第六話 決意する小鳥遊さん
校門前まで響く女生徒のキャピキャピした声。
それは夕暮れ時の放課後になっても変わらず、校舎や運動場で部活動に励む女の子たちの声で絶えず溢れていた。
そんなわけで。
ぼくは今、椿ヶ丘高等学校という女子高の校門前に来ていた。
しかも男一人、きょろきょろと周囲を気にしながら。
「なんだか、不審者にでもなったような気分だ……」
というか、傍から見たらどう見えて不審者にしか見えないと思うし、実際校門から出てくる椿ヶ丘高校の女の子たちに怪しげな視線を向けられてばかりいるけれど、これにはちゃんと事情があるのだ。決して変態行動などではない。
なんて釈明を内心でしつつ、校門を横目で見つめる。
「まだかな、鵜飼さん……」
嘆息混じりに呟く。ここに着いたのが四時半前なので、まだ三十分程度しか経っていないけれど、こうして所在なく一人で佇んでいるせいか、ものすごく時間が長く感じられる。
でも、仕方がない。
だって、待ち合わせをしているわけではないのだから。
「せめて、連絡先でもわかったらなぁ。小鳥遊さん、転校した時の同級生の連絡先はひとつも知らないらしいから、どのみちどうしようもなかったけれどさ……」
なんて独りごちながら、校門の塀に背中を預けて、溜め息をこぼす。
「まあ、ここで会えても話を聞いてもらえる保証すらないわけだけど……」
つまりぼくがやろうとしているのは、完全に独断かつ独善によるお節介でしかない。
それでもぼくは、たとえ無駄な徒労に終わったとしても、どうしても動かざるをえなかった。
小鳥遊さんに、もう一度笑顔になってもらいたいから──。
さて、ここで話は変わって。
どうしてぼくが一人で鵜飼さんが通う高校に尋ねることになったのか、その経緯を語りたいと思う。
時は遡って今から数日前──つまるところ、鵜飼さんと遭遇したあとの話になる。
あれから小鳥遊さんは、すっかり気落ちしたように目を伏せるようになり、ぼくがいくら話しかけても簡単な相槌程度でしか反応を示さないようになっていた。
それこそ小鳥遊さんの大好きなからあげの話題を振っても、だ。
しかもそれは名古屋駅前のバス停に着いた時まで続き、構内でバスの到着を待っている時なんて、あまりの気まずさに変な汗が流れ出そうなほどだった。
もうここまで来たら、鵜飼さんとの間によほどのことがあったのだろうなというのはなんとなく察するものがあったけれど、だからと言って、このままにはしておけなかった。
というより、せっかく小鳥遊さんと前より仲良くなれたというのに、こんな形で今日を終えるのは、どうしても許容できなかった。
だって、転校先で初めてできた大切な友達なのだから。
そんな友達との最初のお出かけが、最後に陰鬱として終わるなんて、あまりにも悲しいじゃないか。
それはきっと、小鳥遊さんだって同じ気持ちのはず。
だからこそぼくは、小鳥遊さんの心の傷に触れる行為だとわかった上で、鵜飼さんのことを訊いてみたのだ。
「昔、あの子となにがあったの?」と──。
最初小鳥遊さんは、ぼくの質問に眉尻を下げて口を真一文字に閉じるだけだった。
それ以上ぼくも問い詰めることはせず、辛抱強く返答を待っていると、やがて小鳥遊さんは身を縮こませてスマホを両手で握りしめたあと、少ししてぽつぽつとスマホで文章を打ち始めた。
そうして出来上がったのが、以下の長い文章だった。
『以前、学校のお昼休みで羽賀くんにお話した内容を覚えていますか? 私が転校したばかりの頃、隣にいたクラスメートの子に不快な気持ちをさせてしまった件ですが、その時のクラスメートというのが先ほどすれ違った茶髪の子……鵜飼さんだったんです』
『あの時の私は、初めての転校というのもあって緊張していたのですけれど、同時にすごく浮かれていて、前の学校みたいに……いえ、それ以上にたくさんのからあげ友達ができたらいいなという一方的な感情で、たまたま隣の席にいた鵜飼さんに勢いよく話しかけてしまいまして。その結果が「気持ち悪い」という一言でした』
