「お前はクビだ」と言った勇者に、残業代30年分と福利厚生費の未払いを請求したら、勇者パーティーの総資産が差し押さえでゼロになった
王都で最も豪奢な酒場『黄金の獅子亭』は、鼓膜が破れんばかりの熱気と喧騒に包まれていた。
魔王軍の要衝である黒曜の砦が陥落し、四天王の一角が討ち取られたのだ。その偉業を成し遂げた『太陽の勇者』アルムスと彼のパーティーを讃えるため、王都中の貴族や有力者がこぞって酒と金貨を振る舞っていた。
「見よ! これが四天王の角だ! 俺の聖剣にかかれば、魔王軍の幹部など鎧袖一触にすぎん!」
大広間の中心で、黄金の甲冑を纏った勇者アルムスが、血濡れた角を掲げて高笑いしている。
彼の周りには、美しいエルフの神官や、天才と名高い魔導士の少女が侍り、信者からの熱烈な称賛を浴びていた。
そんな光景を、俺――ベルトは、酒場の隅にある薄暗いテーブルから無表情に眺めていた。
手元にはエールではなく、ぬるい白湯。そして、テーブルの上に山積みされた分厚い帳簿と、インクの染みた羽ペン。
俺の役目は勇者パーティーの「荷物持ち兼・会計係」。戦闘には一切参加せず、野営の準備から物資の調達、ギルドへの報告書作成、そして日々の帳簿付けを一人で担う、完全な裏方である。
「……さて、今月の経費精算はこれで終わり、と」
インク壺にペンを戻し、羊皮紙の束をトントンと揃えた、その時だった。
「おい、ベルト。ちょっと面を貸せ」
いつの間にか、酒臭い息を吐きながら勇者アルムスが俺のテーブルの前に立っていた。
周囲の喧騒が、水を打ったように静まる。アルムスの取り巻きたちも、ニヤニヤと嘲笑を浮かべながらこちらを見下ろしていた。
「なんでしょうか、勇者様。明日の王宮への凱旋パレードの備品なら、すでに発注済みですが」
「そんな下働きはどうでもいい。単刀直入に言うぞ」
アルムスは俺の机にドンッと足を乗せ、傲慢に顎をしゃくった。
「お前は今日をもってクビだ。パーティーから出て行け」
「…………」
「魔王軍との戦いはいよいよ佳境に入る。俺たち最前線で命を懸けるエリート集団に、剣も魔法も使えないタダの『荷物持ち』を養ってやる余裕はない。お前みたいな無能は、足手まといなんだよ」
酒場に、ワハハッと下品な笑い声が響き渡った。
エルフの神官が「当然ですわ。彼がいるとパーティーの格が下がりますもの」と同調し、魔導士も「ただ荷物を背負うだけなら、ゴーレムを買ったほうがマシよね」と冷たく言い放つ。
「これを見ろ。俺は今日、王宮から直々に『王国特級戦力』の称号をもらった。これからは国が俺たちの物資を支援してくれる。つまり、お前のような雑用係はもう用済みってわけだ。今すぐ荷物をまとめて、俺の視界から消えろ」
アルムスがまるで汚物を払うような手つきでシッシッと手を振る。
誰もが、俺が泣きついてすがるか、怒って殴りかかってくるか、あるいは惨めに逃げ出すかを期待していた。
だが、俺は微動だにせず、手元の白湯を一口飲んでから、ゆっくりと立ち上がった。
「……クビ、ですね。解雇通知書は口頭ではなく、書面でいただきたいところですが、まあ良いでしょう。状況は理解しました」
俺の声は、自分でも驚くほど冷たく、平坦だった。
前世で「労働基準法違反のブラック企業」を相手に連戦連勝を重ねていた、元・労働問題専門弁護士としての血が、静かに、そして凶暴に沸き立つのを感じていた。
「随分とあっさり引き下がるじゃないか。未練がましく泣きつかれるよりはマシだがな」
「未練などありませんよ。雇用主が契約解除を申し出たのです。被雇用者である私は、それに従うまでです」
俺はテーブルの下から、鉄の装丁が施された分厚いバインダーを取り出した。
「では、解雇に伴う『最終精算』に入らせていただきます。アルムス様」
「あ? 精算だと? 今月の給料なら、すでに銀貨三枚を払ったはずだが?」
