第3話 東京でなった音
“好きなこと”を人前で表現するのは、とても勇気がいることです。
失敗したらどうしよう。
下手だと思われたらどうしよう。
そんな不安は、夢を持つ人ほど強くなるのかもしれません。
第3話では、美羽が初めて“東京で自分の音を鳴らす”瞬間を描きました。
知らない街。
知らない人たち。
その中で、ピアノに触れること。
音楽は時々、言葉よりも正直に心を映します。
美羽が鍵盤を通して何を感じたのか、ぜひ最後まで読んでいただけたら嬉しいです。
「じゃあ、弾いてみれば?」
その言葉に、美羽は固まった。
「え、いや……」
無理。
そんなの無理に決まっている。
東京駅の真ん中。
知らない人たち。
しかも、さっきまであんなに綺麗な演奏をしていたピアノ。
心臓がうるさい。
でも彼は、どこか当たり前みたいな顔で言った。
「ピアノ好きなんでしょ?」
「……好きですけど」
「なら大丈夫」
簡単に言う。
そんなわけないのに。
美羽はピアノを見つめた。
黒く光る鍵盤。
小さい頃から何度も触れてきたはずなのに、今日はやけに遠く感じる。
周りには何人か人がいた。
スマホを見ている人。
通り過ぎる人。
誰も自分なんか気にしていないはずなのに、全部の視線が怖かった。
「……人、多いし」
小さく呟くと、彼は少し笑った。
「東京って、みんな他人に興味ないよ」
「え?」
「だから意外と大丈夫」
その言葉が、少しだけ肩の力を抜いてくれた。
彼はピアノの椅子を軽く引き、美羽の方を見る。
「せっかく東京来たんでしょ?」
その一言に、胸が詰まる。
どうして東京へ来たのか。
ただ観光したかったわけじゃない。
音楽の空気を感じたかった。
諦めきれない自分を、確かめたかった。
美羽はゆっくり息を吸った。
そして、小さく頷く。
「……少しだけ」
椅子に座る。
その瞬間、世界の音が遠くなった気がした。
目の前には鍵盤。
白と黒。
何年も触ってきた景色。
なのに、指が震える。
失敗したらどうしよう。
下手って思われたら。
そんな考えばかり浮かぶ。
でも。
美羽はそっと鍵盤に指を置いた。
一音目を鳴らす。
柔らかい音が、駅の空間に溶けていく。
その瞬間だった。
不思議なくらい、呼吸が楽になった。
続けて音を重ねる。
好きなミュージカル曲の旋律。
何度も家で弾いた曲。
嫌なことがあった日も、泣きながら弾いた曲。
東京の真ん中で鳴るその音は、いつもと少し違って聞こえた。
緊張していたはずなのに、気づけば夢中になっていた。
音が前へ進むたび、自分の中の何かがほどけていく。
――ああ。
やっぱり私は。
ピアノが好きなんだ。
曲が終わる。
最後の音が消えたあと、少しだけ静かな時間が流れた。
そのあと。
ぱち、ぱち、と小さな拍手が聞こえた。
美羽は驚いて顔を上げる。
近くにいた女の子が、「素敵でした」と笑っていた。
「え……」
思わず声が漏れる。
拍手なんて、想像していなかった。
胸の奥が熱くなる。
隣を見ると、彼がどこか嬉しそうに笑っていた。
「ほら、やっぱ大丈夫だった」
美羽は何も言えなかった。
ただ、泣きそうだった。
誰かに“音楽”を受け取ってもらえた。
たったそれだけなのに、どうしてこんなに嬉しいんだろう。
「名前、聞いてもいい?」
突然そう言われ、美羽は慌てる。
「あ、天音……美羽です」
「美羽」
彼はその名前を静かに繰り返した。
「俺は朝比奈 湊」
その名前を聞いた瞬間、なぜか胸がざわついた。
まだ何も知らないはずなのに。
でも、美羽はこの出会いが、自分の人生を少し変える気がしていた。
東京の朝の光が、ピアノの黒い艶を照らしている。
その景色は、まるで映画みたいだった。
第3話を読んでくださり、ありがとうございました。
今回のお話では、“音楽を好きだと再確認する瞬間”を大切に描きました。
美羽はずっと、自分の夢に自信を持てずにいました。
現実を考えれば、簡単に「音楽で生きたい」と言えない。
それでも、ピアノに触れた瞬間だけは、自分の本当の気持ちに嘘がつけなかった。
好きだから弾く。
苦しくても、やめられない。
その感覚は、音楽だけではなく、誰かの“本当に大切なもの”にも重なる気がしています。
そして今回、朝比奈湊という青年が登場しました。
まだ謎の多い存在ですが、美羽にとって大きな影響を与える人物になっていきます。
音楽を“夢”として見る美羽と、音楽を“生きるように奏でる”湊。
二人の出会いが、この先どんな音を鳴らしていくのか。
次回も楽しみにしていただけたら嬉しいです。




