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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

雷帝の妃、烏の躯

作者: 柳なつき

 烏の躯は、私の愛した彼だった。


 タン。

 澄んだ琴の()が、耳に届く。


 夜の気配をまだ残す、朝のはじまり。

 青空よりも青い瑠璃唐草の花畑の上に堕ちた、真っ黒な烏の骸。


 私は、いままさに捕まったところだった。

 雷帝(らいてい)に忠実な武官たちにがっちりと身体を掴まれ、これから、連行されていく。


 事情をまだ知らない侍女たちが烏の躯を見つけはじめて、騒いでいる。神聖なる後宮にかような穢れた者の死骸があるとは、どういうことかと。


 タン、タン、タンタンタタタン。

 琴の音は響き続ける。どなたかの琴の稽古が、続いているのだろう。


「烏の骸は拾っちゃならぬ、烏の骸は拾っちゃならぬ……」


 状況を察知しているのだろうか、早朝の剣の稽古に向かう、高貴な身分の子どもたちが遠い夢のように歌う。繰り返して、繰り返して。

 それは貴い身分の子どもたちのあいだで普通に歌われる、わらべ歌。

 してはいけないことを、子どもたちに伝える役割も担っている。


 そう。烏の骸は拾ってはいけない。

 穢れた生き物の死骸だから。


 私もずっと、そう思っていた。


 いまの私は、以前の私とはちがう。

 烏の骸は――私の運命のひとの、……ほんとうの意味での夫の、亡骸だから。


 私は目を閉じる。

 彼との想い出を、心でなぞる。


 私――雷帝の十三番目の妃の氷乃華(ひのか)は、これからきっと惨く処刑される。

 けれども、恐れない。

 現世にはもう、なんの未練もないから。


 彼の現世での旅立ちを祝福するかのように、今日はよく晴れそうだ。

 瑠璃唐草もいずれは散り、初夏はすぐそこ。

 けれども、寒さの名残を感じさせる風が――目を閉じるとなおのことくっきりと、冷たく、頬を撫でていく。


 彼と出会ったのは、ほんのひと月ほど前、桜の咲く季節だった。


 私はその日も、後宮の庭園の隅にある小さな畑をいじって時間を潰していた。

 新芽の覗く土に桜の花びらがいっぱい積もって、きれいだ。


 私のお気に入りの小さな畑からは、遠くにそびえ立つ山々が見えて、畑に寄り添うように大きな桜の木がある。

 桜は、七分咲き。もうすぐ満開のころ。

 ここにいるときだけは、安らげる。


 最初こそ、雷帝の妃が畑いじりなど、と侍女たちに怒られたものだ。

 でも、すぐに怒られなくなった。私の存在など雷帝の後宮では空気に過ぎなくて、ただ存在している以上の役目をだれも期待していないのだと、みながすぐに理解したから。


 いまでは、二人か三人の侍女が形式上付き添おうとしてくるだけだ。それも、断ればすぐにわかりましたと言って去っていく。

 雷帝の妃への対応にしてはずいぶん杜撰だけれども、私のような、本来賤しい――すくなくとも、雷帝がそのように言う者に対しては相応だろう。


 その日も、私は土をいじっていた。

 もうすぐで瑠璃唐草が咲く季節になる。

 瑠璃唐草は、その名の通り美しい瑠璃色をしている。青空よりも青い瑠璃色になればいい。そう願ってお世話をしていると、自然と頬が緩んだ。


 ――ばさり。

 ふいに音がして、私は振り向く。


 黒天狗。

 視線の先に降り立っていたのは、黒い装束をまとい黒い翼を生やした、黒天狗の青年だった。まぎれもなく。


 不死の黒天狗たちは、山々の遠く向こうの穢界(えかい)に暮らす。

 どうして、翡翠郷に――。


 私は、思わず立ち上がった。


 彼は地図のようなものを右手に持って、左手をあごに添えて考え込むようにあたりを見ていたが――やがて、あっけにとられている私に気がついた。


 彼はしばらく私を見ていた。私も、しばらく彼を見ていた。


 先に口を開いたのは、彼のほうだった。


「……失礼。着地場所をずいぶんと間違えてしまったようだ。なにぶん、翡翠郷へ使いに来るのは初めてで……ご容赦を。空から着地すると場所の把握が大雑把で、よく失敗します」