『当然と言えば当然ですよね。だってお互いになにも知らないまま、からあげの話ばかりしてしまったのですから。鵜飼さんにしてみれば、すごく奇異に映ったのだと思います。いっそ突然からあげの話題ばかり振る私を見て、嫌悪感すら抱いていた様子でした』
『だから私が、鵜飼さんに無視されるのは当然のことなんです。自分にしか目が向いていなかったあの頃の私は、本当に身勝手としか言いようのない人間でしたから……』
何度も文字を打ち込んでは、その度に表情を翳らせて画面をこっちに向けてくる小鳥遊さんに、ぼくはなんて返事をしていいのかわからなかった。
以前にも同じような話をされた際、その時は「好きなものがあるのはなにも悪いことじゃないよ」とか応えたような気もするけれど、まさか数年ぶりに顔を合わせても無視されるほどひどかったとは想像していなかったので、さすがに言葉が思い浮かなかったのだ。
もうこうなってしまうと、ぼくもポジティブな思考にはなれず、ましてすっかり頭を垂れて喪気している今の小鳥遊さんを見たら、どんな言葉も届かないような気がしてならなかった。
それでもなんとか鵜飼さんという女の子が通っている高校を聞き出して──割と有名な学校だったようで、制服を見ただけでわかったらしい──こうして授業が終わってから電車に乗って来てみたわけではあるけれども。
「どうしよう……さっきから全然出てきてくれない。もしかして、もう帰っちゃったとか……?」
依然として校門から姿を現さない鵜飼さんに、思わずしゃがみ込むぼく。
「せっかく何度も道に迷いながらここまで来たのに……」
というか昨日の時点……つまり月曜日にもここへ向かったことがあるのだけれど、その時は生来の方向音痴のせいで結局辿り着くことができず。
なので、こうして日を改めて再チャレンジして、電車を乗り継ぎながらようやく椿ヶ丘高校に到着できたのだけれど、まったくのノープランで来てしまったので、ぼくが訪れる前に帰宅してしまった線までは想定していなかった。
「ちょっと、行き当たりばったりすぎたかな……」
いやでも、あの時鵜飼さんが持っていたケースバックには見覚えが──彼女が吹奏楽かそれに近しい部活に入っているという確信だけはあった。
というのも、以前千葉の高校に通っていた時に、まったく同じケースバックを使っていた友人がいたからだ。
その友人は吹奏楽部でフルートを担当しており、楽器ごとに専用のケースバックがあるのだと話してくれたことがあるのだけれど、彼がフルートを仕舞うのに使っていたケースバックが、鵜飼さんが持っていた物とまったく同一だったのである。
なので、部活に入っているのだとしたら放課後も遅くまで学校にいるに違いないと思って、こうやって会いに来てみたのはいいものの、いつ帰るともしれない人物を待ち続けるなんて、我ながら気が遠くなる作戦を実行してしまったような気がする。
というか、椿ヶ丘高校に知り合いなんているはずのないぼくが取れる手段なんて、これしかなかったのだから、他にどうしようもなかったのだけれども。
それにたとえ運良く会えたとしても、一度会ったきりのぼくを覚えている可能性は限りなく低いはず。
それどころか、不審者だと思われたら元も子もない。
そのあたりのことも、よく考えて行動しなければならない状態だった。
「とは言ったものの、正直当たって砕けるしかないよなぁ……」
いや、砕けちゃ駄目か。
鵜飼さんから小鳥遊さんのことをどう思っているのか聞き出さないと、なんの意味もないし。
「でもなあ、ぼくってイケメンなわけじゃないし、話術があるわけでもないしなぁ」
本当にこんな粗だらけの作戦で、上手くいくのかな……。
なんてうじうじ悩んでいると、校門の方から数人の女生徒による話し声が聞こえてきた。
また違うかもしれないと思いつつ、確認がてら校門の方へ視線を向ける。
すると、そこには──
「! 見つけた!!」
前に見た時と同じ、黒いケースバックを肩に提げた茶髪でセミロングの女の子。
間違いない。鵜飼さんだ。
その鵜飼さんが友達らしき三人組の女の子たちと一緒に、なにやら楽しそうに談笑しながら校門から離れていく。
あの様子から見るに、今から帰宅するところなのだろう。
って、ぼんやり見つめている場合じゃなかった! 早く声をかけないと!
