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(5)

「そうかよ。ならいいけど」


 ぶっきらぼうながら、その中に心配する気遣いがうかがえる。

 当然だ。ハルは紬よりもずっとずっと長い時間、紫苑とともに過ごしてきたのだ。

 屋敷に繋がる扉へ再び引っ込んだハルを見送り、紬は何とも言えない心地で佇んでいた。


「ハルにも、妙な心配をかけてるみたいだな」


 気の利いた反応もできなかった紬に、紫苑はくすっと笑みを漏らす。


「さてと。今の話にもあったけれど、昨日のアヅマさんの依頼のために、明日はとりあえず亡くなったご夫婦の屋敷に行ってみようと思ってるんだ」

「あ……そ、うですか」

「とりあえず様子を見に行くだけだから。紬さんは明日一日、ゆっくり休んでいていいよ」

「え……」


 目を瞬かせる紬に、紫苑は微笑みを浮かべたままだ。

 ああ、まただ、と紬は思った。


 ここ最近の紫苑から滲む、小さな小さな違和感。それが敏感に紬の胸に宿り、じりじりと芯を焦がしていく。


「……いいえ。私も一緒に行きます」

「俺一人でも大丈夫だよ。本当に少し、様子を見に行くだけだから」

「私も、一緒に行きます!」


 室内で声を張ったため、しばらく紬の声が木霊になって耳に残った。

 木霊の残像も消える頃には、口元を真一文字にぎゅっと締めた紬と、目を剥いたままの紫苑が残る。


「足手まといになることも多々ありますけれど、そうならないように気をつけます。もし外で倒れたら、捨て置いて頂いて結構です!」

「あの、紬さん?」

「私だって、この香堂の一員ですから!」


 ひねくれた子どものようだ、と紬は思う。

 今までならば、紫苑にも何か考えがあるのだろうと思えたかもしれない。でも今は、食い下がらないではいられなかった。紫苑の言外に妙な意図を感じたから。


 底冷えするように冷たい──まるで、紫苑の本心とは違うような何かが。


「……了解しました。じゃあ、明日の午前に出発するけれど、いいかな」

「はい。承知しました。置いていかないでくださいね。置いて行かれたら泣きますからねっ」

「はは。大丈夫。置いてなんて行かないよ」


 紫苑の手のひらが、ぽんと頭を撫でる。ごめんね、と語られたようなその優しい手つきに、思わず目の奥が熱くなる。

 自分にもっと力があれば、紫苑は語ってくれるのだろうか。ずっと長らく抱え込んできたのであろう、紫苑自身の話を──。


「わあ、可愛いお香のお店」

「ねえねえ、ちょっと寄っていこうよー!」

「いらっしゃいませ。ごゆっくりご覧になってください」

「香りのお試しも、お気軽になさってくださいね」


 暖簾をくぐり訪れた客人の姿に、二人は一瞬で店主と売り子の顔になる。

 そんな息の合った連携が、何故か今は紬の胸を酷く痛ませた。


   ***


 翌日。

 無事置いて行かれることなく、香堂の三人衆は小樽市の花園と呼ばれる地域を訪れていた。


 花園エリアは、JR小樽駅前の国道を南小樽駅方面へ向かうと、すぐ左手に広がる閑静な住宅街だ。小樽運河よりには花園銀座商店街があり、中には個人商店が賑やかに建ち並ぶ。

 猫又のアヅマに案内されたのは、そんな花園エリア内にある一軒の建物の前だった。


篠崎しのざき……ご夫婦は篠崎という苗字なんですね」


 表札を確認した後に見上げた一軒家は、石造りを思わせなかなかの年期を感じさせた。どっしりと地に根ざした荘厳さを漂わせる一方で、家主を失った哀憐の影をひっそり落としている。


「ここが、件の老夫婦が暮らしていた家です。一人娘もとうに家を出ていて、今はもう誰も暮らしていませんが」

「そうなんですか。それじゃあ、この家はどうなるんでしょう」

「そんなことは私の知るところではありませんな。ただわたくしは、以前所望した香を作って頂ければそれでいいのですが?」


 ため息交じりに答えるアヅマに、さっそくハルの血管が浮き上がる。

 ぐるる、と犬歯を露わにしている子犬型のハルを、紬が慌てて抱き上げた。


「ええ、それは承知していますよ。そのために今日はわざわざご案内いただいたのですから」

「それならばこんなところで油を打つことなく、さっさと香の製作に取り組む方が賢明では」

「牡丹の香りの香だけならば、明日にでも作れましょう。しかし、そんな単調な作業で作られたもので、あなたに憑いたという猫の魂が納得するとは到底思えません」


 紫苑の穏やかながらも的確な指摘に、アヅマの瞳の虹彩が微かに細まった。


「依頼のあった日は詳細を聞けないままでしたが、お聞かせ願いませんか。あなたに憑いた猫の魂が、何故『牡丹の香り』を欲しているのかを」

「……牡丹の香り?」


 突然その場に落ちてきた声に、そこにいる全員が振り返った。

 問題の民家の中から顔を見せていたのは、五十代とおぼしき女性だった。柔らかな癖のある髪を後ろにまとめ、少し疲れを滲ませていたがその瞳はくりっとどこか愛嬌があった。


「あ、ごめんなさいね。うちの亡くなった父が、生前好きだった花だったものだから」


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