出るのをためらうのに、その時は、出なければいけない気がした。


「もしもし、山田?」


 聞き覚えのある声だった。

 小学校の同級生だと気づくまで、少し時間がかかった。


「久しぶり。どうしたの?」


「あのさ……小学校の時の高橋先生、覚えてる?」


「もちろん。今日もちょうど、先生の話をしたところ」


 電話の向こうが静かになった。


「先生、亡くなったらしい」


 手にしていたペンが、机から落ちた。


「……先生、まだ六十代でしょ?」


「うん。散歩してる途中で倒れて、そのまま……」


 私は落ちたペンを見つめていた。

 拾わなければと思うのに、手が動かなかった。


 ついさっきまで、先生はどこかで暮らしていた。

 私が会いに行っていないだけで、会おうと思えば会える人だった。


「お葬式の日、分かったら連絡する」


「うん。ありがとう」


 電話を切ると、職員室の時計の音が聞こえた。


 今日、先生の話をしました。

 私も、先生になりました。

 うまくいかないことばかりです。


 伝えたい言葉が、今になって次々と浮かんだ。


 机の上には、明日の授業で使うプリントが積んであった。

 私は一番上の紙を裏返して、顔を伏せた。


     *


 葬儀で見た先生は、私の記憶よりも小さかった。


 祭壇の写真の中では、昔と同じように笑っていた。

 名前を呼べば、こちらを向いてくれそうだった。


 帰り際、先生の奥様に声をかけられた。


「山田さんでしょう。小学校の先生になられた」


 驚いて顔を上げると、奥様はうなずいた。


「年賀状、主人が大事にしていたんですよ。自分の教え子が先生になったって、うれしそうに話していました」


 私は何か答えようとして、声を出せなかった。


「あの人、山田さんの学校が近いから、このあたりを散歩する時は、会えないかなって言っていたんです」


 毎朝通っていた道を思い浮かべた。

 時間を気にして、足早に歩いていた道。

 顔を上げていたら、会えた日があったのだろうか。


「……会いたかったです」


 それだけ言うと、奥様が私の手を握ってくれた。


     *


 数日後、先生が倒れた場所を訪ねた。


 学校へ続く道の途中にある、小さな川沿いだった。

 低い土手に、彼岸花が咲いていた。


 先生が亡くなったから咲いたのではない。

 きっと去年も、その前の年も、ここに咲いていたのだろう。


 私は花の前にしゃがんだ。


「先生」


 呼んでみた。

 川の流れる音がした。


「私、先生になりましたよ」


 年賀状にも書いた言葉なのに、口にすると涙が落ちた。


「この前、彼岸花の話をしました。先生が教えてくれたお話です」


 風が吹いて、赤い花が揺れた。


「会いに行かなくて、ごめんなさい」


 両手を合わせたまま、しばらく動けなかった。


 その時、後ろから声がした。


「あ、先生」


 振り向くと、私のクラスの子が二人、ランドセルを背負って立っていた。


「ここにも咲いてるね」


 一人が、私の隣にしゃがんだ。

 もう一人も、その隣で手を合わせた。


「誰か、亡くなったの?」


 私は涙を拭いて、うなずいた。


「先生の、先生」


 二人は何も言わず、花に向き直った。

 小さな手が、胸の前で重なっていた。


 あの日の私も、こんなふうに手を合わせていたのだろう。


 先生がくれた言葉を、私は長い間忘れていた。

 それでも、なくなってはいなかった。

 思い出して、子供たちに話すことができた。


「先生、喜んでるかな」


 一人が小さな声で尋ねた。


「……うん。きっと」


 私はもう一度、手を合わせた。


 ありがとうございました。


 今度は、謝る言葉より先に、その言葉が浮かんだ。


 子供たちが立ち上がり、「また明日」と手を振った。

 私も手を振り返してから、もう一度だけ、赤い花を見た。


 彼岸花が優しく微笑んだような気がした

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


「いつか会いに行こう」

そう思っているうちに、会えなくなってしまうことがあります。


それでも、その人がくれた言葉や優しさは、心の中に残り、誰かへ受け継がれていくのかもしれません。


この物語を読んで、あなたの心に浮かんだ人がいたなら、その方との思い出を少しだけ振り返っていただけたら嬉しいです。

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