「ま、ま、待って鵜飼さん!」
背中を向けながら友達と並んでどこかに行こうとしている鵜飼さんを、声を詰まらせながらも慌てて呼び止める。
そんなぼくの大声に、鵜飼さんがなにげない様子でこっちを振り向いた。
「っ! あの時の……!」
あの驚いた反応──間違いなく、ぼくのことを覚えていてくれている!
一度しか会っていない上、ほとんど小鳥遊さんの方にしか注視していなかったはずだったのに。
ともかく、これなら話をしてもらえるかもしれない!
「鵜飼さん、だよね? 少しだけいいかな?」
慌てて立ち上がりつつ、警戒されないように距離を保ちながら、鵜飼さんに声をかける。
「なに? 真奈の知り合い?」
「あの制服、この近くじゃあんまり見たことないけれど、名古屋市内の学校の子?」
「あー。ひょっとして、真奈の彼氏!? きゃ~!」
などと次々に質問してくる取り巻きの女の子たちに、鵜飼さんは苦笑いしつつ、
「彼氏じゃないから。なんていうか、知り合い……のようなもの?」
実際は話したこともなければ全然面識もない間柄なのだけれど。どうやらぼくの話を聞いてくれるつもりでいるらしく、適当に誤魔化してくれた。
「え~? ほんとに~?」
「ちょっと怪しいよね~。実は前に付き合っていた男とか~」
「でも、真奈の趣味じゃなくない? 真奈はもっと面食いのはずだし~」
「もう! ほんとにそういう関係じゃないから! ほら、みんなは先に帰って! あたしはこの人と話があるから!」
言いながら強引に背中を押す鵜飼さんに、女の子たちはキャーキャー楽しそうにはしゃぎながら、三人仲良く学校から離れていった。
その後ろ姿を嘆息と共に見送ったあと、鵜飼さんは不意にぼくの方を振り返って、
「えっと、待たせちゃってごめん。あたしに話があるのよね?」
強張った笑みで問いかけてくる鵜飼さんに、ぼくもぎこちなく頷く。
「そっか。じゃあ、ちょっとだけ移動していい? ここだと少し目立っちゃうから」
こっちとしても異論はないので、わかりましたと首肯すると、鵜飼さんは「こっちに来て」と手招きしながら歩き始めた。
そうしておとなしく付いていくと、鵜飼さんは無言のまま校舎裏へと回っていき、そして塀のそばにあった小屋建て──もといバスの停留所の中へと入っていくと、そのままベンチに腰かけた。
「……ここってバス停だよね? 用もなく勝手に座っていいの?」
「大丈夫。ここは椿高の生徒しか利用できない場所だし、今の時間はもうバスは走っていないから」
「そ、そっか。そういうことなら、まあ」
若干悪いことをしているような気分になりつつも、おそるおそる鵜飼さんの対面にあるベンチに座る。
そうして一息しつつ、ぼくは改めて鵜飼さんと向き直り、少しだけどう話を切り出したものかと逡巡したあと、思い切って「鵜飼さん」と口火を切った。
「今日はいきなり来たりして本当にごめんね。用事とか大丈夫だった?」
「……大丈夫。さっき部活も終わって、あとは帰るだけだったから」
言いつつ、傍らに置いたケースバックに触れる鵜飼さん。
「それ、フルートだよね?」
「うん。経験者?」
「ううん。友達が同じ物を持っていたから、もしかしてと思って」
「そう……」
「……………………」
「……………………」
どうしよう。さっそく会話が途切れてしまった。
いや、訊きたいこと自体は山のようにあるのだけれど、いざこうして面と向かってみると、緊張しているせいもあってか、思うように言葉が出てこない。
そもそも女子の扱いに慣れているわけでもないぼくが、ほとんど面識もない相手から込み入った話を難なく聞き出せるはずもないわけで。
我ながら、ちょっと無謀すぎたかな……。
なんにしても、早くなんとかしないと。このままだと鵜飼さんが退屈して帰ってしまうかもしれない。
そんな不安を抱きながら対面にいる彼女の様子をそれとなく窺ってみると、向こうもこっちの反応を確かめるようにチラチラと視線を寄越しては、手持ち無沙汰に前髪をしきりにいじっていた。
少し意外だ。見た目は今時のギャルといった感じだから、もっとストレートに言葉をぶつけてくるタイプだと思っていた。
小鳥遊さんから聞いた話でも、そういう直情的な人だと思って一応の覚悟はしていたけど、そこまでの心配はいらなかったみたいだ。
