(14)
「え? それは」
目の前の敵意むき出しの視線に一瞬怯みながらも、紬は浮き玉を選び出したときのことを思い起こした。
大小も色合いも様々な浮き玉に囲まれながら、思考にふわりと流れ込んできたあの光景を。
「選んでいる最中に……ある光景が広がった気がしたんです。薄く色づいた緑色が、まるで若い竹林のように思えました。人の手が入らないままの水辺と青い土の香り。その風景がとても素敵だと思ったので……って、あれ?」
口にしていて違和感を覚える。今の描写はまるっきり、先ほど紫苑が空いていたお香の香りにもった印象のままではないか。
その答えを知っていたかのように、紫苑は静かに微笑んだ。
「実はね。あの浮き玉を選んでもらうときに、今焚いているこのお香と同じ配分の塗香を仕込んだんだ」
「ずこう?」
「あんた、塗香も知らないの? 肌や着物に直接塗りつける、お香のひとつよ。まったく、これだから近頃の小娘はっ」
ふふんと嬉しそうに説明する美女に頭を下げつつ、思考は別のことを考えていた。
浮き玉を選ぶときに、そんなものを仕込まれる機会があっただろうか。
「あ!」
もしかして、北一硝子内で肩のほこりを指摘されたときだろうか。
確かあれは、唐突に浮き玉選びをお願いされて了承した直後だった。でもあのとき、紫苑は自分に触れずに肩を指さしただけだったを記憶している。じゃあ、一体いつ?
怪訝な表情をする紬に、紫苑が宥めるような笑みを浮かべた。
「北一ホールで、失礼ながら君の髪に触れたでしょう。あのとき、毛先だけにそっと塗香を仕込ませてもらったんだ。席を立ちしばらくすればそのうちに、君の肩もとに香が落ちると踏んでね」
「な、なるほど」
あのときはまるで人が変わったかのようだった紫苑の様子に意識が向いて、髪に触れられたことなんてすっかり忘れていた。
タイミングを見て肩を払わせ、その香りを作動させたということか。
嗅覚もそれなりに鋭い自分が気づかないなんて、余程計算された場所に塗香を仕込まれたらしい。
お香についての二人の知識の差は、天と地ほど離れているのだろう。
「俺はどうも、女性の好みや機微に鈍い。いつもお世話になっている浪子さんに、女性の観点から選んでもらったほうが喜んでもらえると思ったんだ。それにほら、紬さんがいうようにこの浮き玉は、まるでこの香をそのまま描いているみたいに美しいでしょう」
眉を寄せ、浪子さんと呼ばれた彼女はしばらく押し黙ってしまう。
気難しげな表情で手に抱えた浮き玉をじいっと見つめる姿を、紬ははらはらしながら見守るしか出来なかった。
なるほど、確かに紫苑は女性の機微には極めて鈍感らしい。
しかし、選んだ浮き玉は紫苑のいうように、他に迷いようのないほどあの香りのイメージに合致したものだった。
今もほのかに漂うこの香りは、浪子のかつての棲み処を再現したものらしい。
そうだとしたら選び取ったこの浮き玉も、少なからず彼女の好みの一端に触れているのではないだろうか。
「な、浪子さん……、きゃっ」
思わず又聞きの名を口にした直後、びゅっと鋭い風が辺りに吹き抜けた。
突然のそれに思わず橋の縁に両手をつける。ぐらりと体が傾く感覚がするが、すんでの所で運河への落下は免れた。
ここで落下したものならば、いよいよ自分の寿命もここまでといわざるを得ない。
「紬さん、大丈夫!?」
「はは、はい。何とか二度目の水浸しは免れました……」
「あっ、わたしのーっ!」
浮かんでいた乾いた笑みが引っ込むほどの、悲痛な叫び声だった。
体重を預けていた縁から紬ががばりと上体を起こすのと、目の前を何かが弾んで飛んでいったのはほとんど同時だった。
緑色の小さな何かが、運河に。
「あ……!」
それをどうにか掴もうと、運河にこれでもかというほどに手を伸ばす。
どうにか指先を掛けよう試みるも届かず、代わりに先ほどと同様の嫌な浮遊感を覚えた。
「っ、や……」
やばい。一度免れた危難を、また。
直後、背後から思い切り橋の方へ引っ張られ、その勢いのままに橋の上に尻餅をつく。
しかし不思議なことに、体への衝撃はほとんどなかった。目を白黒させる紬の頭上から、大きく長いため息が吐かれる。
「まったく君は……免れたはずの、二度目の水浸しになるつもり?」
「っ、し、紫苑さん……」
呆れた口調を隠す余裕もないらしい。
今度こそ落下するかと思われた紬の体を、紫苑が抱え込むようにして守ってくれたのだ。背中から抱きしめられるような体勢のまま、紬は紫苑の腕の中に収まっている。
「自己犠牲の精神が過ぎるよ。人の落とし物と引き換えに、自分の体を運河へ投げ出すなんて」
「あ、の」
「もっと自分を大切にして。……わかった?」
後ろから覗きこむようにして告げられた厳しい言葉に、紬は頷くほかなかった。
今さら追ってくるように、心臓の音がばくばくと鼓膜の裏にまで響いてくる。それは落下しかけたことによる恐怖からなのか、叱咤を受けた罪悪感からなのか。
それとも、今包まれている腕の逞しさによるものなのかは、今の紬にはわからなかった。
「すみませんっ、大丈夫ですか!?」