「使いの方ですか」

「ええ。雷帝へ、黒天王(こくてんおう)様からの文書を届けに」

「では」


 私は、腕をいっぱいに伸ばして、雷帝のいらっしゃるであろう場所を示す。


「後宮ではなく、御所かと」

「ありがとう。なるほど、ここは後宮」


 私はなぜか、彼の穏やかな表情と黒々とした髪の毛から目を離すことができなかった。殿方のこんなに艶めいた黒々とした髪の毛を見るのは、はじめてだった。黒天狗とこんなに近くにいるのも。


 黒天狗は恐ろしい形相と伝え聞いていたけれど――そんなことはない、私たちと同じ薄橙の肌の色で、その上、彼の頬は紅色に上気してきれいだった。


 そして、黒々としたその瞳は――きらきらと光を映して、後宮にあるどんな宝玉よりも、きれいだった。


 彼の髪と彼の頬にふれてみたい、と自分でもわけがわからず思った。

 その瞳の、そばに寄って――私をめいっぱいに、映してほしい。


「ということは、貴女は雷帝の妃ですか」

「そうです。天下の雷帝さまの……十三番目の、栄えある妃です」


 私は立ち上がり、教えられている通りに――優雅に見え、雷帝のご威光を損なわないように、まともに――挨拶をした。ひらひらした水晶色の装束の裾が、風にさらわれて自然とひらひらしてしまう。


「そうですか、これはこれは。わたくし、令悧(れいり)と申します」


 彼は地図を装束のなかに突っ込むようにしまい、右手を手刀のように胸もとに当て、頭を軽く下げてから上げた。黒天狗流の挨拶なのかもしれない。


「貴女さまのお名前は?」

「私の名前? そんなもの、お聞きになってどうするのですか」


 雷帝の十三番目の妃。

 それだけで、充分なはずだ――だって、それが私のすべてなんだから。

 私のすべての……はずなんだから。


 彼はいまの質問など最初からなかったみたいに、にっこりと微笑んだ。


「雷帝さまの治められている翡翠郷は、どこもかしこも翡翠で出来ており大層美しいとか。観光もしたいので、わたくし、しばらく翡翠郷に留まります。……ご挨拶できて光栄でした、雷帝の十三番目のお妃さま」


 彼は、もう一度頭を下げると――ばっさばっさと音を立て、あっというまに飛び立ってしまった。


 天から、黒い羽が降ってくる。穢れたものだとされる黒天狗の羽……けれども私は、両手で彼の羽を受けた。忌むべきものだという感情は、不思議と起こらなかった。


 羽は、ぬくもっているように感じて……彼の温度みたい、と思うときゅっと心が苦しくなった。


 そっと、その羽を装束の懐にしまった。一枚だけ、一枚だけだから……必死に、だれかに、自分自身に、雷帝に、言い訳をして。


 数日後、雷帝の寝所に呼ばれた。

 前に呼ばれたのは、ふた月前。皇后さまと二番目のお妃さまがご懐妊されて以来、三番目以下のお妃たちが呼ばれる頻度が増えたというから、そろそろかと思ってはいたけれど……呼ばれた朝から、ずっと憂鬱だった。


 夜。私は、神秘的だと褒め称えられる珊瑚色の衣装に身を包み、侍女たちに連れられしずしずと寝所に向かう。この衣装。私からすれば、神秘的というよりは単なる悪趣味。


 磨きあげられた翡翠で出来上がった後宮の建物。炎に照らされて美しいはずなのに、冷たいところだと、私はずっと感じてしまう。


 雷帝の寝所に到着すると、侍女たちはすっと離れていった。彼女たちはこのまま、部屋の前でひと晩待機するのだ。


「来たか。十三番目よ」


 雷帝の寝所ももちろん、翡翠ばかりで出来ている。


 私は黙って進み、跪いて頭を下げる。雷帝は横に来るよう命じ、私はそのようにする。雷帝は私に仰向けになるよう命じ、私はそのようにする。雷帝は命じ……私は、そのようにする……。