もしかすると、ぼくが思っているよりずっと繊細な人なのかもしれない。
「……今日は、本当にびっくりした」
と、
あれこれ思考を巡らせている内に、鵜飼さんが唐突に──ともすればうっかり聞き逃しそうなほど突拍子もないタイミングで静かに口を開いた。
「まさか、あの時小鳥遊さんと一緒にいた男の子が、こうして尋ねてくるとは思わなかったから……。あ、タメ口で話しているけど、大丈夫だった?」
「あ、うん。ぼくも鵜飼さんと同じ高校二年生だから」
そこまで話したところで、まだ自己紹介もしていないことに今さらながら気が付いた。
「そういえば、まだちゃんと名乗ってなかったよね。羽賀大介です。改めてよろしく」
「よ、よろしく。あたしは鵜飼真奈……って、そっちはもう知っているみたいだけれど」
「まあ、うん。小鳥遊さんから事前に聞いていたから」
「小鳥遊さんから……」
ぼくの返答を聞いて、オウム返しに小鳥遊さんの名前を呟く鵜飼さん。
それは嫌悪や怨恨というよりも、どちらかというと後悔と言った表情に近かった。
あれ? てっきりもっと小鳥遊さんを疎んでいる印象を持っていたけれど、案外そうでもないのかな……?
「……気になる? 小鳥遊さんのこと」
「! そ、それは……」
ぼくの問いに、鵜飼さんは気まずげに目を逸らしながら、おずおずと頷いた。
うん。今の反応で確信が持てた。
鵜飼さんは、小鳥遊さんのことを嫌っているわけじゃないと。
だとしたら、どうして前に会った時はあんな無視するような真似をしたのだろう?
本当に小鳥遊さんのことを嫌っているのなら、こうしてぼくが尋ねてきた時点で拒絶しそうなものだし、たぶん詳しい話を聞くためにこんなところまで連れて来たのだとは思うけれど……。
なんて疑問に思っていると、鵜飼さんが戸惑いがちに「あの」とだけ小さく声を発して、それからおもむろに居住まいを正しながら言葉を紡いだ。
「ちょっとだけ、質問していい……?」
「もちろん。ぼくで答えられる範囲でなら」
「じゃあ単刀直入に言うけれど、羽賀くんって小鳥遊さんの彼氏だったりする?」
「いやいやいや!」
まさかの問いかけに、ぼくは慌てて首を振りながら否定する。
「彼氏なんてとんでもない! 小鳥遊さんとは同じ高校のクラスメートで、まだ友達になったばかりの関係だから。それに小鳥遊さんと付き合うとか、正直恐れ多くて想像もできないし……」
とは言え、小鳥遊さんと付き合ってみたいという気持ちがまったくないわけでもないですが。
それはともかく。
ぼくの返答を聞いた鵜飼さんは、なにやら安堵したように「ほぅ」と呼気をこぼして、
「よかった。あの子、ちゃんと友達がいたのね……」
「ん? それってどういう意味? ひょっとして、今までずっと小鳥遊さんのことが心配だったとか?」
「えっ。う、うん。まあ……」
「けど、この間会った時は挨拶もしなかったよね? いや、それは小鳥遊さんも同じだけれどさ、本当に心配していたのなら、一言くらい声をかけそうなものだけど」
「だ、だってあたしは……!」
そこまで言いかけて、鵜飼さんは唐突に黙り込んでしまった。
どういう内容なのかは皆目わからないけれど、きっと口では言いづらい内容なのだろう。
それでも辛抱強く待っていると、ややあって気持ちを落ち着かせるように深呼吸を繰り返したのち、鵜飼さんは続きを口にした。
「だってあたしは、小鳥遊さんに嫌われているから……」
その返事を聞いて、ぼくは思わず「んん?」と眉を寄せてしまった。
「え、ちょっと待て。鵜飼さんは小鳥遊さんに嫌われていると思っているの? 逆じゃなくて?」
「……? どういう意味?」
「だから、逆に鵜飼さんが小鳥遊さんを嫌っているというか……」
「あたしが、小鳥遊さんを? ど、どうして!?」
よほど心外だったのか、鵜飼さんが憤慨したように声を荒げて腰を浮かせた。
「あたし、小鳥遊さんのことを嫌ったことなんて一度もないわよ!?」
「そ、そうだよね。それは今までの反応で十分にわかったよ、うん」
ということは、やっぱり小鳥遊さんの勘違いだったというわけだ。
でも偶然というか奇妙というべきか、どうやら鵜飼さんの方も小鳥遊さんから嫌われていると勘違いしていたらしい。
でも、どうしてこんな悲しいすれ違いが起きてしまったのだろう……?
