他社サービスを利用する
母親から電話が来た。実家にも楽園の扉が出たらしい。父は近所の人に呼ばれて外に出ていて、祖母も準備万端らしい。母は、あんたも戸締まりくらいしてから行きなさい、と言った。僕は、いらんやろ、と言って電話を切った。楽園である。この状況で、まだ人の部屋に入って何かを盗るつもりの奴がいるなら、逆に、そいつの顔を拝んでみたい。
ベランダの外からは、日常から解放された人々の勝利の雄叫びが、あちこちでこだましていた。それに比べて、両隣の部屋も、上下の部屋も、珍しく静かである。もうあっちに行ったのかもしれない。
僕も、すぐ行くつもりだった。楽園に通じる扉はクローゼットの中にあって、掛かっていた服を左右に押し分けて鎮座している。
持っていくのはスマホくらいでいいのか、と思いながら部屋の中を見渡した。病気はなくなると言っていたから、たぶん保険証はいらない。診察券もいらない。薬局のポイントカードも、もう役に立つ場面が想像できない。
ただ、身分証は少し迷った。学生証。免許証。マイナンバーカード。そういうものを、向こうで見せることがあるのか分からなかった。楽園の入口で本人確認をされたら嫌だな、と思った。ここまで来て、顔写真つきのものをお願いします、と言われたら、かなり嫌である。
でも、よくよく考えたら、いるわけがなかった。死んだ人間に会える場所である。墓の下にいる人間や、写真も残っていない祖先までどうにかできる連中が、僕の本人確認で手間取るはずがない。大学の学生証より、もっと根本的な何かで僕を見分けるに決まっている。
家の鍵は、さらに迷いどころだった。閉めるべきなのか、持っていくべきなのか。
しまった、母に聞けばよかった。
悩んだ末、僕は玄関を開け、鍵は靴棚の目立つ場所に置いた。
机の上には大学のレポートが開きっぱなしになっている。
提出期限は今日の二十三時五十九分だった。もう一日早く扉が開いてくれれば、こんなものはやらなくて済んだ。昨日の夜、半分寝ながら参考文献を三つ増やし、文字数を水増しし、結論のようなものを書いた時間は、きれいに無駄になった。提出しなくても、もう単位は関係ない。教授も、学生課も、たぶん向こうへ行っただろう。
そのくせ、楽園の扉が開いたのは給料日の一日前だった。もう一日遅ければ、バイト代が入った。楽園へ行けば金はいらないのかもしれない。いや、いらないだろう。どう考えても、そういう場所だ。もうすでに、こっちでもいらない。けれど、入るはずだった金が入ってこないのは、普通に嫌だった。
向こうで店長に請求できるのか考えていたところで、スマホに通知が来た。
動画配信サービスの、更新を知らせる通知だった。
クローゼットの中には楽園の扉があり、向こうへ行けば、もう映画もドラマもアニメも見放題なのかもしれない。見放題という言葉が馬鹿みたいになるくらい、もっといいものがあるのかもしれない。けれど、使わないサービスに来月分を取られるのは、おもしろくなかった。
僕は、その場でアプリを開いた。
二分で終わらせよう。
アカウント画面を開き、設定を開き「契約状況」を開いた。そこには「現在ご利用中のプラン」と書いてあった。解約という文字は見当たらなかった。「よくある質問」を開くと「解約方法はこちら」と書いてあった。こちらを押すと、ブラウザが開いた。「ログインしてください」と出た。アプリでログインしているのに、なぜもう一度ログインする必要があるのか分からなかったが、いまさらそんなことに怒るのも小さい気がして、鼻で笑ってログインした。
IDとパスワードを入れると、認証コードが送られてきた。届いたコードを入力すると、契約内容の確認画面が出た。現在ご利用中の特典、同時視聴可能台数、限定作品、会員限定クーポン、そういうものが、最後にもう一度見せつけられた。
全部、要らない。
そう思って画面の下まで進むと、小さな文字で「契約元をご確認ください」と出ていた。
契約元。
嫌な言葉だった。
その言葉を見ただけで、楽園から遠ざかった気がした。たぶん、この見放題サービスは動画配信会社と直接契約しているわけではなく、スマホ料金と一緒に払うオプションとして登録されている。大学に入った春、携帯ショップで料金プランを変えたときに、初月無料です、あとで外せますと言われてつけたものだった。
