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 明瞭に耳に響いた声。

 それが先ほどまで心に直接問われていたものと同じ声色だと気づき、顔を上げる。


 瞬間、夜に沈む森奥にもかかわらず、目の前に広がる白を見た。

 まるで月光の光を集めたような、白く美しい両翼だった。


「俺の誘いに乗らずにいられた人間は、輪廻香司の奴を除いてはお前が初めてだ。彼奴も、面白い女を使いに寄越したな」

「っ……あなた、は」


 天狗だ。


 とっさにそう理解したが、想像とはだいぶかけ離れた印象だった。なにせ天狗の象徴といえる高い鼻がない。

 今紬が対峙しているあやかしは、背に白い両翼を携え、山伏衣装で、見上げれば首が痛くなるほどの高い大木の枝に腰掛けている。加えて、その身にまとう妖気が並外れて強い。

 しかし、それ以外はほとんど人間のそれと変わらないように見えた。


「っ、はじめまして。私、千草野紬と申します。この春から、小樽たちばな香堂で売り子として勤務しています……!」

「紬、か。先に名乗るとは殊勝な娘だ」


 高い木の枝に据えていた腰を浮かせると、その天狗は紬の目の前に軽やかに降り立った。


 年齢は、人間で考えれば紫苑と同じか少し上といったところか。鼻筋が通り愉快げに細められた目。口元もくちばしなどはついておらず人間のそれに相違ない。

 髪もまた、赤ら顔の天狗によくある白の長髪ではなく、深い茶色の短髪は毛先にかけて緩く波を打っている。顔立ちは日本人だが、衣装さえ替えれば天使とも見まがうような出で立ちだった。


 要するに、紫苑と同じく非常に見目美しい天狗なのである。


「お前の噂はすでに耳に入れている。輪廻香司の店に、最近若い女が住み込みで働き始めたとな。それで? お前の雇い主の姿がないようだが」 

「そ、そうなんです。今回はそのことで、天狗さんにお願いをしに参りました」

「天狗さん、は珍妙な呼び名だな。シュリ様と呼べ。それが俺の正式な名だ」

「は、はい。シュリ様」


 素直に言い直すと、シュリは満足げに口角を上げた。笑うと何だか子どもみたいだ、と紬は思った。


「シュリ様。今回お願いしたいことなのですが」

「まあそう急くな。どうせあの輪廻香司が無理を祟らせたのだろう。毎度あれほど忠告してやっているものを」


 呆れたように肩を竦ませ、シュリは近くの岩場に腰を下ろす。

 どうやら事情はある程度理解されているらしい。紬はほっと胸をなで下ろした。


「そ、そうなんですっ。紫苑さんが、今香房に籠もっていて、とても苦しそうにしていて……お願いします。紫苑さんと助けてくださいませんかっ?」

「んー。嫌だ」

「…………へ」


 嫌だ。嫌だと言った?


 簡潔に述べられた否定の言葉に、思わず目を瞬かせる。

 目の前の天狗は、にいっと口に大きな弧を描いた。


「っ、どうしてですか? だっていつもはシュリ様が、紫苑さんのことを助けてくれてるはずじゃあ」

「いつもなら彼奴がここに来て直接願い出てきた。その対価も受け取って成立してきた関係だ。俺は何も慈善活動を趣味にする天狗じゃない」

「そんなっ」


 さらに言葉を口にしかけたが、どうにか堪える。確かにシュリの言うことにも一理あった。

 今まで培ってきた二人の関係を紬は聞かされていない。緊急事態とはいえその通例を破ってきたのはこちらの方だ。彼を責める謂われはないだろう。かくなる上は。


「……それでは」

「ん?」

「私が、その対価となるものをお渡しします」


 シュリの目に、獰猛な色が鋭く宿るのがわかった。

 言葉はもう戻せない。竦みそうになる体を、紬はどうにか持ちこたえる。

 あやかしと交わされる「契り」は、人間と交わされる以上に重要な位置づけであることを紬は知っている。反故にすることは許されない。それこそ命に関わる重大な事態も起こりえる。でも、だからこそ。


「私がお渡しできるものなら、対価としてお申し付けください。シュリ様」

「二言はないな」

「はい。その代わりシュリ様も、紫苑さんを助けてくださる契りをお忘れなきよう」

「ははっ、なるほど。小娘ながらしっかりしている」


 愉快げに肩を揺らしたあと、シュリは「約束しよう」と首肯した。よかった。紬はほっと胸をなで下ろす。「……あ!」


「あのう、シュリ様」

「なんだ。言っておくがもう契りは交わされたぞ」

「それはいいんですが……一応、お伝えしたいことが」


 おずおず片手をあげた紬がうーんうーんと頭を抱えながら言葉を探す。


「なんだ。言いたいことがあれば早く言え」

「す、すみません! 私から差し上げる対価についてなのですが!」


 ええい。ままよ! 紬は覚悟を決めた。


「そのっ、私の『運』を取り上げるのは、止めたほうが宜しいかと思うのです……!」


 眉を寄せたシュリは、まるで威嚇するように白い翼を人扇ぎさせた。ビクッと肩を揺らす紬に、シュリは強い視線を向け続ける。


「お前に指図される謂われはないな。俺がほしいと思えば、運であろうと寿命であろうと遠慮なく取り上げるぞ」

「あっ、それはもちろんです!」


 寿命はさすがに困るけれど、と内心呟きつつ、紬はひとまず肯定する。


「実は私、もともと目も当てられないほどの不運人間でして。今持つ運の全てをつぎ込んでも、シュリ様の求める対価には到底届かないと思うのです……!」

「……はあ?」


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