彼岸の花
道端に咲く彼岸花を見ると、ふと思い出す言葉があります。
これは、幼い日に先生から聞いたお話と、大人になってから気づいた、伝えられなかった想いの物語です。
私が小学生の頃、先生がある話をしてくれた。
「皆さん、彼岸花って知っていますか?」
窓の外では、秋の風に運動場の木々が揺れていた。
何人かが手を挙げると、先生は黒板に赤い花の絵を描いた。細く伸びた花びらは、私には小さな手のように見えた。
「赤くて、きれいな花です。先生は小さい頃、亡くなった人がいる場所に咲く花だと教わりました。だから、学校の帰り道で見かけたら、そっと手を合わせてあげてください。亡くなった方も、きっと喜びます」
今なら、それが花の咲く理由ではないと分かる。
けれど、幼い私には、先生の言葉を疑う理由がなかった。
彼岸に咲く花。
会えなくなった人が、誰かに気づいてほしくて咲かせる花。
そんなふうに思った私は、その日の帰り道、田んぼのあぜに咲いていた彼岸花の前で足を止めた。
誰が亡くなったのかも知らない。
何と言えばいいのかも分からない。
ただ、ランドセルを背負ったまま、小さな両手を合わせた。
翌日、そのことを話すと、先生は少し目を細めた。
「ありがとう、山田さん」
褒められたのとは少し違う、静かな言い方だった。
私は照れくさくなって、うつむいた。
*
それから、長い年月が過ぎた。
ランドセルを背負っていた私は、いつの間にか、ランドセルを背負う子供たちを迎える側になっていた。
小学校の先生。
毎日は想像していたより忙しかった。
授業の準備、保護者への連絡、山のような書類。子供たちに強い口調で注意した日は、帰ってから何度もその場面を思い出した。
あの先生なら、どう言っただろう。
そう考えることはあっても、連絡を取ることはなかった。
教師になったと報告する年賀状を、一度送ったきりだった。
いつか会いに行こう。
少し仕事に慣れたら、話を聞いてもらおう。
そう思ううちに、何年も過ぎていた。
ある秋の日、登校してきた子が、道端に赤い花が咲いていたと話した。
その言葉で、忘れていた教室の風景が戻ってきた。
黒板の赤い花。窓から入る風。先生の声。
私は、その日の道徳の授業で、彼岸花の話をすることにした。
「皆さんは、彼岸花って知っていますか?」
「知ってる!」
「おばあちゃんの家の近くにある!」
声が上がり、私は黒板に花を描いた。
あの先生ほど上手には描けなかった。
「先生が子供の頃、学校の先生から聞いたお話です」
亡くなった人がいる場所に咲くという、昔の言い伝え。
花を見かけたら、手を合わせてあげてほしいという願い。
「本当に、そこに誰かいるの?」
一人の子が尋ねた。
「それは、先生にも分からない。でも、もう会えない人のことを思い出す時間があっても、いいと思うんだ」
その子はしばらく花の絵を見てから、小さくうなずいた。
子供たちに、どこまで伝わったかは分からなかった。
それでも今は、あの日、話してよかったと思っている。
*
その夜、職員室で仕事を整理していると、携帯電話が鳴った。
知らない番号だった。
普段なら出るのをためらうのに、その時は、出なければいけない気がした。
「もしもし、山田?」
聞き覚えのある声だった。
小学校の同級生だと気づくまで、少し時間がかかった。
「久しぶり。どうしたの?」
「あのさ……小学校の時の高橋先生、覚えてる?」
「もちろん。今日もちょうど、先生の話をしたところ」
電話の向こうが静かになった。
「先生、亡くなったらしい」
手にしていたペンが、机から落ちた。
「……先生、まだ六十代でしょ?」
「うん。散歩してる途中で倒れて、そのまま……」
私は落ちたペンを見つめていた。
拾わなければと思うのに、手が動かなかった。
ついさっきまで、先生はどこかで暮らしていた。
私が会いに行っていないだけで、会おうと思えば会える人だった。
「お葬式の日、分かったら連絡する」
「うん。ありがとう」
電話を切ると、職員室の時計の音が聞こえた。
今日、先生の話をしました。
私も、先生になりました。
うまくいかないことばかりです。
伝えたい言葉が、今になって次々と浮かんだ。
机の上には、明日の授業で使うプリントが積んであった。
私は一番上の紙を裏返して、顔を伏せた。
*
葬儀で見た先生は、私の記憶よりも小さかった。
祭壇の写真の中では、昔と同じように笑っていた。
名前を呼べば、こちらを向いてくれそうだった。
帰り際、先生の奥様に声をかけられた。
「山田さんでしょう。小学校の先生になられた」
驚いて顔を上げると、奥様はうなずいた。
「年賀状、主人が大事にしていたんですよ。自分の教え子が先生になったって、うれしそうに話していました」
私は何か答えようとして、声を出せなかった。
「あの人、山田さんの学校が近いから、このあたりを散歩する時は、会えないかなって言っていたんです」
毎朝通っていた道を思い浮かべた。
時間を気にして、足早に歩いていた道。
顔を上げていたら、会えた日があったのだろうか。
「……会いたかったです」
それだけ言うと、奥様が私の手を握ってくれた。
*
数日後、先生が倒れた場所を訪ねた。
学校へ続く道の途中にある、小さな川沿いだった。
低い土手に、彼岸花が咲いていた。
先生が亡くなったから咲いたのではない。
きっと去年も、その前の年も、ここに咲いていたのだろう。
私は花の前にしゃがんだ。
「先生」
呼んでみた。
川の流れる音がした。
「私、先生になりましたよ」
年賀状にも書いた言葉なのに、口にすると涙が落ちた。
「この前、彼岸花の話をしました。先生が教えてくれたお話です」
風が吹いて、赤い花が揺れた。
「会いに行かなくて、ごめんなさい」
両手を合わせたまま、しばらく動けなかった。
その時、後ろから声がした。
「あ、先生」
振り向くと、私のクラスの子が二人、ランドセルを背負って立っていた。
「ここにも咲いてるね」
一人が、私の隣にしゃがんだ。
もう一人も、その隣で手を合わせた。
「誰か、亡くなったの?」
私は涙を拭いて、うなずいた。
「先生の、先生」
二人は何も言わず、花に向き直った。
小さな手が、胸の前で重なっていた。
あの日の私も、こんなふうに手を合わせていたのだろう。
先生がくれた言葉を、私は長い間忘れていた。
それでも、なくなってはいなかった。
思い出して、子供たちに話すことができた。
「先生、喜んでるかな」
一人が小さな声で尋ねた。
「……うん。きっと」
私はもう一度、手を合わせた。
ありがとうございました。
今度は、謝る言葉より先に、その言葉が浮かんだ。
子供たちが立ち上がり、「また明日」と手を振った。
私も手を振り返してから、もう一度だけ、赤い花を見た。
彼岸花が優しく微笑んだような気がした
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
「いつか会いに行こう」
そう思っているうちに、会えなくなってしまうことがあります。
それでも、その人がくれた言葉や優しさは、心の中に残り、誰かへ受け継がれていくのかもしれません。
この物語を読んで、あなたの心に浮かんだ人がいたなら、その方との思い出を少しだけ振り返っていただけたら嬉しいです。




