(11)
「うん。おばあさんが腰掛けていたピアノと同じものだね」
広大なホールの隅に、そのグランドピアノは静かに佇んでいた。
横の棚に並べられた展示とは異なり、このピアノの周囲には侵入防止用の紐はなく、誰にでも触れられるようになっている。
「もしかしてこのピアノ、自由に演奏ができるんですか?」
「そうなんです。ピアノをもっと身近に感じてもらおうという、プロジェクトの一環なんですよ」
だとすればあの写真は、ピアノの椅子にただ腰をかけていたのではなかったのかもしれない。
「紫苑さん。もしかしたら篠崎さんご夫妻は、このピアノを実際に演奏されていたんじゃないでしょうか……?」
「……それはもしや、今年亡くなられた篠崎様ご夫妻のことでしょうか?」
女性の声が、急に強い感情を帯びた。
話を進めると、先ほど青山別邸を案内してくれた男性と同様、この女性もまた篠崎夫妻を親しんでいたスタッフの一人だったのだとわかった。
「篠崎様ご夫妻は、こちらのホールにもよくいらっしゃいました」
しばらく話を交わしたのち、女性は懐古と憂いが滲むと息を漏らした。
「このピアノが一般開放されたからは、奥様の演奏もその一環となりました。奥様はもともと小学校の教諭をされていたそうで、ピアノもとてもお得意だったんですよ」
「そうだったんですね。ここでもお二人は、素敵なひとときを過ごしていたんですね」
ピアノの鍵盤を、そっと押し込む。微かに重さを感じる鍵からはポーンと透き通るような音が奏でられ、紬の胸を真っ直ぐに打った。在りし日の二人の時間に胸を傾けながら。
「もしかしたら紬さん、ピアノの演奏経験が?」
「え?」
唐突に向けられた質問に、思わず目を剥いてしまう。
「ど、どうしてわかったんですか? 私、ピアノのことなんて一度も」
「当てずっぽうだよ。鍵盤に置かれた指の動きを見て、何となくね」
そんな微妙な動きで見抜かれるものなのか。相変わらず紫苑は観察眼がすごい。
「それでしたら是非、お客さまの何か演奏されていってください」
「え、え、でも、そんな大した腕はありませんし、第一何を演奏したらいいのか……っ」
「篠崎夫人は、いつも何か決まった曲を?」
「ええ。この時期はいつも、ショパンの夜想曲第二番をお召しに」
ノクターン。
写真の中から流れていた夫妻の柔らかな微笑みに、とてもよく似合う曲だと思った。
「紬さん」
「……久しぶりの演奏ですから、多少のミスは目を瞑ってくださいね?」
期待に満ちあふれた紫苑さんの視線に、紬はあえなく敗北した。
緊張した面持ちで、そっとピアノの席に着く。いくつかの鍵盤を確かめるように触れていったあと、紬は小さく息を吸った。
ショパンの夜想曲第二番。その曲は、耳に触れれば誰もが聴き覚えのあるであろう有名な作品だ。
穏やかな規律の中で繊細な音が刻まれ、暖かな空気に包み込まれていくような音階の調べ。それはまるで初夏に繰り出した花畑のような温かさが感じられる。それは今まさにその時季にあるからなのか、同じピアノを演奏していた婦人に精神が溶け込んでいるからなのか。
紬の奏でるピアノの調べが、館内に特に強く、時に弱く響いていった。少し重みのある鍵盤の感触からもたらされる感覚に、紬はいつの間にか瞼を閉ざす。
そのとき瞼の裏の透けて見えたのは、少し距離のある向かい席に腰を下ろしている、老紳士の姿だった。
「……っ、あ」
気づけばホール内に温かな拍手が溢れていた。
いつの間にか集まった客の視線は、ピアノの演奏を追えた紬へと注がれている。
かあっと頬に熱が上る。この感覚は昔と変わらない。曲を演奏していると次第に世界に入り込みすぎて、一瞬夢か現かの区別がつかなくなってしまう。
そしてそっと紬が視線をやった、少し距離のある向かい席。そこには紫苑が、他の客と同様に拍手を紬へ贈っていた。
篠崎夫妻も、きっとこんなひとときをこの空間で過ごしていたに違いない。
そんな確信めいた思いを宿しながら、紬は静かに頭を下げた。
「素晴らしい演奏だったよ。紬さん」
最後まで拍手の手を止めなかった紫苑の元へ駆け寄る。
「来る人みんなが足を止めていたよ。弾いてもらえて良かったな」
「そんな、褒めすぎですよ」
「いいえ。本当に素晴らしい演奏でした! 思わず、篠崎様ご夫妻を思い出して、私、心がじんと熱くなりました……!」