Children of Sanuma 〜Taiga's story〜
性転換手術後の後養生を終え、退院した朱里を大地がタイにまで迎えに行く、と聞いた時に内心驚いたのは事実だった。
ほとんど日帰りで海外にまで行く、ということに単純に疑問が生じたのだった。
でも大地は初めての海外でのライブを大いに楽しんだ直後だったから、また海外に行ける口実を捕まえられて浮かれているのだろう、と思い、どこか胸騒ぎしている自分を無理矢理納得させたのだった。
だから、驚いた。
タイで大地が朱里にプロポーズをして、しかもそれが即座に受け入れられたというのは。
信じられなかったし、信じたくもなかった。
ずっと心の中で暗雲めいていたものがついに実体化したというか、見ぬふりを頑張っていた自分の馬鹿さ加減が明らかになったというか。
おめでとう、という言葉は、だからなかなか口を出なかった。
言わなければならない、という義務感は出迎えた空港で大地から結婚の報告を聞いたその瞬間から脳裏を支配していたものの、言語化されたのはおそらく数日も経ってからのことだったと記憶している。それも曖昧だけれど。
頭の中が真っ白になりつつもようやく口を出た最初の一言は、たしか「おめら、付き合ってもねえべな」という自己防衛のそれだった。
そう、大地と朱里はいわゆる男女交際の仲にはなかった。
たしかに幼馴染で幼稚園から一緒。
でも、それは自分も同じだった。
一歳年上ではあったけれど、幼稚園も二年間一緒に通ったし、小学校だってほとんど一緒に通った。休みの日には毎日のように遊んでいたし、バンドを始めてからは毎日馬鹿みたいに練習していたから、朱里とは家族よりも長い時間一緒にいた。
朱里は声を持っていなかった。
でも長い時間一緒にいれば、大体朱里が何を考えているのかはわかったし、ああ見えて、ひどく負けず嫌いなこと、頑固なこと、それでいて人心の機微には誰よりも敏感で優しいことを知っていた。
そして朱里は生まれ持った男性の体に強い違和感を持っていた。否、絶望と言ってもよい。憎悪と言ってもよい。小学校高学年ぐらいの時には、周囲からどう見られているのかやたら気にして、なんてことない言動にも傷つき、涙することも少なくなかった。だから朱里は人の痛みに誰よりも敏感だった。
ルアンが強制送還されてしまうかもしれない、となった時、無戸籍で高校進学ができない、となった時、誰よりも苦痛と屈辱、憤怒を覚え、戦ったのは朱里だ。
朱里は喋れないくせに、妥協は大嫌いだった。
白い顔を真っ赤にしてある時は字を書きなぐり、ある時はパソコンのキーボードを叩いた。
そんな時には、こんなに感情的でも喋れないんだな、とどこか冷静に見つめる自分がいた。
これは、朱里に興味がないのではない。むしろその逆だった。
自分は気になったものに対してはできるだけ客観的に見つめようとする癖があった。子どもの頃から空だの雲だの、そういった得体のしれないもの、不思議なものを細かく分析して観察してしまうのだ。気象学者とか天体学者になれたらいいな、と漠然と思っていたこともある。
朱里はいつも、自分にとって最大の観察対象だった。
理屈では理解できないことが多すぎたから。
体は男なのに、心は女。喋れないのに、感情的。人から理解されたいのに内弁慶。恥ずかしがり屋なのに妙に積極的。繊細なのに負けず嫌い。
そんな朱里が作る曲は、だから唯一無二になるのは当然だった。
あんちゃんから作曲を教わったと言っていたけれど、よくよく聞いてみればそれは使用機材の話であって、音楽理論を教えてもらったわけではなし(そもそもあんちゃん自身音楽理論を知っているのかは極めて怪しい)、楽譜の読み方を教えてもらったわけでもない(あんちゃんはおたまじゃくし一つ読めない)。
だから、朱里は自分の感性と根性とで音楽を作っていった。
小さい頃からピアノを習っていたから多少の音楽の心得はあったかもしれないけれど、バンドでやる曲はそれとは全然違うから相当大変だっただろう。いつも相当苦心、というよりも苦悶しながら作っていた。
新曲の音源データを初披露する時には、俺ら相手にいつも気の毒なくらいに緊張していたし、練習の最中も自分のテクニック云々よりも常にバンドとしての楽曲全体を気にしていて、「リフ変える」だの、「構成変える」だの、突然言い出すことも少なくなかった。
朱里はいつも何かとてつもない強敵とでも戦うように、作曲に尽力していた。
目指すべき理想があって、それが富士山頂だろうがチョモランマ山頂だろうが、意地でも登ってやる、そんな無謀さにも直結する根性があった。
それは、単純に音楽での自己表現が性に合っていたからかもしれないし、あるいは、音楽に没頭していれば自分の性別の悩みだったり、声を発することのできない悩みだったりを、一時的に忘れられるからかもしれないが、それはわからない。
でも、仮にそうだとして、同情心で朱里とバンドをやっていたわけでは無論、ない。自分たちはそんな気持ちの悪い気遣いをする間柄ではない。
朱里の才能に真っ先に気づいたのは、紛れもない自分たち三人だ。これだけははっきり、言っておきたい。
朱里が作って来たこの音源をバンドとして音にすれば何か凄いことが起こる、というのは自分たち三人がバンド開始間もない段階で等しく得た直観だった。