「ねえ、鵜飼さん。昔、小鳥遊さんとなにがあったの……?」
今の雰囲気ならタイミング的にもいけるだろうと思って切り出したぼくの質問に、鵜飼さんは再び元の場所に腰を下ろして、
「……羽賀くんは、小鳥遊さんからどこまで話を聞いているの?」
と訊ね返してきた。
「こうしてあたしのところまで来るくらいだし、ちょっとは知っているのよね? たとえば、小学校の時のこととか……」
「あー。まあ……」
思わず顔を逸らす。鵜飼さんからしてみたらショッキングな内容かもしれないので、本当に話していいものかと判断に迷ったからだ。
でもそんなぼくに、鵜飼さんは真剣な眼差しを向けてきて言った。
「それ、詳しく聞かせてもらってもいい? あたし、知りたいの。あの時のことを、小鳥遊さんはどう思っていたのかを……」
「…………」
まっすぐ目を合わせてくる鵜飼さん。けど膝の上で組まれた手は小刻みに震えていた。
きっと本当は、小鳥遊さんからどう思われているのかを知るのが怖いのだろう。
そんな鵜飼さんに、小鳥遊さんから聞いた話をありのまま伝えていいのものかと逡巡しつつも、ぼくは結局そのまま話すことにした。
どのみちここではぐらしたところで、なにも事態は進展しないと思ったからだ。
そして──
「そう……。小鳥遊さんがそんなことを……」
ぼくの話を聞き終えて、鵜飼さんは困惑と動揺をない交ぜにした表情で呟いて、そのまま俯いてしまった。
たぶん、とてもショックを受けているのだろう。
まさか自分の発した「気持ち悪い」という一言で、小鳥遊さんが今日まで自責の念を抱くことになるとは思っていなかったから。
さすがにそれがきっかけでスマホ無しにはコミュニケーションが取れなくなってしまったとまでは言わなかったけれど、今の話だけでも鵜飼さんにとっては十分すぎるくらいに衝撃的だったようだ。
でも言い変えれば、それだけ小鳥遊さんのことをずっと気にしていたというなによりの証拠でもある。
だからこそというか、今の話を聞いてなおのこと心を痛めている様子の鵜飼さんを前にして、ぼくはどう声をかけたらいいかわからずにいた。
えっと、こういう時って、なにを言えばいいのだろう……? ただでさえ女の子と話し馴れているわけじゃないのに、対処の仕方が全然わからない! だれか助けて!
なんて内心狼狽えていた最中、鵜飼さんはゆっくり顔を上げて「ありがとう。話を聞かせてくれて」と悄然としながらも、無理に作ったような笑みを浮かべた。
「でも、そっか。てっきり、羽賀くんを通じて小鳥遊さんから恨み辛みでも聞かされるのかなって思っていたけれど、そうじゃなかったのね」
「うん。本当は事の真偽を確かめるために──鵜飼さんが小鳥遊さんのことをどう思っているのかを訊くためにここまで来たんだけど、もうその必要はないみたいだね」
「? 必要ないって?」
「だって鵜飼さん、どう見ても小鳥遊さんを嫌っているようには思えないし。昔、小鳥遊さんに『気持ち悪い』って言ったことがあるみたいだけど、それってなにかの間違いだったんじゃない?」
そう訊ねたぼくに、鵜飼さんはこくりと小さく頷いた。
「小鳥遊さんについ『気持ち悪い』って言ったのは本当だけど、小鳥遊さんに対して言ったわけじゃないの」
「じゃあ、なにに対する言葉だったの?」
「それは……その……」
と、なにやら言いづらそうに目を伏せる鵜飼さん。
そんな鵜飼さんの反応に「うん?」とぼくは眉をひそめて推察する。
鵜飼さんが言いづらそうにしているっていうことは、小鳥遊さんには聞かれたくない内容とかなのかな?
