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「日を空けずに何度も来訪させて頂いて、申し訳ありません」


 翌日。

 紫苑と紬、そして犬型のハルは、再び篠崎夫妻の自宅を訪れていた。


「いいえ。何もお構いできませんが、来訪があるほうが両親もきっと喜びますので」


 親しみを込めた笑顔で出迎えてくれた香苗に礼をし、二人は以前と同じく居間へと通された。

 居間の角にはやはり重厚な仏壇があるが、辺りの家具類は最低限が片付けられていた。


「そろそろ、香苗さんもご自宅にお帰りになるんですか」

「ええ。恐らく来週中には。夫も明日こちらに来て、諸手続を済ませて共に帰る予定です」


 話によると香苗は一人娘で、現在は東京に居住していると聞いている。

 今後仏事を向こうで執り行うとすれば、篠崎夫妻と相見えるのはこれが最後かもしれない、と紬は思った。


「ご多忙の中失礼したのは、是非こちらのお香を仏壇に供えさせて頂きたいと思いまして」

「あら。綺麗な色合いのお香ですねえ」


 紫苑が懐から丁寧に広げた箱からは、薄桃色の線香が姿を見せた。

 半紙をめくっただけでふわりとほのかに漂う香りに、香苗だけでなく紬も同様に鼻をきかせる。


「もしも間違っていたらごめんなさい。もしかしたらこの線香、芍薬の香り……かしら?」

「はい、その通りです。僭越ながら数日前に祝津のニシン御殿へ参りました。その際、スタッフの誰もが篠崎様ご夫婦のことを覚えておいででした。皆さん、ご夫婦のことを語るときはとても嬉しそうで、別れの時はとても寂しそうでした」


 そう語る紫苑に、香苗の口がきゅっと締まる。そんな香苗を労るように、紫苑の指が一本の線香を撫でた。


「生前、お父様を亡くされたお母様は、お父様に牡丹の香りの線香を供えたいと願われていたそうです。お父様が大好きな花だからと。しかし、お父様が本来好きだったものは別のものだったようだと、スタッフの皆さんとの語らいで知りました」

「え……?」

「ご焼香、失礼しても宜しいでしょうか」


 断る理由などなかった。香苗がどうぞを身を引くと、紫苑が流れるような所作で仏壇の前に正座する。

 後ろに控えた紬は、内心どきどきと逸る胸の鼓動を聞いていた。紫苑が、線香にそっと火を灯す。


「……あ」


 そう声を漏らしたのは、香苗だったか、紬だったか。


 ふわりと流れ始めた線香の香りが、次第に室内を満たし始める。先に鼻をくすぐったのは春の香りだ。

 瞼を閉ざすと、目の前には春の目覚めを喜ぶ花々と、その中に凜と佇む牡丹の花が浮かぶ。その背後に微かに漂う重厚な木材の香りが、在りし日の贅が尽くされたとされる御殿の荘厳な佇まいを思わせた。

 時間を微かにずらして現れ始めた甘い香り。芍薬だ。香りのほとんどない牡丹と異なり、芍薬は華やかで芳醇な香りを漂わせる。思わず恍惚とする紬に、さらに感覚を撫でる優しい芳香があった。先ほどから優雅に流れるこの残り香は。


「ショパンの、夜想曲第二番……」


 そう零した香苗の目尻には、光る涙が静かに溜まっていた。


「私が幼い頃、母が機を見ては弾いてくれていた曲です。可笑しいですね。この香りをかいでいると、何故だかあの音色が聞こえてくるようで」

「お父様が牡丹を好んだ理由は、お母様が芍薬を好んでいたからだそうです。芍薬と寄り添うように毎年咲く牡丹を自分が愛でることで、お母様への愛情を現したのだと」

「ふふ。知らなかった。でもきっと、母さんにもそれは伝わっていたのでしょうね」


 目尻の涙をそっと拭い、香苗は吹っ切れたような笑顔を向けた。


「私、本当は両親の墓を東京に移そうかずっと迷っていたんです。私ももう若くないですし、墓の世話をするのにこの距離は簡単ではないものですから」


 でも、と香苗は続ける。


「決めました。やっぱり二人の墓はこのまま、この街に置くことにします。夫もそれに賛成していますし、本心は私も、ずっとそうしたかったんです」


 なにより、この街が二人にとってどんなにいい街だったのか、どんなに二人だけの思い出に満ちていたのかがわかったから。


「来年はきっと、二人で手を繋いで牡丹と芍薬を愛でに行けますよね」


 仏壇に並ぶ夫婦の写真を見上げ囁いた香苗に、紬は笑顔で頷いた。


   ***


「素敵な香でしたね。まるで、お二人の愛の契りのような香りでした」


 帰り道、いまだ着物にほのかに香る線香の残り香を感じながら、紬は呟いた。


「そうだね。だからこそ、俺には作れないかもと思ったよ」


 思いがけない言葉に、紬は隣を歩く紫苑を見上げる。


「俺にはまだ、愛を契り合うような、想い想われる相手を持ったことがない。そんな自分が何を作ったところで、偽物の香にしかならないかもしれないってね」

「でも、私はちゃんと感じ取れましたよ。ご夫婦の愛情の深さも、それをお香に籠めた紫苑さんの心も」

「……ありがとう。そう思ってくれる君が側にいたから、作れたんだと思う」


 紫苑が微笑む。その美しい面差しを見て、紬は心から幸せを感じる。

 今は既に日常になりつつあった彼との日々。それが奪われずに済んで、本当によかった。「おい」


「そんなことよか、気づいたかよ。あの家」


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