(8)
明くる日。
紫苑と紬は、揃って老夫婦の思い出の地へと訪れていた。
「すごい……」
思わず口から漏れた感想に、隣の紫苑も静かに頷いたのがわかった。
歴史が深く刻まれた敷地の外壁を眺めながら入り口へ向かうと、鉄柵が用いられた正面玄関が姿を現す。松などの木々が辺りを青々しく覆う背景に、門横にはこの施設名が看板に刻まれていた。
小樽貴賓館──明治から大正にかけて小樽に大きな繁栄をもたらしたニシン漁。
その漁場を複数経営した旧青山家が、その贅を尽くした豪邸「旧青山別邸」を含む祝津有数の施設である。
「私、大丈夫でしょうか。こんな気品の溢れる場所に足を踏み入れるなんて……」
「そんなに緊張することないよ。ほら、今日の日のために、素敵な牡丹柄の着物を選んできたんだから」
「そう、ですよね」
紫苑の言葉に、自然と紬の視線が下がる。
今日の紬は、「牡丹・芍薬まつり」にちなんで牡丹柄の着物をまとっていた。
ベースが若草色の着物は、大胆にあしらわれた牡丹柄がとても華やかで美しい。帯は少しフォーマルな場ということで名古屋帯。帯にも細かな柄が施されたものを選んだため、柄出しに向いたお太鼓結びだ。
着物生活に慣れてきたせいか、最近ではこういった華やかな柄の纏いに気後れすることも少なくなった。
目の前に広がる美しい空間には確かに恐縮してしまう部分もあるが、ここに来た理由を忘れてはいけない。
ここにもしかしたら、生前おばあさんがおじいさんに供えたいと願った「牡丹の香り」の手がかりがあるかもしれないのだ。
「落ち着いた?」
「はい。ありがとうございます、紫苑さん」
ふわりと微笑む彼に、紬も頬を緩める。
「それじゃあ、さっそく行こうか。紬さん」
「……」
「紬さん?」
「……ええっと。この手は何でしょうか。紫苑さん」
せっかくほぐれた表情を引きつらせながら問う紬に、紫苑はにっこりと笑顔を返した。
「写真の中の篠崎ご夫妻は、こうして仲睦まじく手を繋がれていたでしょう?」
それは知っている。アルバムで撮影された写真の中には、確かに二人手を繋いで写った写真もいくつか収められていた。
「だから、こうして実際に手を繋いで館内を歩けば、より一層お二人の心境に近づけるかと思ったんだけど」
「た、確かに……いやいや。でも、さすがに手を繋いで歩くなんてそんなっ」
「嫌なのかな」
「恥ずかしいんです!」
どうして恥ずかしくないのだ、と逆に問いたい。
人前で手を繋いで歩く男女を紬とて目にしたことはある。その度胸に過らせたのは、想い合う二人への羨望と、自分は恐らく経験することはないだろうという諦め。
そして最後に、自身に置き換えたときにこみ上げてくる、身を燃やすような恥ずかしさだった。
「そっか。よかった」
「そうですよっ。それに紫苑さんみたいな見目美しい男性と私が手を繋ぐなんて、周りの人が見たら身分違いもいいところで」
「嫌じゃないんだね」
「……え」
念押しするような言葉のあと、紬の右手は大きく温かな感触に包まれた。そのままごく自然に歩みを進める紫苑に倣い、紬の歩みも進んでいく。
ぽかんと固まった紬の視界の端で、紫苑が楽しげに視線を寄越したのがわかった。
直後、紬の顔がボッと沸騰する。
「しししっ、紫苑さん……!?」
「しー。敷地内では不用意な大声は控えましょうね。紬さん」
「紫苑さん……からかってますね?」
「はは。バレたか」
それでもいたずらっぽい笑みを漏らす紫苑を目にすると、許そうという気になってしまうから不思議だ。
これも世の中の麗人が持つ力なのだろうか。彼の周りが妙にきらきらして見えるのも、繋がれてしまった手に心臓がどきどきと反応を繰り返しているのも?
「でも、さっき行ったことは半分本気。この場所でご夫妻が過ごした時間を、なるべく忠実に追っていきたいと思うんだ。そうすることできっと、ご夫妻が求めていた牡丹の香りに近づくことができると思う」
紫苑も、紬と同じ事を考えていた。仕事を引き合いに出されてしまえば、紬の答えはたったひとつしかない。
「……わかりました。ただし、ひとつだけ条件があります」
「なんなりと」
「もしも私が他の女性に取り囲まれたら、全力で守ってくださいね」
真剣な表情で訴えた紬に、今度は紫苑が呆気に取られる番だった。
「さっきも言いましたけれどね。紫苑さんみたいな眩い美貌を持つ男性と平凡な私が連れ立って歩くなんて、他の人……特に女性からしてみたら、謎以外の何物でもないわけですよ。少し目を離した隙に、校舎裏に呼び出されて紫苑くんから手を引きなさいよ、なんて詰め寄られること請け合いです。なので、そうなったときは責任を持って守ってください。宜しいでしょうかっ?」