「もし秘密にしてほしいことなら安心して。小鳥遊さんにはもちろん、だれにも話さないから」
「……ううん。むしろ小鳥遊さんに伝えてほしいかも。言ったらもう二度と会ってくれないどころか、一生憎まれそうな気がするけれど」
「一生憎まれそうって、小鳥遊さんに?」
超が付くほどコミュ障だけど、超が付くほど温和でもある小鳥遊さんが?
「う~ん。それって考えすぎじゃないかな? あの小鳥遊さんが人を憎むなんて、全然想像できないけれど。少なくとも、怒ったところなんて一度も見たことがないし」
「一度も……?」
「うん。小鳥遊さんとは知り合って間もないけれど、そんなぼくでも断言していいくらいだよ。小鳥遊さんは人を憎めるほど器用な子じゃないって」
そもそも人に憎悪を向けられるような子だったら最初から鵜飼さんに対してもそうしていたはずだろうし、今のような人見知りにもならなかったはずだ。
「けど、じゃあそんな子が怒るほどの内容だとしたらどう……?」
「小鳥遊さんが怒るほどって……」
今でも想像はできないけれど、もしもそれが現実に起きたとしたら。もはや驚天動地どころかの騒ぎじゃない。天地がひっくり返るほどの異常事態だ。
それほどまでのとんでもない内容って、一体どんな……?
いつしか、重苦しい沈黙が流れていた。
気が付かない間に握りしめていた拳から、じわりと汗が滲み出る。
「一体なにを言うつもりなのかはわからないけれど……」
そう前置きしつつ、間を置くように喉をごくりと鳴らしたあと、言葉を継ぐ。
「ちゃんと聞かせてもらってもいいかな? でないと、こっちもどう対応したらいいのかわからないから」
ぼくの言葉に、鵜飼さんは「わかった……」と重々しく首肯して、気持ちを落ち着かせるように一度大きく息を吸い込んだ。
そして──
「実はあたし…………………………からあげが大っっっ嫌いなのっ!!」
思わず、ずっこけそうになった。
勿体付けてまでなにを言うかと思ったら、からあげが嫌いって……。
いや待て。一見些事のようにも思えるけれど、本人にしてみたら重大な案件なのかもしれない。
ここは変に先入観を持たないで、じっくり話を聞いてみることにしよう。
「か、からあげが嫌いって、どの程度?」
「小さい頃から食べるのはもちろん、からあげを見るのも匂いを嗅ぐのも嫌だし、からあげの話を聞くのも苦痛なくらい……」
「それは相当だね……。でも、お昼休みの時とか大変じゃない? 周りの人のお弁当から漂ってくるからあげの香りとか」
「お昼の時は友達と一緒に外で食べているから平気。その友達はあたしの嫌い食べ物を知っているから、目の前でからあげを食べたりもしないし」
「じゃあ、小学館の給食の時とかはどうしていたの?」
「……からあげが出てくる日はいつも親に頼んで休ませてもらっていたから。からあげの匂いがする教室なんて、一秒たりともいたくないし。ていうか絶対気分が悪くなるだけだから、どのみち学校に行っても仕方がないし……」
思っていた以上に、筋金入りのからあげ嫌いだった。
ここまで徹底されると、こっちも迂闊にからあげの話なんてできそうにないな……。
とはいえ、小鳥遊さんとからあげは切っても切れない関係だし、からあげが原因で仲違いしたのだとしたら、なおさら避けては通れない話題だ。話さないわけにもいかない。
それに鵜飼さんが大のからあげ嫌いだったとしても、それだけで小鳥遊さんが怒るとは到底思えない。
小鳥遊さんにだって食べ物の好き嫌いくらいはあるはずだろうし、まして他人の好き嫌いにとやかく口出しするような人でもない。まあ大のからあげ好きだから、落ち込みはするだろうけども。
と。
そこまで思慮したところで、ぼくはようやく事の真意が見えてきた。
「あ、そういうことか。鵜飼さんが小鳥遊さんに言った『気持ち悪い』って、もしかしてからあげに対する言葉だったとか?」
というぼくの問いかけに、果たして鵜飼さんはピクっと図星を突かれたように眉を微動させたあと、重々にこくりと頷いた。
「うん。実はそうなの……。小鳥遊さんには勘違いされてしまったみたいだけど」
