(19)
「……へ?」
まさか、紫苑さんの口からそんな言葉が出るなんて思いもしなかった。
信じられずにぽかんと口を開けていると、掴まれた手首がぐいっと引き寄せられる。ぐらついた体を受け止めたのは、熱く広い紫苑の胸板だった。
「こんな無茶して。本当、馬鹿だ」
「ば、ばかばか……」
「命を捨てる覚悟はあるのに、俺からもらった着物には食い下がるなんて。どう考えても普通は逆でしょう」
体をとらえる腕の力が、優しく籠められる。
紫苑が囁く言葉に連動して、包まれた胸元に振動が伝わることに気づいた。その奥で微かに届く、熱く打ち付ける心臓の鼓動も。
ああ、自分は今、紫苑の腕の中にいるのだ。
今までも似た体勢に収まったことはあったと思う。それでも、何ともいえない熱く湧きあがる感情に紬は胸がいっぱいになった。
「馬鹿、ですか」
「馬鹿だよ」
「でも、紫苑さんだって、馬鹿ですよ」
きゅ、と紫苑の背中を握る。
広い背中。回す腕が足りず、紬は限界ぎりぎりまで手を伸ばし再び抱きしめ直した。
「あんなに苦しい症状が出るのなら、どうしてもっと早くにこの山に来なかったんですか。ハル先輩だって言ってましたよ。何度も忠告したのに、紫苑さんはなかなか山に行こうとしなかったって」
「それは」
「大方、お前に麒麟の血の事情を知られるのを恐れた、といったところだろう。山に向かうとならば、それなりの理由を用意する必要があるからな」
「シュリ!」
すかさず飛んだ紫苑の声に、くくっと愉快げに笑う声がした。
すっかり闇に伏した木々の合間に、白い両翼が広がる。
その姿はやはり天使のようで、紫苑の腕の中から紬は思わず目を見張った。
「今回はいい見世物だった。長年の願いがようやく成就したといったところか。能面笑顔な輪廻香司の百面相を、この目にすることができたからな」
「シュリ様っ」
「紬。また会うこともあるだろう。そのときに交わす契りは、迷うことなく真に欲するものを頂くぞ」
にっと子どものような笑みを残したあと、シュリは闇夜に溶けるように消えていく。
余韻のように吹き抜けた山の夜風が、残された二人に踊るように吹き抜けていった。
***
「紫苑さん、あの、私ちゃんと一人で歩けますから……!」
「駄目だよ。いいから大人しく運ばれてて」
山奥での一悶着が落ち着いたあと、紫苑と紬はともに人目につかない山道を下山していた。
今の紬は長襦袢のみを纏っている。しかしながらそれ自体肌を晒すものではないため、紬はあまり気にしていない。
しかし紫苑は、「紬の肌が小枝に擦られたら困るから」と言い有無を言わさず紬を抱き上げていた。
「だって紫苑さん、さっきまであんなに苦しそうにしてたじゃないですかっ? それなのにこんな無理をして、ぶり返したらどうするんですか……!」
「それを言われると、耳が痛い」
「だったら!」
「でも駄目だ。君は俺が抱いていく」
抱き上げられると、紫苑の端整な顔立ちがよりはっきり見える。
紫苑から向けられた真っ直ぐな眼差しに、勢いづいていた紬の言葉は夜風に吹かれてしまった。
「……ずるいです。紫苑さん。本当に」
「ごめんね。自覚はある。君と会ってからはずっと、俺はずるいままだったから」
「え?」
「紬さんの優しさに甘えて、都合の悪いことは何も話してこなかったから。自分の血の危険性も、輪廻香司の忌み名についても」
さらりと口にされた単語に、どきっと心臓が音を立てる。木々の合間を進んでいくなか、紫苑は静かに口を開いた。
「俺は元々『淡路の橘家』と称される一族の末裔でね。本来兵庫の淡路島で人知れずひっそりと住まう一族なのだけれど、実家と折り合いの悪かった母と俺は島を出て神戸の街で暮らしてたんだ」
神戸。兵庫で有数の大都市で観光都市としても人気な、美しい港町だ。
「でも俺が二十の時に母が亡くなってね。そのとき一族の仕事に、俺自身も派遣されることになった。輪廻香司の仕事だった」
「輪廻香司の仕事……それは、一体どういう……?」
「お豆が以前言ったことで、大体あってるよ」
眉を下げ告げる紫苑に、紬はお豆の言葉を思い返す。
現代に生きるに相応しくなくなったあやかしを、懐かしの過去の香りで惑わし、最終的にこの世から消し去る──。
「嘘です!」
「え」
「ちゃんと、紫苑さんの言葉で教えてください! 私、ちゃんと知りたいんです、紫苑さんのことを……!」
威勢のいい発言に反して、言葉尻は微かに震えていた。
正直言えば、少し怖い。輪廻香司という存在を知ることも、紫苑のことをより深く知ることも。
しかし、人を信じるということは受け入れることなのだとも、紬は思う。
自分は今まで人と真に心を通わすことを避けてきた。それは単に、自分の臆病が根深くあったのかもしれない。
「お願いします。紫苑さん」
「……はは。紬さんは、強いな」