(18)
「…………」
そういえば、と紬は表情を変えないまま脳内で独り言つ。
──君は……いい匂いがする。すごく。
中央橋の上で出逢った直後、そんな台詞を向けられていたっけ。
そのあと階段からずっこけて、キャリーバッグを水没させ、気を失ったというトリプル不運に見舞われたため、今の今まで忘れ去られていた。
「俺は生まれた頃から香りに触れて生きてきたからね。いい匂いのする人に悪い人はいない。これが俺の信条だから」
「私、そんなに何かの匂いがしますか?」
慌てて自分の腕に鼻を寄せてみるが、今までそんな自覚を持ったことはない。怪訝な表情で首を傾げる紬に、紫苑は小さく笑みを漏らした。
「俺だけが気づく香りなら、その方が有り難いけどね。他の人に気づかれて紬さんをさらわれでもしたら大変だから」
「はあ」
「さてと。本当はもう少し紬さんにお説教をと思っていたけれど、もういいや。俺の分も、ハルがしっかり叱ってくれたみたいだからね」
「はは……ありがとうございます」
先ほどのハルの叱責は、どうやら屋敷中に響き渡っていたらしい。
紫苑の怒る姿を想像しそうになったが、背筋が冷たくなりさっさと脳内から消しさった。普段怒らない人が怒る姿は、往々にして究極に恐ろしいことが多いのだ。
「それじゃあ、紬さんも気にかかっているだろうから、少しだけ彼とも面会しようか」
「え、いいんですか?」
ばっと顔を上げる。頭の奥で小さくくらりと回る心地がしたが、胸に沸く期待の方が強かった。
なにせ依頼内容を聞いてからというもの、ずっとずっと頭から離れずに心配で仕方なかったのだ。
「もちろんだよ。今回あの子を見つけ出したのは、他でもない紬さんだからね」
***
隣の部屋のふすまをそっと開くと、ふわりと部屋に炊かれた香りが鼻孔をくすぐった。
部屋の中央には紬の自室と同様に布団が敷かれている。その中には、ハルよりも一回りか二回り小さな体を伸ばしたお豆の姿があった。
「まだ、よく眠ってるみたいだね」
「そうですね。本当に、無事でよかった」
傍らに腰を据え、すやすやと眠るお豆の顔を覗きこむ。
改めて見てみると、外見はほとんど人間の子どもと相違なかった。
肩につかない長さの直毛の黒髪が、頭上の右側にぴょこんと結われている。掛け布団から微かに見える着物は小豆色の浴衣で、ところどころがつぎはぎに縫われていた。顔色はやはりまだ微かに青白さが残るものの、瞼も頬も唇も子ども特有のふっくらした膨らみがあり、無意識に指先で触れてみたくなる。
こんな小さな子が、棲み処を求めて長く険しい旅を続けてきたのだと思うと、胸が詰まる心地がする。
眉を寄せそっとその髪を撫でると、短い睫がピクンと小さく揺れた。
「……? ここ、は」
「あ……ごめんね。起こしちゃった?」
しばらくぼんやり天井を眺めていた顔が、突如としてはっと覚醒する。
次の瞬間、布団がばっと横に投げ払われ、お豆はいつの間にか部屋の向こう隅の方まで後ずさっていた。その瞳には、明らかな警戒の色が見てとれた。
「お、お豆ちゃん」
「なんだお前ら。どうして俺の名を知ってるのダ?」
「お願い、落ち着いて。私たちは、小豆洗いの小豆爺さんから君を探してほしいと頼まれたの」
「小豆爺さんが……?」
一瞬逡巡した様子だったお豆は、再びぎっと眉間のしわを刻してこちらを睨みつけた。
「それで? あの爺さんに言われたままに俺を連れ出して、いいように従わせようって魂胆なのダな!」
そうはいくか、という捨て台詞とともに、お豆は姿勢を低くするとひゅんと目に追えぬ速さで反対側のふすまへ駆け抜ける。
しかし、ふすまに手をかけ出ようとした矢先、ぱん、と小さな体を弾くような音とともにお豆は畳に尻餅をついた。何が起こったのかわからずに呆けるお豆に、小さく笑う気配が近づく。
「一度、自分の意志で迷子になった前科があるからね。念のため、この部屋には結界を張っているんだよ」
「紫苑さん!」
「……なるほどな。小豆爺さんをいいように言いくるめて、人間の仲間に取り込んだのも、やはりお前なのダな!」
すぐに紫苑に向き直ったお豆は、より一層の警戒心を紫苑に向ける。
呪詛でもかけそうな鋭い視線にはらはらする紬に対し、紫苑はどこ吹く風と涼しい表情だった。いつも通り柔らかく細めた目もとをたたえ、お豆に合わせてその身を低くする。
「お豆くん。俺は君を捕らえて酷いことをしようなんて思っていない。小豆爺さんがじきに君を迎えに来る。君の安否を酷く心配されて、俺たちに協力してほしいと頼んでこられたんだ」
「うるさい! 人間の言うことなんて信頼できるか!」
弾けるような音が響く。差し出された紫苑の手を、お豆は目一杯に弾き返した。
その瞳には今にもこぼれ落ちそうな涙の粒が、目尻いっぱいにまでたまっていた。