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(14)

 最後の一節だけ、再び何重にも覆われたような異様な響きをはらんでいた。

 わかっていたが、紬の意識はすでに囚われている。


 伸ばされた手の先に鋭い爪が伸びていたことにも気づかないまま、紬は室内へ立ち入る一歩を踏み出した。


「……え?」


 星屑の、香り。


 鼻腔を微かにくすぐったその香りに、紬の歩みがとまった。

 気づけば部屋と廊下の境にあった紫苑の指先が、紬に触れるか否かのところに留まっている。その間に感じる、僅かな空間の膜。これは。


「結界が、張られてる……?」

「良かった! 正気に戻ったか」

「っ、ハル先輩!」


 視線を下げると、紬の腰に腕を巻くハルがいた。香房内へ向かおうとした紬を引き止めていたらしい。

 その香房内では、髪を金色に恨めしげにこちらを睨む紫苑の姿があった。いつもとは余りに違う形相に、紬の背筋がすっと冷える。


「紫苑、さん? どうしたんですか、一体何が……っ」

「馬鹿紫苑。血に囚われる前にさっさと山に行けって、再三言ってやったのによお!」


 香房の紫苑に苦々しげな顔を向けながら、ハルが声を上げた。


「ハル先輩? 先輩は何か事情を知っているんですか?」

「こいつが香房で香を作るときは、いつも決まって香で結界を張る。いつ自分が血に囚われてもいいように」

「香で、結界……」


 その言葉に紬は、お豆の行方を探っていたときの一件を思い出す。お豆を一度この屋敷に保護したときも、同じように紫苑は室内に結界を張っていた。


「『淡路の橘家』の血には、普通のそれとは違う力がある。本来人間に流れるべきでない特別な力だ。それを持つこいつはあやかしの惹く香を作る能力と引き換えに、こうして定期的に血に飲まれる。こいつの血に流れる……あやかしの血に」

「え」


 あやかしの血が──……紫苑さんに?


「っ、ハル! そのことは……!」

「るっせーよ、養生もまともにできねー馬鹿香司が! こんな姿を見せといて誤魔化すなんて土台無理な話だろが!」


 香房から飛んだ鋭い声に、ハルもすぐさま応戦する。次の瞬間、紫苑の視線が紬の視線を絡み合った。

 その瞳は先ほどまでの真っ青な色とは異なり、微かに黒みを帯びていた。それと同時に、表情にも徐々に感情が戻っていく。

 その顔に現れたものは安堵や喜びではなく、恐れと困惑、そして不安だった。


「紫苑さん……だ、大丈夫で」

「ハル、紬さんをここから離すんだ」

「紫苑さん!」

「早くしろ!」


 どん、と再び体を圧が押す。

 瞼を開けば、紬とハルは今いたはずの香房から相当離れた、紬の部屋前で尻餅をついていた。


「え、え? ここは」

「っててて……あんの野郎、二人まとめて強制移動させやがって」


 何が起こったかわからずに目を白黒されていると、ハルが苦々しげに舌を打つ。

 腰の痛みとともにじわじわと蘇ってきたものは、先ほど目にしたばかりの紫苑の顔だった。乱れた着物の裾も構うことなく、紬はがばりと急いで身を起こした。


「まて紬!」

「紫苑さん! 紫苑さんを助けなくちゃ!」

「落ち着け! お前が今行っても、できることなんてなにもねえって!」

「じゃあ、このままあの人を放っておけっていうんですか!?」


 叫ぶと同時に、紬の瞳からは涙が溢れていた。嗚咽に変わりそうな呼吸に気づき、ぐっと堪える。


「確かに、私には何もできないかもしれません。でも、このまま知らない顔をして、いったいどうしていろというんですか」


 そんなことができるわけがない。

 そんなことをして、これからも紫苑の隣に共にいることなんて、できるはずがないのだ。


「何か、紫苑さんの助けになれることはないんですか。今までもあの症状が出てるのなら、どうすれば収まるのかも知っているんですよね!?」

「……っていうか、お前」

「なんですか!」

「あいつの血のことを聞いても、何も変わらねーじゃん」


 独り言のような言葉をぽつりと零したあと、ハルははあああと何段階かに分かれた長いため息をついた。


「ハル先輩……もしかして、話を逸らそうとしてますか? そんな手には乗りませんからねっ!」

「あーはいはいはい。別にそういうつもりはねえよ。ただ」

「ただ?」

「随分と、心強い居候ができたと思ってな」


 ハルが着物の懐から小さな木箱を取りだす。

 見覚えのあるそれは、小樽の街に来るきっかけにもなった、落とし物のあの木箱だった。

 それをひょいと手渡され、紬は目を瞬かせた。


「ハル先輩、あの、この箱は……」

「この箱は、紫苑が初めて作った香を詰めた箱だ。俺を助けるために、アイツは香を作った」

「え?」

「俺を助けるために、アイツは香司の道を選んだ。だからオレも、アイツを助ける。この命を助けられたときに──そう決めた」


 でもお前にならきっと、その役目も任せられる。

 そう告げるとハルは、そっと身をかがめ右手を床についた。


「今この中にあるのは、数日前にアイツから受け取ってた香だ。必要だと思えるときまで大切に持っておけ。きっと力になる」

「あ……!」


 蛍のような光が、ふわふわと辺りに漂い始めることに気づく。みるみるうちにその光は集い始め、最終的には一つの大きな光の円となった。


「こ、これは」

「ここから先、天狗山の麓に続いてる。残念ながら俺の妖力では一人で定員オーバーだ。お前が行って、山の主にあの馬鹿紫苑の症状を抑える法を受け取ってこい」


 言い終わった瞬間、紬の体が一気に光の世界に飛んだ。


「症状を抑える法……誰に聞けばいいんですか!?」

「天狗山の主っていったら、一人しかいねーだろ」


 頼んだ、とだけ告げられ、ハルの言葉が途切れた。


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