(12)
横から思わずという様子で加わったのは、先ほどのスタッフの女性だった。
「ご夫妻はこの時期にいつも時間をお作りになっては訪れておりました。牡丹と芍薬……その花たちがまるで、自分たちを表しているようだと」
「牡丹と芍薬が、篠崎さんたちを?」
「ええ。なんでも、旦那様が牡丹を、奥様が芍薬をそれぞれ好んでいらしたとか」
そうだったのか。ちらりと視線を横に向け、紫苑と黙って分かち合う。
夫人が芍薬を好んでいたのは初耳だった。
「ただ……実はこの話には続きがあります」
「え?」
「実は旦那様が真に牡丹を好んでいた理由は、奥様が芍薬を好んでいることを知ったからなんだそうです。それを話の種に、この場所にともに訪れたのが二人の馴れ初めのきっかけなんだとか」
それは老夫人が席を立っていたときに、老紳士がぽつりと語った話だったそうだ。
本当は自分は花を愛でるほど、繊細な感性を持ち合わせてはいない。ただ、あれの幸せに咲く顔を見るために、自分はここに来ているんだよ、と──。
「紬さん」
「え……お客さま、どうされましたかっ」
その話を聞き終わるか否か、頬を掠める熱い感触があった。
目尻からぽろぽろとこぼれ落ちてくる涙に、スタッフの女性は驚き、紫苑は懐から温かな何かを頬に押し当ててくれた。ハンカチだ。
紬は声を出せないままそれを受け取り、今は亡き人の、今は亡き人への想いを痛いほどに感じ入る。
篠崎夫妻にとっての「牡丹の香り」。
それは、互いに生涯愛した人を想う、愛情に満ちた香りだった。
***
帰宅後から、紫苑は一人屋敷の奥の香房に籠もっていた。アヅマに依頼された牡丹の香りの香を製作するためだ。
自宅部分のさらに奥にひっそりとある扉。
この屋敷に住まうようになった日の夜、紫苑に香房内に促されたことがある。
しかし、職人が作品を向き合う空間を無闇に冒すことはできず、紬は立ち入りを断った。
それから今まで、一度も香房へ近づいたことはない。
紬は紫苑の作業が終えるのを待つ一方で、昨日こなせずにいた家の用事を次々と済ませていた。体を動かしていたほうが、余計なことを考えずに済むのだ。
例えば、紫苑さん、お腹は空いていないのかな、とか。ちゃんと眠っているのかな、とか。
旧青山邸での、あの言葉の意味は何だったんだろう──とか。
「なんつーか。紫苑もお前も、適度に手を抜くってことを知らねえ人間だよな」
「ハル先輩」
洗濯物を済ませた紬の後ろで、半ば呆れた顔のハルが縁側に腰を下ろしていた。
人型の顔をふるふると横に振ると、ふわふわの薄茶色の髪が風になびく。
「紫苑さんが香房で頑張っているのに、私が一人のんびり座っているわけにはいきませんから」
「別にそれでもいいだろ。今日は元々香堂は休みだ。休みは休むためにある。馬鹿みたいに働いて体を痛めつけてたら、元も子もねえだろが」
ふん、と鼻を鳴らしそっぽを向くハルに、紬はぱちくりと目を瞬かせる。
もしかしたら、紬の体を心配してくれているのだろうか。
「ありがとうございます。ハル先輩」
「なにがだよ。俺はただ、お前ら人間がそう何度も倒れられちゃ迷惑を被るって思ってるだけだ」
「……お前ら、ですか」
思わず反応した紬に、ハルは「あ?」と眉をしかめた。洗濯物を干し終えた紬が、そのままハルの隣に腰を下ろす。
「ハル先輩。紫苑さんが時折体調不良になるのは、本当のことなんですか」
「まあな。あいつはいつも、限界ぎりぎりまで平気な面してるからタチが悪いぜ。特に今回は……」
そこまで口にして、ハルは口を閉ざした。反射的に辺りを見回す。紫苑の姿はもちろん誰の姿も見えない。
「ハル先輩?」
「……あいつの体調不良は、例の生業によるもんだ。あの生業は生半可なものじゃない。実際香司の身と心を削る」
思わぬ言葉に、紬が目を見開く。
生業というのは、依頼から引き受ける特別な香の製作のことだろう。
以前聞いたことのある、浪子のための練香や塗香、お豆のための匂い袋──確かにあれらは、通常のお香とは明らかに違っていた。
聞いた途端にある情景に引き込まれ、実際そこにいるかのような心地に包まれる。香り一つでそんな感覚まで呼び起こされた経験は、感覚の鋭い紬とて一度もない。
「あの生業は、その再現性が高ければ高いほど力を発揮する。あいつの力は一族でもずば抜けていた。だから余計に、体にくる負担も大きいんだ」
「一族というのは、『淡路の橘家』のことですよね……?」
不安に高鳴る胸の鼓動を押しのけて、紬は一歩踏みだした。
「ハル先輩。前にお豆ちゃんが言っていた『淡路の橘家』と『輪廻香司』というのは、いったいどういうものなんですか。どうして一部のあやかし達から、あんなに嫌悪されているんですか?」
「お前なあ。そういうのは俺じゃなくて本人から聞くべきじゃねーのか?」
「そ、そそ、それはっ、その通りなんです、けど……」
せっかく出た勢いが、ハルの的確な突っ込みによりみるみるしぼんでいく。
最近折に触れて見えるようになった、感情をそぎ落としたような紫苑の表情。
そんな表情を見るたびに胸が苦しくて、やるせない心地になる。私はいなくならないと言った紬の言葉も、そんな表情の彼には何の意味も成さないのがわかるから。
あの人は──自分が一人きりになることを、確信してる目をしている。
「私……本当はもっと知りたいんです。紫苑さんのことを、もっと知って、理解したい」