 雷帝の御顔がすぐそばにある。類いまれなる雷術(らいじゅつ)の才能と、翡翠で貿易をする高い経済的才能に恵まれ、翡翠郷と呼ばれるこの国を一代で栄えさせた、天下の皇帝の……格好いいとも魅力的とも――冷たく硬い、翡翠のような顔。


 雷帝は命じる。私はそのようにする。雷帝は命じる。私はそのようにする。……けっして、ご機嫌を損ねないように。


「皇后と二番目は、大事なときだ。我の欲望をそのままぶつけるわけにはいかん。そこで、おまえの出番というわけだ。我の道具となれて、嬉しいだろう? 辺境の氷の里の、田舎娘が」


 言われるがままに、私の故郷をまるごと滅ぼした男の、道具となる。


 ……私の故郷は。

 翡翠郷から見たらたしかに辺境といえるところにある、小さな小さな里村だった。

 冬になるとすべてが凍りつくような場所だった。だから貧しかったけれど、だからこそみんなで手を取り合って、ぬくもりを大事にする……そんな村だった。


 私は代々村長をつとめる家のひとり娘で、いずれは村を継ぐと決まっていた。未来の村長として、村のことをいっぱい勉強して、食べものに困らないよう畑を耕した。みんなの心が明るくなるよう、花を村に増やした。花いっぱいの、村にしたかった。

 惜しむらくは、村に伝わる氷術(ひょうじゅつ)の才能が私にはあまりなかったことだけれど……近年は氷術の血じたいが薄まっているから、とお父さんもお母さんも、家族同然の村のみんなも励ましてくれた。

 それよりも、氷乃華ちゃんにはコツコツ努力できる才能と、花を愛でるきれいな心があるんだから、大丈夫だよって――みんな、笑って。


 そんな私の優しい故郷は。

 ある日突然、雷帝に滅ぼされた。

 領地拡大のためだったという。

 雷帝が自由気ままに降らせる残酷な雷に、私たちはなすすべもなく――ほとんどが殺された。私はいわば人質として、滅ぼした村の記念品として――強制的に、雷帝の妃となったのだ。


 私の故郷のひとたちが命ほしさに私を差し出したなどと、実際とぜんぜん違う話さえも後宮に流れ出して。

 生贄婚だと、後宮のひとたちは噂しているらしい。


「おまえには多少、氷術の血が流れているのだったな」

「……はい」

「我との子が欲しいか? ん? 雷と氷は相性がいいやもしれん。案外、術の才能のある子が産まれてくるやもしれぬ……しかし、そうはさせぬぞ? 我は、それなりの身分の相手としか子をもうけないと決めているのだからな。残念、残念だったなあ――子がいれば成り上がれたかもしれぬ。故郷の敵討ちも、できたやもしれぬのにな! 悔しいだろう、氷術の才能もろくになく、賤しき出自の無能な女よ!」


