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(2)

「ハル。この方は大切な客人だよ。謹んで」


 すかさず諭された人型のハルが、憮然とした様子でお茶を差し出したあとに部屋の片隅に腰を据える。どうやらハルにとって、この猫又は招かれざる客らしかった。

 睨みをきかせてなおも敵意を飛ばすハルに対し、客人の猫又はふっと余裕をはらんだ笑みを浮かべる。


「そう目くじらを立てるな、スネコスリの坊。わたくしはただ真っ当な依頼をしにきただけだ。用が済めばすぐにお暇する」

「そのお上品なもの言いが信用ならないって言ってんだ。すぐに人を化かす一方でゴロゴロ喉を鳴らしやがって。お前らには誇りはねえのか誇りは」

「相変わらず考えが短絡的だな。これだから他人に付き従うしか能のない犬は」

「んだとお? じゃあ今まさに他人を頼ろうとしてるお前は何なんだよ猫野郎」

「あ、あの、お二人とも落ち着いて……!」


 二人の間に走るバチバチと激しい閃光に、紬は辛抱溜まらずその間に入った。

 こんなに至近距離で激しい喧嘩を眺めることは、紬にとっては精神的にも非常に辛いのだ。


「うちの従業員が失礼致しました。ときにお客さま……ああ失礼。お名前を伺っても?」

「アヅマだ。それと、様付けは結構」

「それでは、アヅマさん。今回牡丹の香りをご所望されたのには、何か理由がおありなんですね」


 やや確信めいていた言葉に、紬は一瞬隣の紫苑に視線を向けた。


「是非、その理由をお聞かせ願えますか。東さんがお求めの香りに、少しでも近づけるためにも」

「さすが、鋭い御方だ。あやかしたちを相手に商売を続けているだけのことはある」


 何となく含みを持たせた言葉だったが、紫苑の端正な表情は崩れることはない。

 それを見届けたあと、アヅマはにっと口角を上げた。


「その香りで、わたくしを助けて頂きたいのです。さもなければわたくしはまもなく、怨霊に呑み込まれてしまうでしょう」


   ***


 猫又アヅマの話は、おおよそ次の通りだった。


 アヅマは小樽の街周辺を気ままに移ろい過ごす猫又で、年齢は数えで百年にもなる。

 そんなある日、いつも通り道にしていたある民家の老夫婦が亡くなったのだと知った。同時に亡くなったのではなく、夫に先立たれたあと、妻も後を追うようにして亡くなったのだと。


 この歳になると、他の生物の生き死には珍しいことではない。

 そうやり過ごすことができなかったのは、その家に一匹の猫がいたからだ。

 その猫は名をチビといった。何の変哲もない、ただの猫だ。


「その猫のチビも、妻の方が亡くなるのと同時に死にました。これもさだめでしょうね」


 そして数日後、件の民家の前を通り過ぎようとしたとき、何かがアヅマの中に入り込んできた。チビの魂の欠けらだと、アヅマはすぐに察した。


「通常の魂は死んですぐに天へ昇っていきますが、あの猫の魂はそれを酷く嫌がっておりました」


 どうか今しばらく、あなたのカラダに留まらせてください。

 わたしには、どうしてもどうしても、この世に残した未練があるのです──。


   ***


 猫又アヅマとの謁見を終え、紬は再び香堂に立つ通常業務へと戻っていた。

 臨時閉店していた暖簾をあげ、六月の初夏の日差しに思わず目を細める。

 余り眩しい光は目に毒だ。そそくさと店内へ戻っていくと、カウンター内に紫苑が佇んでいることに気づいた。


「紫苑さんっ。必要なときはお声がけしますから、奥で休んでもらってもいいんですよ?」

「ありがとう。でも心配いらないよ。これでも小樽たちばな香堂の店主だからね」


 いつもの調子で笑う紫苑だったが、やはりその声は微かに疲労がうかがえる。

 今朝、いつも早起きの紫苑には珍しく、朝食の時間になっても顔を出さなかった。

 遅くまで香の製作に取り組んでいたのだろうか。エプロンを椅子にかけ紫苑の部屋をそうっと尋ねた紬の目に飛び込んできたものは、ふすまに手をかけ苦しげに息を切らした紫苑の姿だった。


 その後、紬の記憶はあまりない。

 気づけば紫苑を自室の布団に押し込み、水桶を用意し、ハルにいわれた通りの材料で粥を器によそっていた。

 自分は相次ぐ不幸に見舞われ昏倒することも日常茶飯事だ。しかしその分、自分以外の人間が昏倒する姿に、紬はからっきし免疫がないのだ。


「紬さん」

「ひゃっ」


 気づけば紫苑の端正な顔が、すぐ目の前に迫っていた。

 反射的に後退した紬を確認し、紫苑はふっと口元に笑みを浮かべる。

「心配をかけてごめんね。でも大丈夫。こうやって体調が傾くのは、そう珍しいことでもないんだ」


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