薔薇の香りが消えるまで
リシュリがアルバートと出会ったのは、王立学園の中庭だった。
春の光に照らされて立っていた彼の髪は淡く金色に輝き、背が高いのも相まって、さながら王子のようであった。また誰もが振り返るほど整った顔立ちをしており、告白をされた時は、罰ゲームか、何かだろうかと思ったほどだった。
交際を始めた頃、アルバートはよく言った。
「愛しているよ、リシュリ」
言葉はいつも甘く、記念日には欠かさずばらの花束をくれた。ばらがよく似合うからと彼は言うが、そんなに似合うとはリシュリは思わなかった。しかしその愛が一生続くものだと、疑いもしなかった。
結婚して二年目、最初の子どもが生まれた。可愛い可愛い我が子。
夜泣きは激しく、連続して眠れるのは一晩に二時間あればいい方だった。眠ったと思ったら、すぐに泣き出す赤ん坊。重い体が悲鳴をあげた。
「少しでいいから、代わってほしい」
そう言おうと口を開いても、書斎にこもる夫の背中を見ると、言葉は喉で消えた。
仕事で疲れているのだ、仕方がない。
そう言い聞かせる日々が続いた。
結婚記念日には、変わらずばらの花束。
お化粧なんて、できやしない。疲れはて、髪の毛はボサボサ。それでも、アルバートはリシュリを愛してると言ってくれた。
赤い花は美しかったが、リシュリが欲しかったのは眠れる時間と、ほんの一言の労りだった。薔薇を花瓶にいけながら、ぼんやりとまた眠ることのできない夜を思う。
五年目、二人目の子どもが生まれた。
可愛いと頭では思う。けれど、胸の底から喜ぶ力は、もう残っていなかった。
そしてある日、リシュリは高熱で倒れた。
アルバートは心配そうに額に手を当てたが、
「無理するなよ。手伝いにきてもらうから、心配するな」と言い残し、いつも通り仕事へ向かった。
代わりに来た義母は、手慣れた様子で家事をこなしながら言った。
「ゆっくり休みなさいね。大丈夫、やっておくから。あらでも……ほら、ここ、汚れてるわねぇ。もう買い換えたほうがいいわ。私も買い替えたの。子供のためよ、ほらここも綺麗にしたらいいわ。」
責めるでもなく、褒めるでもなく、ただ淡々思ったことを言う義母の言葉が。何故こんなに苦しくなるのか、リシュリにはわからなかった。
夜、帰宅したアルバートは
「大丈夫か?」
と一言だけ声をかけ、義母と並んで楽しそうに食卓を囲んだ。
その瞬間だった。
リシュリの中で、何かが音を立てて切れた。
――この人は、言葉をかけるだけの人なのだ。
――自分が楽しいことはする。
――面倒なこと、疲れることは、最初から引き受ける気がない。
そう理解したとき、不思議なほど心は静かだった。
離れよう。
そう思った。
仕事を探したが、社会経験のない彼女に職はなかった。
子どもがいるというだけで、やんわりと断られた。
それでも、内職ならできると言われ、刺繍を始めた。
子供も夫も寝た夜遅く。眠たい体に鞭をうち針をすすめる。
最初は拙く、家に飾ればアルバートは笑った。
「子どものままごとみたいだな」
悔しかった。
だから針を持ち続けた。
少しずつ、確実に上達していった。
初めて刺繍が売れた日、手にしたのは小さな金額だったが、胸は熱くなった。
自分で稼げるようになった頃、リシュリは気づいた。
アルバートへの愛情は、もう燃えていない。
怒りも期待もない。
ただ、そこにいる人間になっていた。
夜、眠る子どもたちを見ながら、リシュリは考えた。
このまま、心のない結婚を続けるのか。
それとも、自分の足で立つのか。
そして、やっと答えにたどり着いた。
――私は、私の人生を生きる。
ばらはもう要らない。
必要なのは、静かな部屋と、針と糸、そして自分自身だった。
彼女は準備を、しっかりすることでしょう。