「ええ。基本給(手取り)は確かに受領しております。しかし、私が申し上げているのは、過去十年間における『未払い賃金』および『法定福利費の未納分』、そしてそれに伴う『遅延損害金』のことです」
「はぁ?」
アルムスが間の抜けた声を出し、周囲の冒険者たちも何事かとざわめき始めた。
俺はバインダーを開き、王国のギルド法務部が発行した公式な計算書を、アルムスの胸ぐらに向かってバサリと突きつけた。
「アルムス様。あなたは十年前、私を『専属のサポート要員』として雇用しました。契約形態はギルドを介した『雇用契約』。あなたは個人事業主であり、私はあなたの従業員です。……ここまではよろしいですね?」
「あ、ああ。だからなんだ。俺が雇い主だから、クビにしたんだろうが」
「ええ。しかし、あなたは『労働基準』というものを全く理解していない。過去十年間、私はあなた方の野営のために、毎晩不寝番(徹夜の見張り)を命じられていましたね?」
「当然だろう! 俺たちは昼間戦って疲れてるんだ! 戦闘に参加しない雑用係が夜の警備をするのは当たり前だ!」
「なるほど。つまり、私の業務は『24時間365日の待機および実働』であったと自白したわけですね」
俺は眼鏡を中指で押し上げ、冷酷な事実を告げた。
「王国のギルド労働法第36条に基づき、1日8時間を超える労働には25%の割増賃金(時間外手当)が発生します。さらに、午後10時から午前5時までの業務には別途25%の深夜割増が加算される。……十年間、一日も休みなく24時間体制で拘束された私の労働時間は、標準的な労働者の『約三十年分』に匹敵します」
「さ、さんじゅうねん……?」
「加えて、ダンジョン内部などの生命の危険が伴う職場環境における『危険地帯手当』。本来あなたが雇用主として半分負担すべきだった『社会魔力保険料(年金)』および『労災保険料』の十年分の未納。そして何より――」
俺はペン先で、計算書の一番下にある恐ろしい数字をトントンと叩いた。
「これら不払い金に対する『遅延損害金』。ギルド法廷で定められた法定利率は、年利14.6%の『複利計算』です」
「な、なにをごちゃごちゃと……! 魔法の呪文か何かか!? 要するにいくら払えば出ていくんだ!」
理解の範疇を超えた言葉の羅列に、アルムスが苛立たしげに叫んだ。
俺はバインダーを閉じ、酒場中によく響く、通る声で宣告した。
「未払い基本給との差額、五千万ゴールド。
時間外および深夜・休日割増手当、二億五千万ゴールド。
未納の法定福利費および労災保険料、八千万ゴールド。
そして、過去十年分の複利計算による遅延損害金、一億二千万ゴールド。
――合計、五億ゴールドになります。現金一括でのお支払いをお願いいたします」
シーン……。
酒場の中が、文字通り死に絶えたように静まり返った。
五億ゴールド。それは、王国の国家予算の数パーセントに匹敵し、一介の冒険者が一生かかっても使い切れないほどの天文学的な数字である。
「ご、ごおく……?」
アルムスの顔から、急速に血の気が引いていく。
しかし、すぐに彼は顔を真っ赤にして激昂し、テーブルを力任せに蹴り飛ばした。
「ふざけるなァァァッ!! なんだそのデタラメな数字は! 俺から金を騙し取ろうってのか、この詐欺師め! 誰がそんなふざけた紙切れの請求を認めるか!」
「私が認めるからこそ、お前はすでに『終わっている』のだ、アルムス」
「なっ……!?」
俺の背後から、重厚な鎧の擦れる音と共に、十数名の屈強な騎士たちが酒場に踏み込んできた。
彼らが纏っているのは、王国の近衛兵でも、ただの冒険者でもない。胸に天秤と剣の紋章を掲げた、ギルド法務部直属の『強制執行官(聖騎士)』たちであった。
「……執行官殿。ご足労いただき、ありがとうございます」
俺が一礼すると、部隊を率いる白銀の鎧を着た騎士団長が、厳かに頷き、アルムスに向かって巻物を突きつけた。
