表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
45/63

(6)

「あ、あ、あの」


 亡くなった夫妻の娘さんか。ここに暮らしていないとのことだったが、もしかしたら片付けなどの用事で訪れていたのかもしれない。

 慌てて声をかけようとした紬の肩に、そっと手が乗った。紫苑だ。


「いえ、こちらこそ突然の訪問を失礼します。私たち、お亡くなりになった篠崎様ご夫妻の仏壇に少しでもお焼香させていただきたいと、勝手ながらこちらに参った者でして」

「あら。貴方がたのような若い方々が、うちの両親とお知り合いで?」


 ハルとアヅマはともにあやかしであるため、女性の目には映っていない。

 女性の問いの答えの代わりに、紫苑はふわりと柔らかな笑みを浮かべた。


「申し遅れました。この街で香堂を営んでおります橘紫苑と、売り子の千草野紬です。実はお宅で飼われていた猫が縁で、ご夫妻のことも聞き及んでおりました。ご迷惑でなければ、線香だけでも立てさせて頂けないでしょうか」

「まあまあ、それはご丁寧に。娘の香苗かなえと申します。どうぞ、片付け途中で部屋が散らかっているのが申し訳ないですけれど」


 柔らかく微笑む紫苑の眼差しに、女性もすっかり警戒心を解いた様子だった。

 甲斐甲斐しく二人分のスリッパまで用意してもらい、紫苑と紬は屋内への侵入を許可される。

 ごく自然に中へと向かう紫苑に、紬は思わず耳元で囁いた。


「紫苑さん……お願いですから詐欺師の道にだけは進まないでくださいね」

「はは。面白いことをいうね紬さんは。さあ、お邪魔しようか」

「は、はは……」


 冗談ではない。割と本気だ。


 ちらりと足元を見下ろすと、犬猿の仲であるはずのハルとアヅマが揃って胡散臭い者を見る目をしていた。どうやらこの二人も紬と同じ心境らしい。


 嘘は言ってません。そう背中に書いてあるのがありありと見える。

 紫苑さん……恐ろしい人!


 引きつりそうになる表情を必死に隠しながら、紬もその後に続いた。広めの玄関の前にはすぐに幅広の階段があり、横に伸びる廊下を真っ直ぐ進んでいく。

 右手のふすまを引くと、朝陽がさんさんと注がれた居間が広がり、小さな縁側のようになっている窓辺近くには立派な仏壇が佇んでいた。

 中には少し気難しげな男性とほんわか優しそうな女性の写真が、それぞれ白髪を添えて写真立てに収められている。


「突然のご訪問をお許しください。失礼いたします」


 優美な仕草で畳に腰を落とすと、紫苑は深々と仏壇に対し一礼した。紬もそれに従う。生前に面識はなかった者の来訪ですが、どうかご焼香をお許しください、と。

 普段から香を生業にしているためか、紫苑の焼香姿はいつも以上に幽玄な魅力を放っていた。紫苑の魅力に免疫のない香苗は、紬の焼香が済んだあとも紫苑の方をぼうっと見つめている。無理もない、と紬は内心頷いた。


「ありがとうございました」

「あ、いえ。こちらこそわざわざおいでくださって。粗茶ですが宜しければどうぞ」

「お気遣いありがとうございます。有り難く頂きます」


 にこりと微笑む紫苑とともに、紬もちゃぶ台の方に移動する。グラスに入れられた緑茶には氷が浮かび、手をかけるとカランと涼やかな音を奏でた。

 整然とした、美しい家だと思った。居間の角に集められた猫用のおもちゃと餌の残り、餌をあげる皿だけが、夫人と共に亡くなったというチビの存在をひっそりと伝えている。


「香苗さんは、ご両親と現在は離れて生活されていたんですよね」

「そうなんです。東京に就職して、そのまま向こうで結婚しましてね。大した病気もなく暮らしていたものですから、こんなことになるなんて思ってもみなくて」


 眉を下げながら頷く香苗は、どこか申し訳なさそうに肩をすぼめている。

 離れている両親が急逝されたのだ。多かれ少なかれ心残りを感じるのは自然のことかもしれない。紬もいつも心配ばかりかけている両親を思い、胸がチクリと痛んだ。


「あの、先ほど牡丹の花に反応されてましたよね。お父上はそんなに牡丹がお好きだったんですか」


 空白の時間を埋めるために紬が慌てて口にした話題は、思いがけず今回の訪問にも直結する質問だった。


「ええ、そうなんですよ。二人ともあまり遠出を好む方ではなかったんですけどねえ。いつもこの時期は決まって、牡丹と芍薬を見に出掛けていたんですよ」

「牡丹と芍薬、ですか?」

「なるほど。祝津しゅくつのにしん御殿ですね。今は確かにどちらも見頃の季節でしょうね」

「そう、そう。あそこの『牡丹・芍薬まつり』が、両親は大好きでねえ。時間があればすぐに向かって、二人で時間を過ごしていたのよ」


 にしん御殿、というのは紬もどこかで聞いたことがある。話の腰を折らないように黙っていた紬だったが、紫苑がそっと視線を向けてきた。


「紬さんはまだ小樽に越したばかりだから知らないかもしれないね。小樽のさらに西端の祝津という地区に、小樽貴賓館という施設があってね。その中の建物のひとつ、旧青山別邸──通称にしん御殿は、国登録有形文化財に指定されているんだ」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