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(4)

「感じやすい」だけならばまだよかった、というのは紬の心の中の口癖だ。


 実は紬には、近しい知人らにも認められているもう一つの体質があった。

 それがいわゆる──「不幸体質」だ。


 はじめそう言うと、大抵の人は優しく否定してくれる。そんなことはない。今のはたまたま運がなかっただけだよと。

 しかし、その後もしばらく紬の側にいれば、自ずと肯定せざるを得なくなる。

 時に集合写真で一人だけブレて写る。時に何もない場所でヒールがもげる。時に紬の立つ箇所にのみ上階から溜まった雨水が注がれる。

 もっとあからさまなのは、大学を卒業してからの就職先がものの見事にふいになっていることだ。内定直後の倒産しかり、社長の夜逃げしかり、親会社の経営方針の転換しかり。


 ようやく居着いて一年が経過した先の会社も、今回のでっち上げの疑惑であっさり辞めさせられてしまった。

 そんな自分が石畳の階段を、しかもキャリーバッグを抱えて駆け下りるなんて危険行為をするべきではなかったのだ。

 それは、今さら悔やんでも仕方がないのだが──。


「こういう展開は、二十六年生きてきた中でも初めてかもしれない……」


 ぽつりと零した呟きは、空しく室内に滲んで消える。

 今紬は、とある屋敷内の客間に一人佇んでいた。


 その身に纏うのはずぶ濡れになった服ではなく、肌触りのいい薄桃色の浴衣だ。ずぶ濡れになった服は、現在このお宅の洗濯機の中にいる。


 明るい色合いの和室に通された紬は、辺りに視線を向けた。

 手入れの行き届いた淡緑の畳。その藺草いぐさの香りと部屋の角に置かれた香炉からの香りが、見事に調和されていた。

 香炉は陶器製の花模様が刻まれたもので、蓋に施された桜型の穴から鼻をすっきりと通っていく上品な香りが漂っている。


 この部屋だけではない。

 この屋敷は、芳香に満ちていた。


 その香りは感覚過敏の紬にとっても決して不快なものではなく、温かい安らぎを与えるものだった。


「なんて、ほっこりしてる場合じゃないんだよね」


 うっかり今の状況を忘れかけていた自分に気づき、キリッと顔を引き締める。


 先ほど羽織をかけてくれた麗人に連れられ、辿り着いたのはこの平屋建ての豪邸だった。

 木の温かさと明るい色調で整えられた外観は、和モダンと呼ぶに相応しい。

 廊下を通る際に目にした縁側も、扉にしつらえた障子を思わせる小窓も、屋敷の至るところに和の空気が散りばめられていた。

 そして麗人に促されるがまま紬は浴室へと案内され、狼狽した紬を宥め、彼は早々に扉を閉めた。

 結局背に腹は代えられず、紬は浴室とタオル、そして着替え用の浴衣を借りることになり、こうして現在は客間に通されている。


 他人様の親切のお陰でこうしているが、改めて自分の置かれている状況を整理した。

 辛うじて難を逃れたショルダーバッグの中には、携帯電話、財布、ポケットティッシュ、ハンカチ、小樽観光マップ。

 そのほか全ての生活用品は、キャリーバッグとともに運河に沈んでいったということになる。


 相変わらずの自分の不運っぷりにため息が出そうになるが、それで事態が好転するわけではない。

 まずするべきは、衣服類の調達だ。

 その後借りた服をこの家に返しに行き、交番でキャリーバッグの紛失を届けておこう。

 辛うじて財布が手元にあるから、あとは一晩泊まる宿を探して、それから、それから──。


 眉間に手を添えて考え込んでいる最中、部屋の引き戸がすっと開いた。


「随分待たせてしまってごめんね。気分はどう?」


 現れたのは、和装の麗人その人だった。その手に持つ盆には、二つの湯飲みと茶菓子が乗せられている。

 先ほどの濃紺の着流し姿で現れた人物は、やはり目を見張るほどの美しさだった。

 端正な顔立ちももちろんだが、盆を運ぶところから紬の向かい側に座する所作まで、全てが静かで、淑やかで、美しい。

 そんな彼をしばらくぼうっと眺めた後、紬ははっと我に返った。


「きょ、今日は誠に申し訳ありませんでした! 本当に、すっかりご迷惑をお掛けしてしまいまして……!」

「ああ、駄目だよ。急に頭を下げたりしたら」


 ぴしゃりと告げられる。

 と同時に、頭にずきんと鈍い痛みが走った。思わず表情を歪ませると、麗人の彼は小さく苦笑を浮かべる。


「外傷はないし意識もはっきりしているようだけど、転倒したときに頭を打っているからね。打った場所が場所だから、一応気をつけた方がいいよ」


 優しく諭されながら、そっと茶が差し出される。

 柔らかな湯気と緑茶の優しい香りが、頭痛とそっと和らげていく心地がした。


「本当に、何から何まですみません……」

「はは。いいんだよ。君が慌てて階段を踏み外したのは、少なからず俺にも責任があるからね」

「う。いえ、そんなことは」


 正直、その通りだったため気の利いた取り繕いもできない。

 あのときは突然パーソナルスペースを飛び越えてきたこの方から、少しで距離をとることに必死だった。

 とはいえ、結局は自分自身の不注意だ。


「おいおい。謝るのはこいつにだけかよ、この女」


 その時、どう考えても目の前の人とは別の幼声が割って入った。

 驚き振り返ると同時に、客間のふすまが再び開けられる。


「なんならオレにも、中央橋でのことを誠心誠意詫びろよ。人のことを勝手に迷い妖怪扱いしやがって、ああん?」

「うるさいよハル。この人に悪意がなかったことは、お前にもわかっているだろう」


 ぶすくれた表情を浮かべて登場したのは、ハルと呼ばれた小学校低学年とおぼしき少年だった。

 麗人の彼とは対照的な、白を基調とした和装をまとっている。意志の強そうな大きな目とは裏腹に、ふわふわと触り心地の良さそうな髪の毛がくるりとあちこちに跳ねていた。

 そして何より、その甘いラテを思わせる薄茶色の毛は、小樽運河で目にした毛並みと瓜二つだ。もしかして、この子は。


「あなたは……運河でこの人に憑いていた、子犬の妖怪さん……?」


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