 私を罵りながら、どんどん、どんどん雷帝は興奮していく。……こういう趣味の、ひとなのだ。


 ……痛い。早く、終わってほしい。


 かりにも権力者の妃として不適切だとわかりつつも、思う。

 遊女が羨ましい。

 彼女たちは、その報酬として金銭を受け取れるのだろうから。そしてその金銭で、私よりはまだ――未来を描けるのだろうから。


 ……雷帝との子がほしいなどと、微塵も思わないけれど。

 でも。だから。

 私は一生、雷帝の欲望のはけ口となるだけ。


 翡翠でできたお城に閉じ込められて、どこにも行けずに――老いて、いずれはだれにも忘れられて、死んでいくだけ。


 ……普段は懐にしまっている黒い羽は、雷帝に呼ばれたから、部屋の引き出しにしまってきた。

 部屋に戻ったら、私は真っ先にあの羽を取り出して、胸に押し当てて羽の存在を感じとるだろう。

 彼の髪の毛のように艶めいてぬくもりを感じるあの羽は、いつのまにか私のおまもりになっていた。


 あの日、彼に会ったとき、なぜだか他人のような気がしなかった。

 そんなわけないのに、もっと前から……知っていたような、気がした。


 あのひとは、ほかのひとたちと何かが違った。……澄んで、力強かった。


 あのひとは、いまどこでどうしているのだろう。

 しばらくは翡翠郷に留まると言っていたけれど。

 もういちど、また――会いたい。後宮から出られない私は、探しに行くこともできないけれど――。


「黒天狗は、しょっちゅう翡翠郷に来るのかしら」


 自分の部屋で侍女に髪を梳いてもらっているとき、私は彼女に訊いた。

 この侍女は、侍女たちのなかでも年が上で、なんでも知っている印象があったからだ。それに、ほかの侍女たちと違って、私に対して過剰によそよそしくはない。


 鏡越しに、彼女は顔をしかめた。


「黒天狗? どうして、また、そのような者のお話を」

「いえ……ただ、ちょっと気になったものだから」


 ふうむ、と私の髪をまとめながら彼女は唸った。


「穢界からの使いとして、たまに参ってはおりますが」


 この世界は、人間の住む浄界(じょうかい)と、ひとならざる穢れた者たちの暮らす穢界に分かれている。

 黒天狗は、ひとならざる穢れた者――もちろん、私も知っている。


「あの……このあいだ、後宮に迷い込んできた黒天狗に会ったの。彼は、黒天王からの使いだと言っていた」


 すると侍女は、思いっきり顔をしかめた。


「あらあらあら、ばっちい。大変な思いをされましたね。あとで浄めの泉の予約を取っておきますから、穢れを浄めに行きましょうね」

「……そこまで、するの?」

「お妃さまは、……翡翠郷の中心のご出身でないからご存じないのでしょうが、穢界の者と関わればかならず浄めなければならぬのですよ」

「それは、黒天狗が穢れた存在だから?」

「ええ、ええ、それはもう! 彼らは鳥を生きたまま喰らい、鉤爪で獣を狩り、争いを求める本能で生きている恐ろしい化け物どもですよ。彼らは愛し合うということを知らないのです! 永遠に生き、殺戮を繰り返し、血肉で飢えを凌ぐだけ……」


 ああおそろしい、おそろしい、と侍女は歌うように繰り返す。


 黒天狗。

 私も前なら、その言葉に疑問の余地はなかっただろう。

 おそろしい存在だと。


 そう、教えられてきたのだから。


 でも、でも……彼のことを知って、なぜだかこんなに心の奥底から求めるかのように、気になっている、いまでは。

 とても、侍女の言うようなおそろしい存在とは……思えなくて。


 この懐にある黒い羽のことが、ばれてはならない――私は懐に右手を当てて、まもるように、ぎゅっと掴んだ。


 さらに、数日後。

 桜がいよいよ満開に近づいていて、花びらの嵐を太陽の光とともに眩しく受けながら、瑠璃唐草やこれからの季節の花々の手入れをしていたとき。


 ばさり――と、音がした。

 ずっと、求めていた音だったから。だからこそ、錯覚かと思った。


 でも、錯覚ではなかった。

 たしかに、彼が、令悧という名の黒天狗が――そこに、立っていた。


「氷乃華さま」


 私は思わず立ち上がり、口に両手を当てる。


「どうして、私の名前」

「ずっと、気になっておりました。ここで会ってから。なぜ、一度会っただけの貴女がこんなにも気になるのか……わかりません。でも、気になって気になって、仕方なくて……仕事の合間、貴女さまのお名前を、必死で突き止めたのですよ。教えてくれなかったから」

