(15)
鬼気迫った女性の声が響いた。振り返ると、見知らぬ女性が血相変えた様子でこちらへ駆けてくる。
「本当に申し訳ありません! うちの子が飛ばしてしまったマスコットを、わざわざ取ろうとして頂いて……!」
「マスコット……」
そうか。さっき視界を横切ったあの緑色の小さな影は、強風に飛ばされたマスコットだったのか。
深々と頭を下げる少し後ろで、小学校低学年とおぼしき少女が強張った表情でこちらを見つめていた。どうやらこの子が、マスコットの持ち主らしい。
「ほら、千夏! あなたもお姉さんに謝りなさい……!」
「あ、いいんです。結局マスコットは助けることができませんでしたし、落ちそうになったのは私の自己責任ですから」
少女の背を押し謝罪を促す母親を、紬は慌てて取りなす。
少女は紬の落下寸前の姿を目にして、罪悪感でいっぱいになっているはずだ。これ以上彼女の心を乱すのは本意ではない。
紫苑の腕の中から抜け出すと、紬は少女に向かってそっと笑いかけた。
「ごめんね。お姉ちゃんの運動神経がもう少しよかったら、あなたの大切なものを助けてあげられたんだけどね」
「っ……お、お姉ちゃ」
ん、と少女が声を震わせた瞬間だった。何かが自分の足元を掠めた気配がして、視線を落とす。
するとそこには、先ほど視界を横切り運河へ落ちていったはずの緑色のマスコットが落ちていた。
「え? これは」
「あー! わたしの! 『かっぱ』ちゃん!」
瞳いっぱいに溜まっていた少女が、その涙の雫を弾くようにしてこちらへ駆けてきた。
そっと拾い上げたマスコットを、くるりとこちらへ振り返させる。つぶらな瞳に黄色のくちばし、肩から提げた水色の球体は浮き玉だろうか。
そして何より頭に備えられた丸い皿が、成る程この子が「河童」なのだと教えてくれた。
「かっぱちゃん! わたしのマスコット! よかった!」
「わあ、ありがとうございます! この子、このマスコットを本当に気に入っていたみたいだったので、助かりました……!」
「あ、いえ。私は何も」
「そんなこと! すごいですね。私ってばてっきり、運河に落ちてしまったものかと思っていました」
それは、紬も全く同感だった。
先ほどのことを思い返してみても、自分はどう考えてもこのマスコットを捕獲できていなかった。
それなのに、どうしてマスコットが紬の足元に転がっていたのだろう。
もしかして紫苑さんが? ふと思い至り彼のほうへ視線をやったが、少し困ったような笑顔で首を横に振るだけだ。
それじゃあ、一体誰が?
「お姉ちゃん! ありがとう!」
「……よかったね。かっぱちゃん、大切にしてあげてね」
「うん!」
しかし、少女が嬉しそうにぬいぐるみに頬ずりする姿が、まあいいか、と思わせてくれる。
頭を下げる母親と手を振る少女が見えなくなるまで、紬も手を振り続けていた。
そのなかで、おやとひとつの疑問が浮かんでくる。
紬を助けるためとはいえ、先ほど紫苑は紬を抱きしめ密着する体勢になっていた。
実際、周囲からは好奇の視線も集まっていたほどだ。
それなのに、非難の声を上げるのが容易に想像できる「あの人」の姿が、先ほどからどこにも見られない。
「……浪子さん?」
「アンタにその名を呼ばれる筋合いはないわね」
不満ありありな声のあとに、運河のなかから再びびゅっと飛沫が上がる。くるりと弧を描くように一回転したあと、浪子が再び姿を見せた。
先ほどの登場時と同様、運河にいたはずの彼女は不思議とどこも濡れてはいなかった。
「今のマスコットは、貴女が助けてくれたんですね」
「助けたわけじゃないわよ。アタシはただ、今の棲み処であるこの運河を下手なゴミで汚されたくないだけ」
「ありがとうございます。私が代わりにお礼を言われてしまって、すみません」
「だから、別にお礼とかどうでもいいし」
「あの子、とても喜んでいましたよ」
「ちょっとアンタ、人の話聞いてんのっ?」
頬を赤く染める浪子に、思わず笑みがこぼれる。そんな紬が面白くないのか、浪子は勢いよく顔を背けた。
そのときだった。
浪子が頭上でひとつに束ねていた髪が解けたのだ。
今しがた、橋の上と運河の水面を、人の目にとまらぬ速さで往復していたのだ。結っていた紐が解けても不思議はない。
美しい髪はさらりと波打ちながら、重力に任せて見る間に背中まで流れていく。
「っ、や……!」
小さな悲鳴とともに僅かに掠めた浪子の泣きそうな表情に、紬は無意識に足を踏みきっていた。
「ちょ、アンタ、なにをっ」
「大丈夫です」
大丈夫。その言葉の意味が伝わったらしい。
「少しだけ、屈んで頂けますか」
怪訝な表情を浮かべた浪子だったが、紬の頼んだとおりそっと長身を屈してくれた。その間、紬は懐から出した紙袋の封を手早く開ける。店名が記されたシールを素早くはがし、目の前の絹のような髪の毛にそっと手をつけた。
失礼します──小声で告げた言葉に、横顔から僅かに見えた長い睫が小さく震えたのがわかった。
「浪子さん、紬さん? なにかあったんですか?」
「いいえ。なんでもありません。それよりも見てください。ほら」
笑顔で身を引いた紬は、目の前の浪子の肩にそっと手を添える。
恐る恐るといったように顔を上げた浪子に、紫苑は小さく目を見張った。
「紬さん、そのかんざしは」
「はい。さっき購入した、梅の花のかんざしです」
解かれてしまった浪子の髪は、紬が施したかんざしで再び頭上にすっきりと留められている。
昔髪が長かった経験がいかされてよかった。肩に掛からないほどの髪の長さの自分より、長く美しい髪を持つ浪子のほうがよく映える。
「浪子さんのお陰で、あの子は笑顔になれましたから。私からの、ほんのお礼の気持ちです」
「お似合いでしょう?」そう告げて、紬は隣を見上げながら微笑む。
至近距離で見上げた浪子は驚きに目が見張られていたものの、やはりとても綺麗だった。
そして決して口にはしないが──豊かで美しい髪のなかから一瞬垣間見えた、白くて陶器のような皿も。