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(5)

 目を瞬かせながら問いかけると、黒着物の麗人は微笑みを浮かべ、白着物の少年は不機嫌さを濃くした。


「すごいな。一目でこれの正体を見破ったのは、この地に来て君が初めてだ」

「お、恐れ入りいます」

「褒めてねーよ、このドジ女」

「いや、俺は褒めてるよ。ハル、お前もこっちにおいで。生どら焼きもあるから」

「……いつでも食べ物に釣られると思うなよ」


 しっかり食べ物に釣られたらしい少年は、いそいそと麗人の隣に移動する。そのちょこちょこ歩く仕草を眺めていると、紬ははっとあることを思いだした。


 それは、この小樽の街まで来ることになった理由の出来事。


「あ、あ、あの! もしかしたらそこのハル……くん? 札幌駅からこちらまでJRに乗ってきませんでしたか?」

「……何でそんなこと知ってんだよ」

「それはえーっと……あっ、よかった。濡れてない」


 慌てふためきつつショルダーバッグから出したものは、ハルが落とした小さな木箱だ。

 幸い、落とさないようにバッグの底に配置しておいたので、運河の水の餌食にはならなかったらしい。


「っ、あ……!」

「あなたが、札幌駅で落としたのを見かけたんです」


「どうぞ」とテーブルを挟んで差し出した木箱を、ハルは瞬時に懐へしまった。

 そのスピードの速さに、紬は一瞬呆気に取られるが、すぐに思い直した。もしかしたら、隣の彼の目には触れさせたくないものだったのかもしれない。 


「ダメ元でJRに飛び乗った甲斐がありました。こうしてあなたに無事返すことがでましたから」

「……そりゃ、どーも」

「どーも、じゃないよね。ハル?」


 ゆったりと窘める声が、静かに響いた。


「なんだよっ。そもそもオレに使いを頼んだのはお前じゃねーかっ」

「それとこれとは関係ない。何を落としたのかは知らないが、少なくともこの人は親切心でここまで来てくれたんだ。こんなこと、普通なら考えられないよ。もっと何か言うべきことがあるんじゃないの?」


 隣に座る麗人が笑顔のまま言い募ると、ハルは渋々深く頭を差上げた。


「どうも、ありがとうございマシタ……」

「い、いいえいいえ、お礼なんてそんな! 私のほうこそ、多大なるご迷惑を現在進行形でお掛けしていますから……!」

「だな。そりゃそうだな。わっはっは」

「ハル」


 再度厳しい口調で名を呼ばれたハルは、すっかりだんまりを決め込んだらしい。

 乱雑に茶菓子のどら焼きを頬張る少年の気配だけが残り、ふいに訪れた何とも言えない静寂に気づいた。

 ああ、どうしよう。何か話題の種はないか。何か何か──。


「こ、この屋敷は、とてもいい香りがしますね。あんまり素敵な香りで、思わずうっとりしてしまいました」

「気に入ってもらえたなら良かった。今の若い人には、お香の香りはあまり慣れないものだからね」


 そういう麗人とて、世間一般ではまだまだ若い人に括られる年だろうと思う。

 無理やり引っ張り出してきた話題だったが、麗人の彼は表情を和ませた。


「確かに触れる機会が多いわけではありませんが、とても落ち着く香りだと思います。私は、大好きです」

「そう言ってもらえると嬉しいな。今焚いているお香は、沈香(じんこう)とラベンダーやローズの香りを織り交ぜたものなんだ」

「そうなんですね。あの、沈香、というのは……?」

「香る木──香木(こうぼく)と呼ばれるものの代表格だよ。この沈香には、鎮静の作用があるといわれているんだ。どうやら一人旅らしい君が、一時でも穏やかに休めるようにと思ってね」


 それほどまでに追い詰められた形相を晒していたということか。それでも向けられた気遣いが、紬は素直に嬉しかった。

 声質で男性だとわかっているのだが、その美しく慎ましやかな表情はやはり女性のようにも思える。こういう人を中性的というのかもしれない。

 ぼうっと目の前の美貌に目を奪われた後、はっと我に返った。助けてもらっておきながら、自己紹介もまともにしていなかった。


「あの、自己紹介が遅れてすみません。私、千草野紬といいます」

「ご丁寧に。橘紫苑(たちばなしおん)です。十二年前にこの小樽の街に来て以来、ずっとここに住んでいるんだ」


 たちばな、しおん。名前まで神々しい、と紬は変に感心する。


「ここは俺の自宅だよ。若いお嬢さんを連れ込むのは無礼だと思ったけれど、どうにも手を貸さずには居られなくてね」


 さらに紫苑は、紛失したキャリーバッグについても然るべき場所に連絡を入れたことを告げた。見つかり次第連絡が入る手はずになっているらしい。

 相変わらずの不運に見舞われた自分だったが、この人との出会いは幸福だ。その温かさを噛みしめるようにして、紬はそっと佇まいを正した。


「本当に、ありがとうございます。お陰さまで土地勘のない街で、風邪を患わずにすみました」


 紬は床に手をつき、深く頭を下げた。


「そんな大したことはしていないよ。顔を上げて」

「そんなことありません。橘さんは私の恩人です。これから寝泊まりする場所を見つけなければならないのに、そのうえ病院まで探さなければならないところでした」

「……寝泊まりする場所?」


 深く頭を下げた向こう側で、小さく復唱する声がした。しまった。余計なことを。


「えっと、あ、そうだ! 失礼ですが、橘さんの連絡先を教えて頂いても良いですか? 後日改めて、お礼に伺いたいと思いますので……!」

「それは、わざわざすみません」


 気遣いは不要ですが、と付け加え、紫苑は着物を合わせた胸元からシンプルな巾着を取りだした。

 細い紐が解かれると、中から一枚の名刺が差し出される。

 何種かの繊維が折り重なって作られた和紙風味の名刺からは、ほのかに清涼な香りがした。


 ──小樽たちばな香堂 香司 橘紫苑──


「小樽たちばな香堂、こう……?」

「『香司(こうし)』と読むんだ。香の調合や製作をする職人の呼び名だよ」


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