「勇者アルムス! 王都中央ギルド労働審判所の決定により、お前のパーティーに対する『五億ゴールド』の債務名義が確定した! これは裁判所の正式な令状である!」
「さ、さいばんしょ……? れ、令状だと……!?」
アルムスは後ずさりし、腰の聖剣に手をかけようとしたが、それよりも早く、俺の固有スキル【法典の天秤】が発動した。
俺の眼球に魔法陣が浮かび上がり、アルムスの所持品すべてに、赤々とした『差押』という呪いの文字が浮かび上がる。
「アルムス様。あなたは過去数ヶ月間、私が送達した『内容証明郵便(督促状)』をすべて未読のまま暖炉で燃やしましたね? 法的手続きを無視し続けた結果、あなたは異議申し立ての権利を失い、完全に敗訴したのです」
俺は冷たい微笑を浮かべた。
「これより、雇用主であるあなたの総資産の『強制執行(差し押さえ)』を開始します。……むしり取られる覚悟は、できていますね?」
◆ ◆ ◆
「ば、馬鹿な……! 俺の資産を差押えるだと!? 俺は魔王軍の幹部を倒した『太陽の勇者』だぞ! 王国の英雄から財産を奪うなど、国王陛下が許すはずがない!」
狼狽と激怒で顔を真っ赤にしたアルムスが、唾を飛ばしながら吠えた。
しかし、俺は手元の書類から目を離さず、氷のように冷たく告げた。
「国王陛下が直々に署名された『王国労働基準法』および『民事執行法』に、勇者特権などという例外規定は存在しません。法の下では、勇者もただの『悪質な債務者』に過ぎないのです」
「き、貴様ぁっ! ただの荷物持ちの分際で、俺を愚弄するか!」
アルムスが咆哮と共に腰の聖剣を引き抜こうとした。
だが、その手が柄に触れるよりも早く、ギルド法務部の強制執行官が素早く距離を詰め、アルムスの腕を強引に捻り上げた。
「ぐああっ!?」
「公務執行妨害および、債権者への脅迫行為とみなす。大人しくしろ、勇者!」
屈強な騎士たちに床へと押さえつけられ、アルムスは惨めな蛙のように呻き声を上げた。
俺はゆっくりとアルムスを見下ろし、バインダーに挟んだ『財産開示手続書』にペンを走らせた。
「では、第一段階の『動産執行』を開始します。執行官殿、まずは彼の所持金から」
「はっ。……金貨袋の中身、および王宮からの報奨金小切手、合わせて五万ゴールド。全額没収する」
執行官がアルムスの腰からジャラリと音を立てる分厚い金貨袋を躊躇なく剥奪した。
周囲で飲んでいた冒険者たちは、かつてない異常事態に唖然として言葉を失っている。
「五万ゴールド回収。……しかしアルムス様、請求額の五億ゴールドには全く足りていませんね。続いて、あなたが身につけている『黄金の甲冑』と、その『聖剣』を差押えます」
「なっ……ふざけるな! これは俺の武器だ! 冒険者の武器を奪うなど、ギルドの規則違反だろうが!」
アルムスが床に顔を擦り付けながら必死に抵抗する。確かに、冒険者法では『最低限の生存と業務に必要な装備』の差し押さえは禁止されている。
「おや、ご存知ありませんでしたか? 王国民事執行法第122条第2項。『業務に必須であっても、その装飾や材質が著しく奢侈(贅沢)である場合、代替品を支給した上でこれを換価処分できる』とあります」
俺は空間収納から、村の鍛冶屋で売っている『なまくらな鉄の剣』と『ボロボロの革鎧』を取り出し、アルムスの前に放り投げた。
「純金張りのミスリル甲冑や、国宝級の聖剣など、スライムを倒す『最低限の業務』には明らかに過剰な贅沢品です。よって、それらはすべて競売にかけ、未払い賃金に充当させていただきます」
「やめろ……やめろぉぉぉっ! 俺の聖剣! 俺の栄光があああッ!」
執行官たちによって黄金の甲冑を剥ぎ取られ、聖なる輝きを放つ剣を容赦なく箱に封印されるアルムス。
王国の英雄は、数分前までの傲慢な姿から一転し、みすぼらしい下着姿で床に這い蹲るだけの哀れな男へと成り下がった。
「さて。これでもまだ一億ゴールド程度ですね。残り四億ゴールドの回収に移りましょう」
