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(6)

 香司。


 初めて耳にした職の名からは、整然とした美しさが滲んでいる。

 同時に、どうりで辺りからほのかな香りが立ちこめているはずだ、と紬は納得した。


「橘さんは、お香のお店を営まれているんですね」

「うん。この屋敷の渡り廊下を挟んだ裏手に、店舗用建物があってね。この小樽の街で細々と運営させてもらってるんだ」


 告げられた説明に、俄然興味がわいてくる。こんなに佇まいの優美な店主が営むお香のお店なんて、きっと素敵な空間に違いない。

 豊かに香るお香が訪れる人を癒やし、和ませ、さらには彼の美しい微笑みに魅せられる。なんて素晴らしい空間だろう。


 空想の中の店舗を勝手に妄想している紬に、「そうそう」と紫苑の声がするりと入ってくる。


「一つ質問なんだけれど、紬さん、自分の着物の着付けはしたことがあるのかな」

「あ、はい。以前習ったことがあるので、一応は……」

「そっか。それなら安心だね」

「あ、はい……、へ?」


 いけない。意識半分で答えていた。というか、安心って?


「実は、紬さんに一つ提案があるんだ」


 ほんの僅かに詰められた二人の距離。机を挟むとはいえ麗人の接近はやはり慣れず、紬はそっと心の距離を置いた。


「えっと、その提案というのは……?」

「いつ届くかわからないキャリーバッグの連絡を、この家でひたすら待ち続けるなんて時間が惜しいでしょう」


 言いながら、にっこりと紫苑が笑顔を濃くする。


「紬さんさえ良ければ、俺が小樽の街を案内するよ。これも何かの縁だしね」

「……へ?」


 素っ頓狂な声が出る。何度か頭の中で言葉の意味を噛みしめた後、すぐさま首を横に振った。


「いえいえいえいえ。そんな滅相もない! これ以上橘さんにご面倒をかけるわけにはいきません!」

「こういう状況も俺自身少なからず関わっているわけだから、お詫びの印だよ。君をこのまま捨て置くなんて、俺の気が済まない」

「う、で、ですから、橘さんの責任なんてこれっぽっちも」

「それとも」


 俺を連れ立っての小樽観光は、迷惑かな?


 優美な人から、小さく首を傾け尋ねられた問いかけ。

 それを否定で返すことなど、紬には到底できはしなかった。


   ***


 先ほどされた質問の意味は、すぐに判明することとなった。


 羽織った着物の両衿を持ち、まずは裾線を決める。

 上前の幅を見た後に下前を合わせ、腰紐を手にしつつ上前を合わせる。

 次に腰紐を結ぶ。このとき、紐を前下がりに締めると体が楽だ。

 着物の脇辺りにある身八つ口から両手を入れ。おはしょりの前後を整える。

 掛け衿の左右と背中心を決め、おはしょりの中をさらに整えれば、後はこの状態を固定していくだけだ。

 左の身八つ口から両端にクリップがついたコーリングベルトを入れ、下前の衿を留める。

 背中を回して今度は右側から上前の衿を挟む。これでようやく、胸元の着物生地にぱりっと張りが出る。

 後は背中部分のしわを伸ばし、全体のよれを整えれば本体部分は完成だ。


 帯は締め心地も楽な半幅帯が用意された。本来浴衣用の帯だが、普段着用として用いても問題ないと聞いている。

 紬は迷わずカルタ結びを選んだ。一番手慣れたものかつ手間も少ないこの結びは、手早く済ませたい今のようなときにぴったりだ。


「うう。着物が、眩しい……」


 姿見越しに見る自らの姿に、情けない声が漏れる。しかし今は項垂れている場合ではない。

 何せ紬は、現在進行形で麗しの恩人を待たせているのだから。


   ***


 隣の部屋には、紫苑が一人静かに座して待っていた。


「ああ。やっぱり俺の見立て通りだね。よく似合ってるよ」


 満足そうに目を細める紫苑に、紬は返答に詰まり視線をさまよわせた。

 理由は、小樽観光用にわざわざ用意してもらったこの着物だ。


「あの、こんな素敵な着物を、お借りして本当によかったんですか……?」


 外出用として改めて貸し出されたのは、後光が差すほどに美しく仕立てられた着物一式だった。

 着物は鮮やかな朱色に織られたもので、丸みを帯びた梅の花があちらこちらに咲いている。若竹色の帯や梅と同色の帯締めも造りが丁寧で、着物にとてもよく合っていた。


 最近は着物をまとう機会もなかった紬でも、一目見ただけで自分が気軽に購入できる代物ではないことがわかってしまう。


「紬さんは、着物に慣れているみたいだね。用意しておいておかしな話だけど、一人で着付けができる若い女性もなかなか少ないでしょう」

「えっと、実は幼い頃、祖母に着付けの仕方を教わったんです。祖母の着物姿が、あんまり素敵だったものですから」


 それも社会人になった今となっては、着物とも随分と縁遠い生活になってしまっていた。そんな事実にも気づかないままだった、と紬はじわりと寂しさが胸に広がる。


「そうだったのか。君のおばあさまは、素敵なギフトを贈ってくださったんだね」

「……はい」


 不思議だ。紫苑の言葉は、ひとつひとつがとても自然に心の真ん中に沁みていく。

 寂しさが消え、じわりと淡い幸せに微笑みを浮かべる。気づけば音なく立ち上がった紫苑が、紬の目の前まで歩みを寄せていた。目の前が、僅かに陰る。

 自分が上背がないのもあるけれど、この人、やはり背が高い。


「ええっと……橘さん?」

「紫苑でいいよ。それよりごめん。少しだけ、君を見せて」


 君を見せて。

 ……君を見せて?


 言葉の意味を解釈するよりも早く、紫苑の手がすっとこちらに伸びてくる。

 触れられるかと思いきや、その長い指先は触れるか触れないかのぎりぎりの箇所で動きを止めた。

 しかし、それがかえって紬の胸の鼓動を大きく乱した。

 その後、まるで撫でるような所作で虚空を切っていく紫苑の指先。長く美しい指だが、指先には僅かに藍色に色づいたものもある。何かの作業中に着色したのだろうか。

 そんな指先に、まるで愛でるように触れられて……いや、実際触れられてはいないのだが、ほとんど同じだと紬は思う。


 デコルテから両肩、腕を流すように降りていったあと、腰元から足の先までを丁寧にその手で追っておく。

 どう考えても過度な接近だが、紫苑の真剣な眼差しを前に身じろぎひとつできなかった。


「うん。思った通りだな」

「あの。し、紫苑さん、いったい何を……」

「紬さんは、着物がとても映えるね」


 足元に膝をついたまま、紫苑が微笑みこちらを見上げる。それはまるで、お伽話で王子がお姫様に求婚するかのように。

 そんな幻想を重ねてもおかしくないくらい、対峙する彼の佇まいは完璧だった。


「あ、はは。確かに体に凹凸がない分、着物向きかもしれませんね……?」


 どう解釈するか迷った挙げ句、自虐が口から出る。しかし、紫苑の耳には届かなかったらしい。


「首が、人より少し長くて細い。肩もなだらかな撫で肩で、腰の位置も高くない。何より、君の所作は先ほどからとても美しくて細やかだ」


 紫苑はゆっくりその場に立ち上がる。互いには再び、見上げるほどの身長差が生まれた。


「君は、着物が美しく着こなせる、素敵な女性だよ」

「……──っ」


 ふわりと、きらきら瞬く香りが弾ける。

 眩しいほどに美しい紫苑の微笑みに、紬はしばらくぼうっと立ち尽くしていた。

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