紫煙は天井をかすめて消える。
「ちゃんと成仏してますよ、奥さん」
「……そうですか」
紫煙がくゆる。今どきまだ葉たばこをやる人間もいるのだなと、ぼんやりと思いながら私はそう返した。
「信じてませんね」
「当たり前でしょう。妻は毎日やって来るんですから」
妻が自死して半月が経った。葬儀の後、帰宅した晩からずっと彼女は私を訪ねて来るのだ。
「それは身を持って?」
「そんな、まさか。透明というんですかね」
体は確かに焼き、骨壺へ収めた。
そうして墓へと。
「じゃあ体を求めて戻ることもない。何か未練に思い当たる事でも?」
「……自死なのですから、何か求めているのは違いないのでしょうが」
思い当たる事など無いのだと、そう言い返した。
「ふうん。ところで、どうしてやって来るとおっしゃるので?」
「は?」
「御夫婦なのですから、帰って来ると表現するのが一般的では?」
言葉に詰まる。そう。妻は――。
「喧嘩をして、出ていけと言うのが、常でした」
「そうですか」
「最後の方は、ほとんど別居のようで。通い妻、のようで。私は毎度、また来たのかと」
「他人のような扱いだったんですな」
興味なさげに、紫煙はくゆる。風の通らない室内に、甘ったるい香りが満ちる。
「離婚話はなさらなかったので?」
「定年後の離婚など外聞が悪いでしょう」
「奥さんを通わせる方が悪そうですけどね」
「親族にばれなければよかったんですよ」
責められてなどいない筈なのに、私の言葉はどうしても言い訳がましくなった。
「奥さんは、離婚を求めていたんですかねえ」
「……それを求めて、やって来ていると?」
紫煙は天井をかすめて消える。香りだけを残して。
「いや、わかりませんけどね。奥さん本人は成仏しちまってるので」
「まだそんな事を」
「残ってるのは映像みたいなもんですよ」
「は?」
「奥さんはさっさと成仏してます。余程この世に未練が無かったようで。ここにあるのは記録だけ」
くゆる紫煙は表情を隠す。笑っているのか、馬鹿にしているのか。
「焼付きなんですよ。そして波長のあう貴方に再生されるそれがみえてしまうだけ。それだけの事なんです」
「……」
「奥さんに何か求めているのは貴方の方ではないですかね」
では、とたばこと共に去って行く背をぼんやりと眺めた。これで除霊料、いや相談料十万か。高いな。
「焼付き、か」
本人は成仏している、それが本当ならどんなにいいだろうか。
けれどやって来る彼女は確かに私に向かい喋るのだ。それを毎夜繰り返して。
「もう、疲れたんだよ」
今夜もインターホンが鳴る。
私はまたドアを開ける。
無視すればいい。ドアを開けなければいい。引っ越してしまえばいい。
わかっている。けれど出来ない。
「お邪魔します」
「……ああ」
妻は室内へと入り、透明な手で家事をこなす。
いや、何かしているのだろうが、それは動きだけで現実では何も動きはない。
なるほど、確かに焼き付けといえばそうなのかもしれない。
けれど確かに彼女は喋るのだ。
「最近はどうしていた」
「パートに出ているわ」
「金銭面で困っているなら言いなさい」
「ええ、困れば頼るわ。ありがとう」
事務的なそれはパターンを変えてもきちんと答えが返るのだ。どうしてこれで、ただの再生されているだけの思い出だと言えるんだ。
「……愛している」
「いいのよ、今更」
「君はどうして、私から離れようとしないんだ」
「貴方が家事をやれというから来ているのだけど」
「……離婚してやらないからか」
「別れてくれるの?」
ああ、何度か繰り返したな。
ああ、そうだな。確かにこれまで交わした会話は既に行われていた会話ばかりか。
これはただの、思い出の再生か。
ならば。
「君が望むのなら、そうしよう」
「……」
初めての回答に、彼女は。
「――」
何も返さずに、消えた。
***************
「その後どうです?」
『驚いたな。まさか気にかけてくれるとは思いませんでしたよ』
「きちんと定額を振り込んで頂けたんで。アフターサービスくらいしますよ」
電話口の向こうの声は前回会った時より落ち着いている。しかし解決した、というには危うい気配。
『妻は相変わらずやって来ますよ』
「そうですか。引っ越しはされないんで?」
『ええ。求めているものが手に入るので』
「それは?」
ふふ、と嬉しそうな笑いのあと。
『別れてやると言うと、わらってくれるんですよ』
「……そうですか」
どうやらもうアフターサービスは必要無いようだった。
何かあれば連絡をと告げ、電話を切る。
「夫婦揃って、欲しかったものが手に入る瞬間を繰り返しているのか」
お似合いな事で、と呟くが、いや奥さんは成仏してるし繰り返してるのは旦那だけかとセルフツッコミを入れた。
事務所の汚れた窓から空を仰ぐ。そこにいるかい?と、我ながらきざったらしく問いかけて。
「あの世で再会しない事を祈るぜ」
了