俺が冷酷な視線を向けると、事態の深刻さに気づいたエルフの神官エララと、魔導士の少女リナが、顔面を蒼白にして後退りした。
「わ、私には関係ありませんわ! 彼をクビにしたのはアルムスの一存です! 私は止めたんですのよ!」
「そ、そうよ! 未払い賃金なら、リーダーのアルムスから取ればいいじゃない! 私たち関係ないし!」
二人はアルムスを見捨てて、酒場の出口へと逃げ出そうとした。
だが、出口はすでに屈強な執行官たちによって完全に封鎖されていた。
「お待ちください、お二人とも。あなた方も立派な『当事者』ですよ」
俺はバインダーから、十年前、このパーティーを結成した際にギルドへ提出した『パーティー結成登録書(法人登記簿)』の写しを取り出した。
「十年前、あなた方は『太陽の勇者パーティー』という一つの事業体を立ち上げました。その際、王宮からの高額なクエストを受注するために、ギルドの信用審査を通す必要があった。……覚えていらっしゃいますか?」
「えっ……? あ、あの時、アルムスに言われて名前を書いた書類のこと……?」
「そうです。あなた方は書類の内容をよく読みもせず、アルムス様に言われるがまま署名と捺印をしましたね。……この書類の、あなた方の名前が書かれている欄のタイトルを読んでみてください」
俺が書類を突きつけると、二人は震える目でその文字を追った。
そこには、王国の公用語でハッキリとこう書かれていた。
――『連帯保証人 兼 共同無限責任社員』。
「ひっ……!?」
「れ、連帯保証……む、無限責任って、どういうことよ!?」
「言葉の通りです。代表であるアルムス様が債務不履行に陥った場合、あなた方は彼と全く同等の支払い義務を負うということです。……さあ、執行官殿。彼女たちの持つ『世界樹の杖』や『大魔導のローブ』、高級なアクセサリー類もすべて差押え対象です」
「いやぁぁぁっ! 私の、何百万ゴールドもした美肌の指輪がぁっ!」
「嘘よ、嘘でしょ!? こんなの詐欺よ! 弁護士を呼んでちょうだい!」
泣き叫び、喚き散らす神官と魔導士からも、執行官たちは無慈悲に高級装備を引っぺがしていく。
彼ら三人は十年間、俺という『有能な労働力』をタダ同然で搾取し、その浮いた経費で身の丈に合わない贅沢な装備を買い漁っていたのだ。そのツケを払う時が来ただけである。
「くそっ……! くそぉぉぉっ!! おのれベルト……ただの雑用係のくせに、俺たちを罠にハメたな!」
下着姿のアルムスが、血走った目で俺を睨みつけた。
「俺にはまだ、王都の貴族街に一等地の豪邸がある! あれを売ればお前なんかの小銭、すぐに払ってやる! 見ていろ、王宮に泣きついて、お前を必ず死刑にしてやるからな!」
アルムスは負け犬の遠吠えを残し、裸同然の姿で酒場から逃げるように飛び出していった。エララとリナも、ボロボロの布切れのような下着姿で泣きながらそれに続く。
俺はため息をつき、執行官の団長に向かって小さく頭を下げた。
「ご苦労様でした。では、私もアルムス様を追って『彼の豪邸』へ向かいます。……事前の手筈通り、例の物件の保全処分は完了していますね?」
「無論だ、ベルト殿。王都ギルドの法務部門は、貴殿の完璧な証拠書類に基づき、すでに一時間前、あの邸宅を完全に封鎖した」
俺は手元の白湯を飲み干し、口元に冷酷な笑みを浮かべた。
「彼はまだ気づいていないようですね。己が『無一文』になったどころか、帰る場所すらも法的に蹂躙されていることに」
◆ ◆ ◆
王都の特権階級だけが住むことを許される、第一区の貴族街。
アルムスが魔王軍討伐の報奨金として手に入れた白亜の豪邸の前に、彼は息を切らして辿り着いた。
「ハァッ……ハァッ……! くそっ、夜風が冷てぇ……! だが、この家に入って王宮に手紙を書けば、あんな詐欺師の請求なんてすぐに……」
アルムスが重厚な鉄格子の門を開けようと手を伸ばした、その時。
