(7)
「国登録有形文化財ですか。きっと素晴らしい建物なんですね」
「もちろん建物だけじゃなく、広がる庭園もとても美しいよ。季節の移ろいを移す花々が植えられて、特に牡丹と芍薬が咲き誇る五月から六月は、『牡丹・芍薬まつり』が催されている。だからこの時期は、より一層人たちで賑わっているんだ」
牡丹と芍薬。二つの似て非なる花が揃う祭。
アヅマに憑いた猫が牡丹の香りを求めたのは、もしかしたらこの祭に夫妻が足繁く通っていたことと関係があるのかもしれない。
考えながら、紬はちらりと居間の入り口付近へ視線を向ける。しかし、そこにはハルの姿はあれどアヅマの姿は見えなかった。あれ、さっきまでそこにいたのに。
紬はハルに意味を含んだ視線を必死に送る。すると気づいたハルは面倒くさそうに首を横に振った。知らない、勝手にどこかに行った、といったところか。さすが気ままな猫又だ。
「『牡丹・芍薬まつり』か。まだ時季もいいし、私たちも一度行ってみてもいいかもしれないね、紬さん」
「え、あ、はい。そうですね」
「ええ、ええ、そうねえ。私は写真でしか見たことがないけれど、随分と素敵なところよ。確かここにもね」
話ながら、香苗は居間の隅にあった簡易アルバムを開いてくれた。
「わあ、すごい!」
紬が思わず声を上げるほど、写真の中には鮮やかな花の写真で埋め尽くされていた。ピンク、薄紫、白……まるで水彩絵の具をあちこちにふわりと滲ませたような、優しい色合いの花があちこちに咲き誇っている。
この花は牡丹だろうか。芍薬だろうか──。
「確か祭りの期間は和装で行くと、ニシン御殿の入館料がかからないらしいのよ。貴方たちのような和装カップルにはぴったりのデートスポットだわ」
「デート……え、ええっ?」
「そうですね。さっそく帰ったら祭のことを調べよう、紬さん」
「違いますっ、私たちは決してそんな関係では……!」
「あら、そうなの?」
何処か愉しげに相づちを打つ香苗さんに、ぶんぶんと縦に首を振る。例によって隣の紫苑は涼しい顔だ。自分はこんなに頬が熱いというのに、なんだこの差は。
少し恨めしげに視線を送りつつ、紬はアルバムのページを開いていく。自宅での何気ない写真も数枚あるが、やはり大半は小樽貴賓館での思い出を切り取った写真ばかりだった。
美しい庭園や、天井いっぱいに埋めらた画廊を思わせる日本画の数々。それを見上げる老紳士や、傍らに置かれたグランドピアノに腰掛ける老婦人の笑顔もまた、見ているだけで夫婦の幸せなひとときが伝わってくる。
自宅で撮ったものは、どうやら試し撮りに近いものらしい。
居間で撮られたそれには当然のことながら仏壇の姿はなく、それに気づいた紬は秘かに瞼を伏せた。
***
「チビの魂が牡丹の香りに固執するのは、それが亡くなったおばあさんの願いだったからです」
帰り道。いつの間にか姿を現したアヅマはおもむろに語り出した。
「今年の明けにおじいさんが亡くなったあと、おばあさんは一人であの『牡丹・芍薬まつり』に行くつもりだったようです。しかし心労のせいかおばあさんもまた体を悪くされた。せめておじいさんが好んでいた牡丹の香りを仏壇に届けたいと、毎日のようにチビに語って聞かせていたと」
「そのおばあさんの願いがやがてチビの願いになり、亡くなったことで心残りに。最終的には、アヅマさんの体に憑くことでそれを遂げようと考えた、ということでしょうか」
なにやら複雑な関係だが、目指すべきところは次第に見えてきた。
「なるほど。つまりチビの魂の心残りは、おじいさんの仏壇に牡丹の香りを供えること。そうすればチビの魂も成仏でき、ひいてはアヅマさんの身も解放されるというわけですね」
「その通りです。……とはいえ、一応お耳に入れるべき事が一つ。あのおばあさんは、すでに何度か牡丹の香りの香料をいくつか取り寄せていたのですよ」
「え?」
目を瞬かせる紬に、アヅマは一歩身を引くとぴょんとその場で高く跳ね上がる。
宙で何回転かしてみせると、その輪の中央から突如として両手を広げるほどの木箱が姿を見せた。重力に任せて地面に落下する前に、紬は慌ててその木箱を受け止める。
「こ、この箱は?」
尋ねはしたものの、直後に漂ってきたほのかな香りに中身を察した。紬は牡丹の香りを知らないが、木箱から漂うのは明らかに何かの花の香りだ。
「お祖父さんが亡くなったあと、おばあさんが集めた牡丹の香りの香料です。しかし残念ながら、これらは全てお祖母さんの眼鏡に適わなかったもの。参考までに、貴方がたにお預けします」
「いいんですか。これもおばあさんの形見の品でしょう」
紫苑の問いに、アヅマはふっと笑みを漏らした。
「おばあさんが……ひいてはチビが真に求めていた香りを導いてくださると、貴方がたを信用しておりますから」
人当たり良く微笑んだアヅマは、しかしその二股に分かれた尾をなんとも妖しげに揺らしていた。