たしかに、自分たち三人は誰も音楽の手ほどきなんか受けたことはなし、音楽に対する鑑賞能力がどれほどあるかははなはだ怪しいものだが、それでも朱里の曲ははっきり言って特別だった。こういう音楽を自分たちは聴きたかった、奏でたかった、そう思わせる何かがあった。それで、世界でこれを具現化できるのは自分たちしかいない、そんな使命感めいた感情がむくむくと沸き起こってくるのだ。
徹夜しても手のまめが潰れても、この曲の完成形を見たい。そう突き上げるように思わせるのだ。
しかし、ようやく曲ができ上がってきたな、と思った頃に、朱里は三人に、ああしろ、こうしろ、と更なる無理難題を押し付けてくる。晴れ晴れとした風景が見えてきて、そろそろ登頂だなと思ったところが実は中腹だったとでもいうような形である。
しかも、さらにそこから上にいくのは大抵初心者には無理難題ともいえる技量が必要で、でも朱里は全然妥協はしなかった。妄言もはなはだしい。バカなのではないかとさえ思ったこともある。特にルアンなんかは一番の被害者で、挙句の果てには筋トレのメニューまで文句を付けられる始末だった。ルアンはそれこそ呪詛にも近い悪口雑言を始終まき散らしていたが、それでも数日後には完遂してくるのはやはり朱里の曲が特別だったからだ。それだけ魅力的だったからだ。他の誰にもやらせたくないと思ったからだ。
朱里が性別を間違えて生れてきたのは、そして、発話ができなかったのは、全て音楽を作るためだったのだと、自分は密かに確信していた。
絶望、苦悩。溜まりに溜まった鬱憤、募りに募ったいら立ち、苦痛、憤怒、それらがメタルに邂逅したのだ。邂逅できたのは僥倖だった。すべての負の感情が唯一無二の音楽という形を取って昇華したのだ。
朱里は大抵どこのライブハウスに出ても、店員やブッキング担当から舐められていた。
初めてライブハウスに出た時には、まだ中学生だったということもあるが、見た目は華奢な美少女。実兄は有名メタルバンドフロントマン。つまりはルックス目当ての客とコネ。集客力は実力ではなし。そんな偏見ばかりだった。
まあ、どれを取っても事実は事実なわけだが、それを当の本人にぶつけてくることははっきり言って失礼だと思ったし、口をきけない朱里に代わって自分がそう慇懃無礼に伝えてやったこともあった。
でも朱里は全くと言っていい程気にしてはいなかった。そんなことよりも、自分の音を届けることの方が、それができる場を得る方が遥かに重要だったのだ。
「朱里は、あんちゃんのコネでライブに客呼んでるなんて言われて、腹立たねえのか?」いつか、率直にそう、訊いてみたことがある。
ーー別に いつかわかってくれる
朱里は迷いもなくスマホにそう打ち込んで、自分に見せた。
そんな言葉を淀みなく発する朱里は、どこか自分たちとは違う世界にいるような、崇高な存在にさえ感じられた。
だから、朱里に恋をする、とか、付き合いたい、とかそういう感情は禁忌だと思われた。
神に愛されたらこうなるんじゃないのか? そんなことをちら、と思ったりもした。
でも大地は違った。大地は朱里を普通の女の子として見ていたのだ。大地は物事を深く考えない性質だ。だから理屈も制約も、何もかも平気で飛び越える。
「おめら、付き合ってもねえべな」
そう言った時、
「でも、結婚はできんだど」と、大地は何でもないようないつもの笑顔で答えた。
そんなの、知っている。知っているに決まっている。
この時ほど、大地の何も考えない無謀な行動力を羨ましいと思ったことはなかった。と、同時に、自分には絶対にできないとも痛感された。
だから言ったのだ。考えさせようとして。
「おめ、本当に朱里のこと生涯守ってやれんのか?」
「もちろんだ」
即答だった。
その相変わらず考えなしなところが癪に障ったので、
「朱里は子供も成せねんだど? 声も出ねえんだど?」言ってからはっとなった。喉と舌がぐっと苦くなるような感じがした。冷や汗が出た。
「ほっだごどどうでもいいでねえが。朱里は朱里だべ」大地はあっけらかんと笑って答えた。
呆れた。そして、納得した。
そうやって理屈を飛び越えて生きているところが、自分と大地の絶対に克服することのできない差なのだ。遺伝子は同じでも。育った家が同じでも。
そうしてあっけなく二人は結婚してしまった。親も反対しても仕方がないと思ったのか、すぐに承諾し朱里の親に頭を下げたほどだ。
タイから帰って来た朱里の左手の薬指には、きれいなダイヤモンドが輝いていた。朱里は嬉しそうだった。でもバンドでは変わらず作曲に苦悶し、練習の際に大地にも俺にもルアンにも隈なく注文を付けまくる姿は何一つ変わらなかったので、救われた。だから俺は結婚しても何も変わらず二人に接することができた。
そして、自分は元々朱里に恋心を抱いているわけではなかったのだと思い出した。
そう、あれは、恋ではなかった。
では何だったのだろう。
不可思議な存在、すごく身近なところにいるはずだのに遠くも感じる矛盾した存在、自分とは何もかもが異なる存在。
そう思って、また、確信した。
大地は朱里を特別な存在だとは全く思っていない。一番自分の近くにいた、愛すべき人。ただそれだけ。だからきっと朱里も大地を選んだのだ。
「おめでとう」
そう、ようやく朱里に言えた時、朱里は照れながらも嬉しそうだった。
ーーありがとう
スマホに打ち込んで、見せる。いつものコミュニケーション。
「ずっと姉ちゃんみたく思ってたから嬉しいよ」
ーーわたしも
「これからもよろしく」
ーーこちらこそよろしく
何も知らない朱里はとてもきれいだった。困難を克服し、自分の力で幸せを手に入れた人特有の強さがそこにはあった。思わず瞼を伏せる。その瞬間、思わず目頭が熱くなった。