「おかえりなさいませ、アルムス様。随分と身軽な格好で夜の散歩ですか」
「なっ……ベルト!? なぜお前がここにいる!」
門の前に立ち塞がっていたのは、先回りしていた俺だった。
俺の後ろには、再びギルドの執行官たちがずらりと並んでおり、豪邸の門扉には、禍々しい赤いインクで『不動産差押え物件』と書かれた巨大な札が何枚も貼られていた。
「き、貴様……俺の家にまで何をしている! ここは俺の私有地だぞ! 不法侵入で衛兵を呼ぶぞ!」
「呼んでも構いませんが、連行されるのはあなたの方ですよ。アルムス様」
俺はバインダーから、最後の一枚――最も致命的な書類を取り出した。
「この豪邸を購入した際、あなたは不足分の資金を『聖騎士銀行』から借り入れましたね? そして、その返済資金は、私が毎月ギルドへ提出していた『クエスト報酬』から自動で引き落とす設定になっていた」
「そうだ! だからなんだ! 俺は毎月ちゃんとローンを払っていたはずだ!」
「ええ。私があなたの代わりに、面倒な経理処理をして、忘れずに振り込んでいましたからね。……しかし、あなたは今日、私を『不当解雇』した」
俺の言葉の意味が理解できず、アルムスが呆然と口を開ける。
「私をクビにした瞬間から、あなた方の財務・経理機能は完全に停止しました。当然、明日のローン引き落としの手続きなど誰もやっていない。さらに、五億ゴールドもの巨額の負債を抱えた事実がギルドを通じて銀行に伝わった結果……銀行は、あなたへの融資を一括で打ち切りました」
「な、なんだと……?」
「銀行の抵当権が実行され、この豪邸はただちに競売にかけられることになりました。すでにこの土地と建物はあなたの所有物ではありません。一歩でも立ち入れば、不法侵入で即座に逮捕されます」
夜風が吹き抜け、下着姿の三人がガタガタと震え始めた。
それは寒さからだけではない。己の立っていた『特権階級』という足場が、法律という名の暴力によって完全に崩れ去り、底なしの奈落へ突き落とされた恐怖によるものだ。
「さあ、アルムス様。これにて、あなたの全資産――現金、装備、そして不動産のすべてを合法的に剥奪いたしました。それでも未払い賃金の残債はまだ三億ゴールドほど残っておりますが……今後の返済計画は、いかがなさいますか?」
俺の容赦ない追及に、アルムスは膝から崩れ落ち、うつ伏せに倒れ込んだ。
横では、連帯保証人の罠に嵌められたエララとリナが、顔を覆って絶望の嗚咽を漏らしている。
「あ、ああ……俺の金が……俺の家が、剣が……。こんな、こんな紙切れ一枚で……俺の十年間が……」
勇者は涙と鼻水を流し、かつて見下していた『ただの荷物持ち』の足元で、ただ無様に泣きじゃくることしかできなかった。
剣の力では絶対に勝てない相手を、一切の暴力を振るうことなく、ただ『正しい計算』と『法的手続き』だけで完全に破壊する。
これこそが、ブラックな環境で辛酸を舐め続けてきた俺なりの、究極の『合法的ざまぁ』であった。
◆ ◆ ◆
王都の地下深くに張り巡らされた、悪臭漂う巨大な下水道。
陽の光など一切届かないその泥濘の中で、ひときわ大きな怨嗟の声が響き渡った。
「くそっ……! どうして俺が、こんな泥水の中でドブさらいなんか……ッ! 俺は『太陽の勇者』だぞ! 魔王軍の幹部を倒した、王国の英雄なんだぞぉぉぉッ!」
汚泥にまみれ、ボロボロの麻布のような服を着た男――かつての勇者アルムスが、サビだらけのスコップを壁に叩きつけて咆哮した。
しかし、彼の叫びに答える者はいない。少し離れた場所では、同じく泥だらけになったエルフの神官エララと、魔導士のリナが、死んだ魚のような目で巨大なネズミの死骸を荷車に積んでいた。
「うるさいわよ、アルムス……。アンタが叫んだって、この過酷な労働の時給は『銅貨三枚』から上がらないのよ……」
「そうよ……。私の、世界樹の加護を受けた美肌が、下水の毒素でボロボロ……。爪も割れて、髪もパサパサ……ああっ、もう嫌ぁっ!」
