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 それから案内を受けたのは、全て目を見張るような空間ばかりだった。


 旧青山別邸の客用大玄関をはじめ、黄金に包まれたかのような空間で来客を出迎える八仙人の間。

 囲炉裏と金色の屏風がクラシカルな空気を醸す百畳敷の大座敷。

 廊下を通る脇には滝の流れる池が庭に広がり、見るものの心にも潤いを与えてくれる。


「すごいですね。まるで、明治の世にタイムスリップしたみたいです」


 ぽつりと零した紬の言葉に、隣を歩む紫苑も静かに頷いた。


「そうだね。まるで現代の空気すら忘れさせるように、ここには古き良き時代の香りが残ってる」

「古き良き時代の香り……」


 確かに、建築や装飾品のひとつひとつに込められた人の思いが、まるで辺りに染み出るように感じられる。


「もしかしたらご夫妻は、この香りも含めた思い出の全てを、牡丹の香りとして記憶に留めていたのかもしれないね」

「あ、なるほど……!」


 この場所に強い思い入れを持っていた夫妻ならば、牡丹の香りにここでの思い出を込めていても不思議ではない。

 てっきり今日の目的は、ここに咲く牡丹の品種を調べるものかと思っていたが、その考え方は盲点だった。


「さすが紫苑さんですね。記憶の香りという考え方は、全く思い至りませんでした」

「そういう細やかな香りを作るのが、香司の生業だからね」


 生業。その言葉に紬ははっと小さく息をのんだ。


 輪廻香司。以前耳にしたままになっている、淡路の橘家で代々継がれる生業。

 それが一体どういう職なのか。紫苑はそれを継いでいるのか。そもそも、どうしてこの小樽の街にやってきたのか。

 聞きたいことは山ほどある。けれど、やはりどうしても勇気が出せない──。


「っ、きゃ」


 ぐるぐる思考を回しているうち、紬は上っていた階段の一段に足を踏み外した。

 たも材の階段。ガイドの男性からの細やかな説明の後、上るときは足元にお気をつけて、と声がけされたのに。

 心の中で呟きながら、傾いていく景色に固く目を閉じる。


「紬さん!」


 名を呼ばれた瞬間、熱い何かに顔を勢いよく押しつけられた。

 体は傾いたままだが、落ちたわけではない。そっと瞼を開いた紬の視界には、先ほどまでも目にしていた薄灰色の着物が広がっていた。ああ、まただ。


「まったく……本当に、君は危なっかしいな」


 先を進んでいた紫苑が、すんでの所で腕の中に閉じ込めてくれたらしい。慌てて階段の手すりに手をつけ、紬は自らの体を起こした。


「す、す、すみません! こんな風にしょっちゅう転んだりするのを助けるのも、紫苑さんだっていい加減、嫌になってきますよね……!」

「紬さん」

「本当にすみません! 本当、自分でもこの迷惑体質はどうにかしたいと思ってるんですが……っ」

「嫌じゃない。好きだよ」

「え」

「だから──……」


 耳元に吹き込まれた言葉は、見る間に紬の全身にまで行き届いた。


「お怪我はありませんでしたか、お客さま!」

「ええ、大丈夫です。少し階段を踏み外したようで」


 階段上から慌てた顔を見せたガイドの男性に、紫苑がいつもの笑顔で応対するのが見えた。


「足は痛めてない? 立てる? 紬さん」

「っ……大丈夫です。お騒がせしました」


 急浮上してきた意識に、ひとまず二人に頭を下げる。

 その後、二階層の解説を耳に入れてはいたが、中身はほとんど頭に入ってこなかった。代わりに埋め尽くしていたのは、まるで独り言のような紫苑の言葉。


 ──だからもう、君を解放しないといけない。


 今の言葉は、一体どういう意味なのだろう。

 何度も問いかけるように紫苑の横顔を見つめていたが、結局紫苑はそれに応えることはなかった。


   ***


 旧青山別邸をあとにした紬たちは、敷地奥に佇む小樽貴賓館にも足を踏み入れた。


「わあ……」


 館内に入るとすぐに広がるホール。

 その天井には、金色をベースにされた日本画が、所狭しと敷き詰められている。それはまるで無数の絵画にも一枚の大きな絵画にも思え、しばらく熱いため息とともに見入ってしまった。


「この天井画は、いつ見ても本当に圧倒されるね」

「はい。まるで、小樽の繁栄の日々が空から降ってくるみたいです……」

「まあ、素敵なご感想をありがとうございます」


 スタッフの女性が、柔らかな笑顔とともに出迎えてくれる。


「このホールの天井画は、北海道所縁の日本画家によるものなんですよ。ここに長年勤めるわたくしも、いまだに見上げるたびに惚れ惚れしています」

「そうなんですね。こんなに美しい建物を支え守っていらっしゃるなんて、本当に尊敬します」

「まあまあ。そんな、もったいないお言葉です」


 深々と頭を下げる女性に紬も頭を下げる。と同時にあることに気がついた。

 夫妻の自宅アルバムに収められていた、グランドピアノと写る写真。あの背景は確か、このホールと同じものじゃなかっただろうか。


「あ、紫苑さん。あのピアノって……!」


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