(4)
柔和な笑みを浮かべる紫苑に促され、紬も席に着く。
と同時に、老人の傍らに何かが置かれていることに気がついた。腰に結われた巾着袋のようなもので、中からは微かに覚えのある香りが届く。
「自己紹介が遅れましたな。わしはこの街に棲まうもので、通り名を小豆爺とされております。どうぞお見知りおきを、お嬢さん」
小豆爺──その通り名を耳にして、紬はあるあやかしの存在が頭を過った。
「お気づきになられましたかな」
「あ、あの」
「小豆爺さんはものの伝承に云う『小豆洗い』と呼ばれるあやかしなんだ。長年北海道には棲まいを持っていなかったが、この街は特に水がいいからね」
やっぱり、と紬は一人納得した。
小豆洗いとは、川などの水辺で小豆を洗う妖怪だ。
水辺に迷い込んだ者の耳にショキショキと奇妙な音が聞こえてみれば、小豆を洗うあやかしとで会う、というのが一般的に伝えられる話である。
伝承地域によっては「小豆とごうか、人取って食おうか」などと不気味な歌を口ずさむとも聞くが、基本的に人に危害を加えることのない心優しい妖怪──というのが、紬の認識だ。
あの巾着袋の中にあるものは、香りから察するに小豆の豆だろうと納得した。
「ああ。山から流れる水も澄んでいてのお。腰掛けのつもりがもう随分とこの街に居座っておる。ここの水で磨かれた小豆は、仲間内でも大層評判がよくてのう」
「わかります。私も、この街がとても居心地良く感じます」
そうかそうか、とにこやかに話す小豆爺に、次第に緊張が解けていく。小豆爺のもつ雰囲気は温かく、まるでほかほかに茹で上がった甘いあずき豆のようだった。
そんな紬の心境をくみ取ったのか、視界の端に触れた紫苑もまた柔らかく口元を綻ばせる。
「それで小豆爺さん。今回はまたどういったご用件ですか」
「ええ、ええ、そうでしたな。実は誠に恥ずかしながら、同族のことで、少々困ったことがございましてなあ……」
***
机上に置かれた香炉。その中に詰まった灰の中に、熱が籠もった炭を押し込めていく。
浅く埋められた炭を見届けたのち、紬は一センチ四方のチップをそっと温められた灰の上に寝かせた。
煙が立たないことを確認したあと、紬は背筋を伸ばしそっと息を吸い込んだ。
「……はああ。落ち着くなあ」
まるで風呂に浸かったかときのような、気の抜けた声が出てしまう。目の前でほのかに甘い香りを漂わせるのは「白檀」と呼ばれる香木だ。
白檀は沈香とともに知られる香木の一つだ。
白檀は、主にインドやインドネシアなどの熱帯地方で産出されるビャクダン科の木だ。
木の中の樹脂を熱して香る沈香と異なり、白檀は木そのものが常温でもよく香る。蒸留して採られた精油はサンダルウッドとも呼ばれ、アロマテラピーにも用いられる有用な木だ。
再び静かに息を吸う。白檀香りが、体の隅まで広がっていくのがわかった。
白檀には一般的に、殺菌作用があるといわれている。確かにこのほのかに甘い爽やかな芳香に身を委ねていると、体の隅々まで浄化されていくような心地になっていた。
「紬さん。少しいいかな」
「紫苑さん。どうぞ」
ふすまの向こうからそっと囁く声がして、紬はいつの間にか閉ざしていた瞼を開き答えた。静かにふすまを開け姿を見せた紫苑は、中での様子を察していたように表情を和ませる。
「空薫だね。相変わらず、紬さんは勉強熱心だな」
「これでもまだまだ足りないくらいです。香りのことを知るには、ひたすら実地を積むしかありませんから」
ここでの勤務を始めて以降、紬は自室での時間をひたすら香道の勉強に費やしていた。
見ず知らずの紬に、紫苑は住まいと勤め先を与えてくれた。この程度の努力では、まだまだ恩に報いるには届かないだろう。
「この香りは白檀だね。確か昨日もそうだった。他の香りは聞いてみないの?」
「はい。まずは何事も基本から学んでいこうと思いまして。単純にこの香りが好きだというのもあるんですが」
それに、一言に白檀といっても香りはその造りでかすかに違う。落ち着いた濃厚な香りのときもあれば、ふわりと頭を撫でるような優しい香りの時もある。こうした微かな違いを感じ取るたびに、香りの世界の奥深さを感じずには居られないのだ。
「聞香もそうだけど、今度香造りにも挑戦してみようか。初心者の人手も簡単に作れる香はいくつもあるんだよ」
「す、すごく魅力的な提案なんですが、今はまだ。まずはこうして、ひとつひとつのお香に向き合うことが必要だと思うので」
「そっか。本当、紬さんは真面目だね」
目を細めた紫苑が、そっと紬の前に腰を下ろす。その手がさらりと紬の髪を撫で、毛先と頬を同時に滑っていった。
目をぱちくりさせたあと、紬が小さく眉を寄せる。
「紫苑さん……また、何かの塗香を仕掛けましたか?」
「はは。今のは本当につい触れてしまっただけ。紬さんの髪飾りが、あんまり似合っていたからね」