二人はアルムスを恨めしげに睨みつけながら、すすり泣いた。
五億ゴールドという天文学的な負債から、全財産を差押えられた彼らに残されたのは、文字通り「己の肉体」だけだった。
本来であれば、冒険者として高ランクの魔物を討伐し、高額な報酬を得て借金を返済するのが筋だろう。しかし、伝説の聖剣も、身を守る強力な防具も、魔法の触媒となる高価な杖もすべて没収された彼らには、スライム一匹倒すのにも命がけだった。
しかも、アルムスが「ギルド法廷からの督促状」を完全に無視して逃亡しようとしたため、彼らの冒険者ライセンスは『無期限停止処分』となってしまったのである。
結果として、彼らが就くことのできた仕事は、王都の最下層民が日銭を稼ぐための「下水道清掃」や「魔石鉱山の発掘作業」といった、完全な肉体労働だけであった。
「ふざけるな……! あのベルトめ、よくも俺たちをこんな地獄に陥れやがって! 絶対に許さねえ……いつか這い上がって、あいつの首を物理的に刎ねてやる!」
アルムスが血走った目で虚空を睨む。
しかし、彼がこの日給で三億ゴールドの残債を完済するには、不老不死の魔法でもかけない限り、計算上『約二万年』もの歳月が必要であった。
彼らの人生は、法律という名の完全なる鎖によって、すでに永遠の隷属状態へと縛り付けられていたのである。
◆ ◆ ◆
一方その頃。
下水道の泥濘から遠く離れた、王都の中央にそびえ立つギルド本部の最上階。
豪奢な大理石のテーブルを挟んで、俺――ベルトは、ギルドの最高責任者であるギルドマスターと向かい合って座っていた。
「……なるほど。勇者アルムスの抱えた三億ゴールドの債権を、そっくりそのまま『投資信託』の形でギルドの法務部門へ譲渡したいと」
「はい。私個人で彼らの日雇い賃金を回収し続けるのは、あまりに非効率ですからね。債権の管理と回収の実務をギルドに委託し、私はその利息分だけを毎月受け取る。ギルド側にとっても、安定した手数料収入になるはずです」
俺が淀みなく提案すると、白髭を蓄えたギルドマスターは、感心したように深く頷いた。
「相変わらず、貴殿の法務と金融に関する知識は、王国の財務大臣すら凌ぐな。……しかしベルト殿。貴殿の真の狙いは、その債権譲渡ではないのだろう?」
「ご慧眼の通りです」
俺は口元に薄い笑みを浮かべ、カバンから新たに作成した分厚い『法人登記簿』の束を取り出した。
「私が真に求めていたのは、勇者アルムスが十年間かけて構築した『王宮との太いパイプ』と、特級戦力にのみ与えられる『免税特権』、および『関税フリーでの国境通過パス』です。……先日、私はアルムスに対する債務不履行を理由に、彼が代表を務めていた『太陽の勇者パーティー』の全権利を、合法的に差押え、そして私自身への名義変更を完了いたしました」
そう。アルムスからむしり取ったのは、目に見える金品や不動産だけではない。
俺は、彼が王宮から与えられていた『特権階級としての権利』そのものを、会社ごと乗っ取る形(敵対的M&A)で完全に掌握したのだ。
「これより、私が新生『太陽の勇者商会』の代表となります」
「……ただの裏方から、王国の特権を独占する大商会のトップへ登り詰めるとはな。恐ろしい男だ」
「すべては合法的な手続きの結果ですよ。……さて、この特権を最大限に活用し、私は新たな『物流・法務コンサルティング事業』を立ち上げます。まずは手始めに、魔王軍との不毛な戦争で疲弊した国境地帯の物資輸送を、我が商会で独占受注させていただきたい」
俺は前世のビジネス知識と、この世界で得た圧倒的な法的権力を武器に、剣や魔法ではなく「経済と法律」で異世界を支配するための、次なる一手へと完全に駒を進めていた。
◆ ◆ ◆
それから半年後。
俺が立ち上げた『新生・太陽の勇者商会』は、王都の経済を文字通り席巻していた。
