(12)
「そうだよ。正確には三十二歳と一ヶ月。三月生まれだからね」
「えええ。うそ……!」
うすうす年上だとは思っていたが、ここまでとは思わなかった。
紬自身二十六歳だから、なんと六歳も差があったらしい。
てっきり一,二歳の差だとばかり思っていた。それほどまでに紫苑は、若々しく美しいのだ。
「もしかして、もっと年下かと思ってた?」
「す、すみません」
「……いや、いいんだよ。一応一店舗の店主だっていうのに、どうも貫禄が足りないんだよね。いつまでたっても周りからも学生扱いというか何というか……」
どうやら、本人にとって若く見られることは決して褒められたことではないらしい。
女性なら若く見られれば大体喜ばれるようなものだが、男性の立場では感じ方も異なるのだろう。
「あ、でも、私も実は、年齢をよく間違われるんです。これでも二十六なんですが、どうも学生さんに見られるようで」
「はは。それじゃあ俺と大体同じだ。それなら確かに、恋仲に見られても不思議じゃないよね」
「……」
突然直球の暴投が投げ込まれ、紬は反応を忘れる。
にこにこ嬉しそうに頷く紫苑をぼうっと眺める。
しばらくしてはっと我に返った紬は、みるみるうちに頬が熱く火照るのを感じた。
「あ、あ、あれは、単なる事故です!」
「そうかな。俺としては、結構嬉しかったりするけどね」
なるほどそう来たか。なおのこと質が悪い。
「……紫苑さんにはそちらの、浮き玉の贈り主がいるじゃありませんか。他の女性にそんな冗談を言ったりしたら、きっと彼女さん、怒りますよ!」
「え?」
意識的に多少トゲのある言葉を選んだ。
いくら麗しの恩人とはいえ、男女関係のいざこざを起こすのは頂けない。
「……あー、なるほど。そういうことか」
「そういうことです。いくら眩い美貌の持ち主だからといって、そういう軽薄な言動は控えたほうが宜しいかと。女性の中には、やはり勘違いする方もいらっしゃると思いますしねっ」
「大丈夫。この浮き玉の贈り主は、俺の恋人じゃないよ?」
「……」
どうやら紬は、恩人に大変失礼な思い違いをしていたらしい。
***
その後、見事なまでの早とちりをしていた紬は、なるべく自らの気配を消すようにして歩いていた。
「紬さん。そんなにしょんぼりしなくても、俺は何とも思っていないよ」
「いえ、私ごときが本当に、生意気なお説教を口にしてしまって……しかも、命の恩人に」
自己嫌悪に肩がますます丸くなる。
できる限り、自分の見える幅を狭くするためだ。
そして影に潜む存在になった分だけ、すぐ隣を歩く紫苑がきらきらと眩しい。
光と影。影が濃くなると光が強くなるは、ほぼイコールなのだろう。
「紬さん。もうすぐ小樽運河が見えてくるよ」
「はい」
「この辺りはやっぱり人通りも増えてくるね」
「はい」
「あ、かま栄さんだ。紬さん、パンドームって知ってる?」
「はい」
「つ・む・ぎ・さ・ん?」
明瞭に呼びかけられたその声色に、びくっと紬の肩が震えた。
ぼんやりしていた視界に慌ててピントを合わせると、目の前に麗しの恩人が立ち塞がっている。反射的に、背筋がしゃきんと伸びた。
「罪悪感で上の空になられるよりも、俺は紬さんとの時間を大切にしたいんだけどな」
「し、紫苑さん」
「だからほら。……笑って?」
頬に添えられた両の手が、そっと優しく撫でる。
紫苑の優しさがじわりと流れ込むようで、紬の胸が熱くなった。自然と上ってきた笑みを見て、紫苑も嬉しそうに口元を綻ばせる。
「さてと。もう少しで、今日最大の目的地に到着かな」
「最大の目的地? って、ここは……」
大通りを練り歩いてきた二人は、いつの間にか小樽運河へと戻ってきていた。
とはいえ今いる地点から紫苑に出会った中央橋にはまだほど遠いらしい。
傍らに架かった橋は「浅草橋」と記され、どうやらここが小樽運河のほぼ東端といっていい地点だった。
橙色の夕暮れと街灯ランプに染まる運河の姿はとても美しく、胸に直接投影されるようだった。
「よければ、浅草橋から眺めてみようか」
「はい……」
信号を渡り橋の中央まで歩みでた紬は、再び溜め込んだ感嘆の吐息を空に放った。
昼間の青空が夕暮れ時の薄く静まった色合いに変わり、運河沿いは装い新たに紬たちを出迎えてくれていた。
運河沿いに立ち並ぶ石造りを思わせる倉庫群が、橙色の灯りに美しくライトアップされている。運河横の遊歩道では歩く人たちを誘うように双腕のガス灯が灯され、明かりはどこまでも続いているかのようだった。
「素敵……こうして見ると、運河が緩やかな弧を描いているのがはっきりわかりますね」
「そうだね。運河がこうした形状をしているのは、実は珍しいんだよ。この運河はもとある土を掘る製法でなく、海を埋め立てる製法をとられていてね。だからこうした弧を描く形が可能だったんだ」
「運河の生まれの違いですか。聞けば聞くほど、ここは本当に奥深い街ですね」
すう、と澄んだ空気を肺いっぱいに吸い込む。
体内の空気を入れ換えるように吐き出すと同時に、紬は運河のさらに向こうに浮かぶ山を見渡す。あの山の向こうにも、知らない街があるのだろうか。迫り来る終わりの時の足音に、紬は再び大きく息を吸った。
「──、え?」