「私の名前など、知っても意味がないと言いましたのに」

「俺は、知りたかった。次に会うときは、真っ先にお呼びしようと思っていた」


 一歩、二歩……彼はこちらに歩み寄ってくる。

 畑との境目は、足で踏まずに――その場に、しゃがみ込んだ。

 植物の芽を踏まないための、気遣いが感じられた。


 彼は、私に聞く。


「こちらで、なにをされているのですか」

「……とても言えないようなことです。恥ずかしいことです」

「見た限り、お花を相手にしているように見受けられますが」


 頬が、熱くなった。

 花を育てているなんて、とても言えないようなことで、恥ずかしいこと。

 鉱物は永遠で、よっぽど美しいのに――わざわざいずれ枯れて散る花を育てるなんて馬鹿げていると、雷帝の後宮に来てから私は何度、陰で表で言われただろうか。


「いいですね」


 彼の顔は、しかし、予想に反してとても穏やかなものだった。


「俺も、花は大好きです」

「……ほんと、ですか」


 私は、彼に話した。

 花が大好きなこと。

 だから、後宮に嫁いできてからも、ずっとずっと――花を育てていたこと。


 彼も話してくれた。

 天狗の一族は山で暮らしているから、花々を大事にするのだということ。桜の季節には花の下で宴会を開き、花見と呼ばれる行事をすること。


「しかし、育てるという発想はなかった。天狗は、なにひとつ育てないのです」

「子ども以外には、なんにも?」

「……われわれ天狗は、子をもちません。まず、他者と愛し合わないのですから」


 侍女の言葉が、よみがえってきた。


 ――彼らは愛し合うということを知らないのです! 永遠に生き、殺戮を繰り返し、血肉で飢えを凌ぐだけ……。


「失礼だとは、承知の上で……」


私は、侍女に言われた「黒天狗は愛を知らぬ化け物」という言葉を、他に伝えた。

 彼は気分を害したようすもなく――そうですね、と頷いていた。


「俺たちは、永遠に生きますし、殺戮を繰り返しますし、血肉で飢えを凌いでおります。しかし……永遠に生きるということを除けば、それは人間も同様では?」

「そうですね……言われてみれば。人間は獣を殺して飢えを凌ぎ、そして……争いを……」


 故郷の優しいみんなの顔が、脳裏に浮かんだ。

 ……いまはもう、殺されて、みんないない。


「……貴女の故郷は、雷帝に滅ぼされたようですね。貴女の名前を城下町で探ったら、ついでの土産と言わんばかりに、何人かの人間が喜々として教えてくれましたよ」

「もう、昔のことです。雷帝の御威光を考えれば仕方のないことで、いつまでも引きずっている十三番目の妃は幼いと……みなさん、おっしゃっていたかと」

「そんなことはありません。なぜ、傷つけられた貴女のほうが卑屈なのですか。そんなのは、利益のために貴女の村を襲った、雷帝のほうが悪いに決まっている。氷乃華さまは、なんにも悪くない」