勇者の特権である「関税フリー」を利用した圧倒的な低コスト物流。
さらに俺が徹底したのは、異世界特有の「ブラックな労働環境」の破壊だった。
『週休二日制の導入』『残業代の全額支給』『魔力労災保険の完備』『有給休暇の消化率一〇〇%』。
前世のホワイト企業も裸足で逃げ出すほどの完璧な福利厚生を打ち立てた結果、王国の優秀な冒険者、荷馬車の御者、さらには腕利きの魔導士までもが、こぞって俺の商会へと転職してきたのである。
「ベルト社長! 北方国境への第三次輸送部隊、無事に出発いたしました。護衛には元Aランク冒険者を配置し、労働時間は規定通り一日八時間でシフトを組んでおります!」
社長室に飛び込んできたのは、かつてアルムスのパーティーで荷物持ちの同僚だった青年だ。今では俺の右腕として、見違えるように生き生きと働いている。
「ご苦労様。彼らには危険地帯手当を十分に支給し、帰還後は三日間の特別休暇を与えてください。労働者の心身の健康こそが、商会の最大の資産ですからね」
「はいっ! 社長の下で働ける我々は、本当に幸せ者です!」
青年が深く一礼して退室していく。
俺は高級な葉巻に火を点け、社長室の大きな窓から王都の街並みを見下ろした。
暴力による支配ではなく、正当な報酬と法による庇護。それこそが、人を最も効率よく、そして忠実に動かす最大の武器なのだ。
その日の午後。
俺は新規の倉庫建設予定地を視察するため、馬車で王都の郊外へと足を運んでいた。
現場では、多くの労働者たちが汗を流して石材を運んでいる。俺の商会が元請けとなっているため、彼ら末端の作業員にもしっかりと適正な日当が支払われていた。
「おや……?」
俺は視察の途中、ふと見覚えのある人影を見つけて足を止めた。
巨大な石材を背負い、泥だらけになりながら這うように歩いている男。そしてその後ろで、セメント袋を泣きながら運んでいるエルフと少女の姿。
「……アルムス様。奇遇ですね」
俺が声をかけると、男はビクッと肩を震わせ、ゆっくりと振り返った。
「べ、ベルト……ッ!」
アルムスの目は落ち窪み、かつての輝くような金髪は泥と汗で固縛されていた。彼の瞳に宿っていた傲慢さは完全に砕け散り、残っているのは底知れぬ疲労と絶望だけだ。
「貴様……よくも俺の前に……!」
「お仕事、ご苦労様です。あなた方が一生懸命働いてくださるおかげで、私の商会の倉庫も無事に完成しそうです。ギルドへの借金返済も、少しは進みましたか?」
俺が最高級のシルクのスーツ姿で、冷たく、そして完璧な資本家の笑みを浮かべて見下ろす。
「ふ、ふざけるな……! 俺の、俺の栄光を返せ! 俺の会社を返せぇぇっ!」
アルムスが重い石材を投げ捨てて掴みかかろうとしたが、俺の背後に控えていた専属の護衛(元Sランクの聖騎士)が、一瞬で彼を地面に押さえつけた。
「暴行未遂ですね。……アルムス様、これ以上罪を重ねれば、次は日雇い労働ではなく、犯罪奴隷として鉱山の最深部へ送られますよ」
「あ、ああ……あぁぁぁっ……!」
アルムスは泥の地面に顔を押し付けられたまま、ただ無力に嗚咽を漏らすことしかできなかった。
かつて俺を見下し、「無能」と笑って追放した勇者は、今や俺が経営する巨大なビジネス帝国の、最も最底辺の歯車として、一生をかけて労働力を搾取されるだけの存在となったのである。
「引き続き、安全第一で業務に励んでくださいね。……残業代は、ちゃんと出しますから」
俺は彼らに一切の同情を向けることなく、冷酷な一瞥を投げた後、待たせていた高級馬車へと乗り込んだ。
剣と魔法が支配する野蛮な異世界。
そこに持ち込まれた「労働基準法」と「民事執行法」、そして「完璧な企業統治」は、最強の勇者すらも合法的に社会の底辺へと叩き落とした。
荷物持ちから大商会のトップへと成り上がった元弁護士の、圧倒的で無慈悲な『リーガル・ざまぁ』は、これにて完全なる終決を迎えたのである。




