(10)
それから案内を受けたのは、全て目を見張るような空間ばかりだった。
旧青山別邸の客用大玄関をはじめ、黄金に包まれたかのような空間で来客を出迎える八仙人の間。
囲炉裏と金色の屏風がクラシカルな空気を醸す百畳敷の大座敷。
廊下を通る脇には滝の流れる池が庭に広がり、見るものの心にも潤いを与えてくれる。
「すごいですね。まるで、明治の世にタイムスリップしたみたいです」
ぽつりと零した紬の言葉に、隣を歩む紫苑も静かに頷いた。
「そうだね。まるで現代の空気すら忘れさせるように、ここには古き良き時代の香りが残ってる」
「古き良き時代の香り……」
確かに、建築や装飾品のひとつひとつに込められた人の思いが、まるで辺りに染み出るように感じられる。
「もしかしたらご夫妻は、この香りも含めた思い出の全てを、牡丹の香りとして記憶に留めていたのかもしれないね」
「あ、なるほど……!」
この場所に強い思い入れを持っていた夫妻ならば、牡丹の香りにここでの思い出を込めていても不思議ではない。
てっきり今日の目的は、ここに咲く牡丹の品種を調べるものかと思っていたが、その考え方は盲点だった。
「さすが紫苑さんですね。記憶の香りという考え方は、全く思い至りませんでした」
「そういう細やかな香りを作るのが、香司の生業だからね」
生業。その言葉に紬ははっと小さく息をのんだ。
輪廻香司。以前耳にしたままになっている、淡路の橘家で代々継がれる生業。
それが一体どういう職なのか。紫苑はそれを継いでいるのか。そもそも、どうしてこの小樽の街にやってきたのか。
聞きたいことは山ほどある。けれど、やはりどうしても勇気が出せない──。
「っ、きゃ」
ぐるぐる思考を回しているうち、紬は上っていた階段の一段に足を踏み外した。
たも材の階段。ガイドの男性からの細やかな説明の後、上るときは足元にお気をつけて、と声がけされたのに。
心の中で呟きながら、傾いていく景色に固く目を閉じる。
「紬さん!」
名を呼ばれた瞬間、熱い何かに顔を勢いよく押しつけられた。
体は傾いたままだが、落ちたわけではない。そっと瞼を開いた紬の視界には、先ほどまでも目にしていた薄灰色の着物が広がっていた。ああ、まただ。
「まったく……本当に、君は危なっかしいな」
先を進んでいた紫苑が、すんでの所で腕の中に閉じ込めてくれたらしい。慌てて階段の手すりに手をつけ、紬は自らの体を起こした。
「す、す、すみません! こんな風にしょっちゅう転んだりするのを助けるのも、紫苑さんだっていい加減、嫌になってきますよね……!」
「紬さん」
「本当にすみません! 本当、自分でもこの迷惑体質はどうにかしたいと思ってるんですが……っ」
「嫌じゃない。好きだよ」
「え」
「だから──……」
耳元に吹き込まれた言葉は、見る間に紬の全身にまで行き届いた。
「お怪我はありませんでしたか、お客さま!」
「ええ、大丈夫です。少し階段を踏み外したようで」
階段上から慌てた顔を見せたガイドの男性に、紫苑がいつもの笑顔で応対するのが見えた。
「足は痛めてない? 立てる? 紬さん」
「っ……大丈夫です。お騒がせしました」
急浮上してきた意識に、ひとまず二人に頭を下げる。
その後、二階層の解説を耳に入れてはいたが、中身はほとんど頭に入ってこなかった。代わりに埋め尽くしていたのは、まるで独り言のような紫苑の言葉。
──だからもう、君を解放しないといけない。
今の言葉は、一体どういう意味なのだろう。
何度も問いかけるように紫苑の横顔を見つめていたが、結局紫苑はそれに応えることはなかった。
***
旧青山別邸をあとにした紬たちは、敷地奥に佇む小樽貴賓館にも足を踏み入れた。
「わあ……」
館内に入るとすぐに広がるホール。
その天井には、金色をベースにされた日本画が、所狭しと敷き詰められている。それはまるで無数の絵画にも一枚の大きな絵画にも思え、しばらく熱いため息とともに見入ってしまった。
「この天井画は、いつ見ても本当に圧倒されるね」
「はい。まるで、小樽の繁栄の日々が空から降ってくるみたいです……」
「まあ、素敵なご感想をありがとうございます」
スタッフの女性が、柔らかな笑顔とともに出迎えてくれる。
「このホールの天井画は、北海道所縁の日本画家によるものなんですよ。ここに長年勤めるわたくしも、いまだに見上げるたびに惚れ惚れしています」
「そうなんですね。こんなに美しい建物を支え守っていらっしゃるなんて、本当に尊敬します」
「まあまあ。そんな、もったいないお言葉です」
深々と頭を下げる女性に紬も頭を下げる。と同時にあることに気がついた。
夫妻の自宅アルバムに収められていた、グランドピアノと写る写真。あの背景は確か、このホールと同じものじゃなかっただろうか。
「あ、紫苑さん。あのピアノって……!」