 雷帝のほうが悪い、なんて。

 私が、なんにも悪くないなんて――。


 故郷が滅ぼされてから、はじめて、言われた。


「そう、でしょうか」


 ぽたり、と。

 気がついたら、目からしずくが垂れていた……情けない、情けないと思ってぬぐおうとして、懐に手を伸ばしたら――彼の黒い羽が、ひらりと落ちてしまった。

 あわてて、拾い上げる。


 彼は驚いた顔をしていた。


「その羽は、俺の……」

「……勝手に、申し訳ありません。めぐり会えた記念に……とっておきたかったのです。いつも、肌身離さず……」


 彼は、私にそっと白い布を差し出してくれた。刺繍のなされた、清らかな布だった。涙を拭くにも、ぴったりだった。


 彼は、私が泣きやむまで――ずっと、となりにいてくれた。

 肩を並べて、寄り添って。だれよりもそばで、体温を感じる距離で……。


「こんなに、あたたかくしていただいたのは初めてです……ありがとうございます。あの、こちらの布。汚してしまって、申し訳ありません。かならず、洗って返しますから」

「そのつもりだった。だから、貸した。汚れのことは気にしなくていいが……」


 彼は、真剣な顔をしていた。


「貴女といると、心が安らぐ。貴女のとなりにいたい。次も、かならず、会いたい。……何度でも」


 その身体にいますぐ抱きついて、髪を頬をさわって、抱きしめあいたかった。

 けれど私が実際にしたことと言えば、私も、とただ微笑んで返すだけのことだった。


 令悧――私、きっと、貴方のことが好き。

 黒天狗かどうかなんて、関係ない。

 ううん。……黒天狗である貴方のことが、こんなにも好き。


 穢れた者だという気持ちなんか、みるみるうちに、溶けていく。

 硬い雪が、太陽の光で解けていくかのように。


 令悧。令悧……令悧。

 何度でも、名前を呼びたい。


 願わくは、その唇にふれてみたい。


 でも、私は雷帝の妃。

 貴方は、穢界からの使いの黒天狗――。


 桜が満開に近づく季節、私と令悧は毎日のように逢引きをした。

 いろんなことを、しゃべった。翡翠郷のこと、私の故郷のこと。天狗のこと、令悧自身のこと。

 いっしょに花々の手入れをした。花が好きという令悧の言葉は、ほんとうだった。


 令悧は、十六歳の私とほとんど同じか少し上に見えるが、もっと長く生きているようだった。やはり黒天狗には、死ぬということが、ないようだった。変化のない日々で無駄に年を重ねているだけ――と、彼は笑っていたけれど。


 令悧は笑うと爽やかで、真剣な顔をするとすごく大人びて格好いい。

 優しくて、あたたかくて、ときには切ないほど色気を見せる彼のとなりが、私のもっとも望む理想郷になるまで――桜が散るまでの時間も、かからなかった。


 満開となった桜の下で。

 肩を寄せ合って、青空のもと、話をした。


「……令悧はどうして、私のことが好きなの?」

「いくらでも言えてしまうぞ。いいのか? 花を育てる白く美しい両手、白銀に輝く髪、碧く深い瞳、桜の咲いたような唇と頬、思慮深い表情、賢く聡いところ、努力家であるところ、花を愛でる心、まれにしか見せてくれない幾万の花より可憐な尊い尊い笑顔、そして笑うとあどけないところ……」

「や、やっぱりもういい」


 照れてしまう、喜びでどうにかなってしまう……こんなに褒められたことなんて、いままでの人生、なかったから。


「なんだ、まだまだ序の口なのに。つまりは、すべてだ――氷乃華のすべてに、俺は惹かれている」

「……私も」


 理由なんて、説明できない。

 ただ、いくらでも好きなところを挙げられて、言い換えればすなわちすべてが大好きな、このひとこそが――私の、運命のひとだったんだと思う。


「……どうして、令悧と先に出会わなかったんだろう。令悧が、私のほんとうの運命のひとだったはずなのに」


 言葉にすると。

 令悧に、抱き締められた。


 ……彼のあたたかい体温と、古木を思わせる良い香りが、すぐそばに。


「いまからでも、遅くない。運命に、してやろう。俺たちの手で」

「……え?」

「雷帝のもとを離れ、俺とともに往こう。俺も、黒天王さまにお話をして、使いの任を解いてもらおうと思う。受け入れてもらえるかはわからないが、全力を尽くす。どんなかたちであれ、ぜったいに、かならず……氷乃華とともに、生きる」

「令悧……」

「結婚式は、氷乃華の故郷で挙げないか?」

「でも、私の村は、もう廃墟に」

「もう一度、俺たちで氷乃華の村をやりなおすんだ。氷乃華が村長となり……だとすると、俺は副村長となるのか? 生き残った者がいないか全力で探し、見つけ、呼び戻そう。ゆかりのある人びとを、村に呼ぼう。氷乃華の育った、愛した故郷を……俺と氷乃華で、よみがえらせよう。氷乃華が、その美しい手で、花々を育てているように」


 私は、胸がいっぱいで。

 感謝の言葉も、愛してるって言葉も、何万回言っても足りない気がして。


 令悧、とその美しい響きの名前を呼んで――懐に入り、そっと、……口づけを、した。

 抗えなかった。これが、世界でいちばん――自然なことのような気さえ、した。


 令悧は、私の背中にそれはそれは愛おしそうに両手を回して、口づけに応えてくれて――。


 その瞬間、世界はどこまでも透き通って静かで、完璧だった。


 ……夢ものがたりであるかもしれないとは、思っていた。

 でも、信じたかった。

 せめて、いまだけでも――夢ものがたりをほんとうのこととして、感じていたかった。

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