「あとで外せます」の「あとで」が、よりにもよって今だった。
「解約手続きへ進む」を押すと、契約中の通信会社のページへ飛ばされた。
また「ログインしてください」と出た。
今度は笑えなかった。楽園の扉には鍵が掛かっていない。それなのに980円のサブスクは、なかなか僕を信用しない。
このあたりが、地球人としての種の限界だったのだ。
パスワードを入れた。
「本人確認のため認証コードを入力してください」と出た。
届いたコードを入力すると、今度は料金プランの一覧が出た。基本料金、通話オプション、データ容量、端末保証、見放題パック。自分の生活が、月額の項目に分解されて並んでいた。
見放題パックの横にある「変更」を押した。
「現在、このお手続きはお電話のみで承っております」
そう表示された。
電話。
楽園の扉が開いたあとに、電話。
人類がようやく、会いたい相手といくらでも話せる場所へ向かおうとしているときに、月額980円のオプション解約は電話のみだった。受付時間は午前十時から午後五時までだった。時計を見ると、十時十三分である。昨日ならまだ寝ていた時間だ。今日の僕は、楽園の扉が目の前にある状態で、動画配信サービスの解約窓口へ電話をかけようとしていた。
電話はすぐにつながらなかった。かけながら、たぶんつながらないだろうという確固たる予感があった。こういうとき、解約窓口は、つながらない。世界が終わりかけているかどうかは関係ない。向こうには向こうの混み合い方がある。楽園の扉が出ていようが出ていまいが、つながらないものはつながらない。
「現在、大変混み合っております」という音声が流れた。
そんなわけはないだろ。
世界中が楽園へ向かっているはずなのに、解約窓口が混み合っているはずがない。混み合うほどの人間がまだこちらに残っているなら、それはそれで嫌だった。死ななくなる場所を目の前にして、僕と同じように月額料金の停止を待っている人間が何千人もいることになる。
しばらく待つと、音声ガイダンスが流れた。
「ご契約内容の確認は一番。お支払い方法の変更は二番。解約をご希望の方は三番」
僕は三番を押した。
「本当に解約をご希望ですか」
僕は時計を見た。
もう、とっくの昔に二分が過ぎている。
「継続をご希望の方は一番。もう一度特典を確認する方は二番。解約手続きへ進む方は三番」
僕は三番を押した。
「解約前に、現在ご利用可能な特典をご案内いたします」
限定作品が見られるらしい。対象店舗でポイントが貯まるらしい。家族アカウントが作れるらしい。
楽園の扉がクローゼットにある状態で、家族アカウントと言われても困った。向こうには死んだ祖先までいるのだから、家族の欄はどこまで膨らむのだろう。祖父、曽祖父、写真でしか知らない親戚、名前も知らない祖先まで辿りはじめたら、家族アカウントは、たぶん一瞬で上限に達する。
「それでも解約をご希望の方は三番を押してください」
僕は三番を押した。
「解約理由をお聞かせください。料金が高い方は一番。利用頻度が少ない方は二番。他社サービスをご利用の方は三番。その他の方は四番」
僕は少し考えた。料金が高いわけではない。980円は安くはないが、払えないほどではない。利用頻度が少ないのは本当だが、理由の中心ではない。他社サービスを利用するわけでもない。
ただ、ここまでに僕は、アプリでログインし、ブラウザでログインし、認証コードを入れ、契約元を確認し、通信会社のページでもう一度ログインし、もう一度認証コードを入れ、最後には電話までかけていた。
クローゼットの中にある扉は、僕に何も求めてこない。顔写真つきの身分証も、生年月日も、カード番号の下四桁もいらない。それに比べて、月額980円の見放題パックは、僕が僕であることを最後まで信じなかった。
「解約理由をお聞かせください。料金が高い方は一番。利用頻度が少ない方は二番。他社サービスをご利用の方は三番。その他の方は四番」
僕は三番を押した。
楽園の扉が開いた世界を、もっとヘンテコな角度から
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