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 間違いない。あのときの香りを、自分は確かにここで聞いた。


 紫苑とハルが建物に入り、それを紬が追いかけようとしたときの、一瞬の出来事だった。建物の裏手から包み込むような風が流れて、紬をふうわりと包み込んだ。


 確かにあのとき、このお香の香りが一等強く香っていたのだ。


「お豆ちゃん? お豆ちゃん、ここにいるの?」


 あのとき三人で、館内は大まかに見て回った。それでも中の店舗が閉まっている内情もあり、細かな場所までは残念ながら確認することができなかった。紬が入ることのできるぎりぎりの箇所まで足を踏み入れ、なかに向かって声をかけてみる。

 その度に必死で耳を傾けるが、微かなあやかしの気配すら届いてこなかった。それどころか、匂い袋も、全く反応していない?


「中じゃないなら、外ってことかな」


 呟きながら、紬はすでにその憶測に疑問を持っていた。何せ建物の周囲は、すでに先ほど三人で確認をしたあとなのだ。

 予想通り、建物の侵入範囲ぎりぎりまで周囲を練り歩いてみたものの、やはり望んだ者の姿は見られなかった。


「お豆ちゃん……、きゃっ」


 その時だった。がくり、と紬の体が変に揺れる。

 足を踏み外し、鼻緒が壊れてしまったようだ。気づけば足首がじわじわと痛みを持ち、紬は情けなくその場にうずくまる。


「こんなタイミングで鼻緒まで……本当、つくづく不運だなあ」


 着物の裾から見える足元に、苦笑を浮かべて悪態をつく。そうでもしなければ、絶望の重さに胸が潰されてしまいそうだった。


「お豆ちゃん……どこにいるの……?」

「あら? あなたは確か、たちばな香堂さんのところの」


 突然かけられた穏やかな声色に、紬ははっと頭を上げた。


「ああ、ほらやっぱり。たちばな香堂さんの売り子さんよね?」

「あ、あなたは、以前お香をお買い求めにいらした」

「ふふ。先日は素敵なお香選びの時間をありがとうございました」


 朗らかな笑みをたたえて現れたのは、先日座禅を組むのにお香を焚きたいと香堂を訪れた老婦人だった。

 もしかして、住まいがこちら側だったのか。反射的に立ち上がろうとした紬だったが、想像以上に鋭い痛みが足首を襲い、ぐっと表情を歪ませてしまう。


「あらあらあら。鼻緒が壊れてるわね。もしかして、足を怪我してるの?」

「だ、大丈夫です。ご心配をお掛けしてすみません……」

「大丈夫にはとても見えないわあ。ほら、もし良かったら寄っていって。会社だもの、薬箱のひとつやふたつはあるのよ?」


 そう言って老婦人が指さしたのは、旧安田銀行小樽支店の裏手の区画に静かに佇む、石造りを思わせる建物だった。


「ほら、掴まって。立てるかしら。立てなさそうなら、会社の若い人を呼んで」

「いえ。こちらに体重をかけなければ、痛みはさほどありませんから。失礼します」


 親切に素直に甘え老婦人の肩に手をかけた、そのときだった。

 帯もとに揺れる匂い袋が、僅かながら芳香を放ち始めたのだ。


「っ、え」

「どうかしたの?」

「あ、いえ、なんでもありません」

「ゆっくり行きましょうね。ゆっくり慎重に」


 女性に支えられながら、それでも神経は匂い袋の香り一点に集中する。

 間違いない。この女性に、匂い袋が反応している。でも、いったいどうして?


 どうみても普通の人間の老婦人が、実は迷子の小豆洗いが化けた姿とでもいうのか。それはない。こんなに近くでやりとりをしてあやかしと気づかないなんて、長年関わってきた紬には考えられない。


「よ、い、しょ。ここは私の勤め先でねえ、気のいい人ばかりだから緊張しなくてもいいからね」

「は、はい」

「ただいまあ」


 会社の扉を開けられた瞬間、匂い袋がびりりっと強く反応したのがわかる。


「ええっと、まずはここに座ってね。えっと、薬箱は確か向こうの棚に……」


 手頃な椅子に座らされたあと、老婦人は手当の道具を取りに店舗の奥へ向かう。

 紬は老婦人に気づかれないように体の向きを変え、そうっと片足である場所に向かった。匂い袋の芳香が最も強く漂う、扉を入って左奥の隅の方へ。


 ようやくピントを合わせたその光景に、紬はほっと安堵の息を漏らす。

 そこには観葉植物に寄り添うようにして、小さな小豆洗いがそよそよ寝息を立てていた。


   ***


「──で? 見つけた小豆洗いを起こさないように胸に抱き上げて、安心したと同時に足の痛みが走って意識を飛ばして。結果、他人様の会社内で無様に寝っ転がった状態になっていた。そういうわけだな、新入り?」

「はい。寸分違わずその通りでございます……」


 目覚めると、目の前には見慣れた部屋の天井が広がっていた。

 意識を取り戻した紬に対し、すぐ傍らでハルが淡々と事情聴取を済ませた。

 ふわふわなはずの薄茶色の髪が、今はまるで怒髪が天を衝くようだ。そしてそれが幻想ではないことは、きらりと禍々しく光ったハルのまん丸おめめが教えてくれている。


「ほんっっっとに! お前は! 阿呆か! 人の話をろくに聞かずに飛び出してんじゃねえ! 他人様に迷惑かけてんじゃねえ! イノシシかてめーは!?」


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