「それならそうと本人に言えばよかったのに……。ただの誤解だとわかっていたら、小鳥遊さんもあそこまで怯えたりはしなかったはずだよ?」
「……でも、相手の好きなものを嫌いって言ってしまったのよ? それにあの子、あたしが『気持ち悪い』って言った日からすごく大人しくなっちゃって……。あたしに話しかけてくれた時はあんなにはきはきと明るい感じだったのに……」
「他に、小鳥遊さんと仲のいいクラスメートとかいなかったの?」
「転校初日の時は、色んな子たちがたくさん話しかけていたわよ。小鳥遊さん、すごく綺麗だったから。でも話しかけても一言二言しか返さないし、教室でもだれとも話さずに一人でいることも多かったから、いつしか周りの子も小鳥遊さんを空気みたいに扱うようになっちゃって。そんな小鳥遊さんを見ていたら、あたしもだんだんと声をかけづらくなっちゃって、結局そのまま小学校を卒業しちゃって……」
それで、そのまま中学でも離れ離れになってしまったと。
「じゃあそれならそれで、小鳥遊の連絡先をだれかに聞いてみるとか、どこの中学校に行ったとか調べて探そうとはしなかったの?」
「だれも小鳥遊さんの連絡先なんて知らなかったから……。どこの中学に行ったかは風の噂程度で知ってはいたけれど、今さらどの面下げて会いに行けばいいかわからなかったし……」
うーむ。気持ちはわからなくもないから、なんとも言えないなあ……。
「だから、いっそのこと高校は小鳥遊さんと会うこともないところに……市内で一番離れたところにある高校を選んだのに、まさかたまたま中心街に遊びに行った日に小鳥遊さんとばったり会っちゃうなんて、思ってもみなかった……」
あー。だからこんな名古屋の外れにある高校を選んだのかー。
有名な女子高と聞いていただけに、田舎のような風景が広がっているのを目にした時は少しばかり驚いたものだ。
まあ、農業や畜産にも力を入れている高校らしいので、逆にこういう田舎にある方が自然なのかもしれないけれど。
「でも一番驚いたのは、あの小鳥遊さんが楽しそうに羽賀くんと一緒に歩いているところを見た時かな。小鳥遊さんが笑っているところなんて、ほんと転校してきたからちょっとくらいしか見られなかったから……」
「え? 小鳥遊さんって、昔はほとんど笑わなかったの?」
「うん。笑ったとしてもほんのちょっと程度。……ひょっとして、今もそうなの?」
「あー、まあ……」
曖昧に言葉を濁しつつも、肯定するぼく。ぼくの前ではよく笑う方だけど、それも二人きりでいる時だけだし。
そんなぼくの反応を見て、鵜飼さんはいっそう落ち込んだ声音で「そう……」と呟いた。
「中学でもそれとなく噂っていうか、いつも一人でいることが多いって聞いていたから、高校に入学したらたくさん友達ができてくれたらいいなって思っていたけれど、今も一人ぼっちでいることが多いのね……」
「あ、いや、確かに一人でいることは多いけど、今はぼくといる時間も増えたから!」
「でもそれって、羽賀くんしか話せる人がいないってことじゃあ……」
「と、友達は数じゃないから! それにこれから増えるかもしれないし!」
小鳥遊さんも別に友達を欲しがってないわけじゃないと思うから、まだまだ展望はあるはず! たぶん! きっと!
「そっか……そうよね。ごめんなさい。羽賀くんみたいなステキな友達がいるのに、まるで友達のいない小鳥遊さんがかわいそうみたいに言っちゃって……」
──でもやっぱり、小鳥遊さんがそんな風になっちゃった原因はあたしにあるのよね。
鵜飼さんの幽かな呟きがぼくの耳を打つ。心まで穿つように。
いつしか、夕日で照らされていた待合室の中が半分ほど薄暗くなっていた。
それまで校舎の方から響いていた女生徒たちの声もだんだんと鳴りを潜め、今や時折発せられる運動部らしきかけ声くらいしか聞こえてこない。
部活で残っていた生徒たちも、徐々に帰り始めているのだろう。
そんな先ほどよりも増して静まり返った待合室の中で、ぼくは何度も口を開きかけてはすぐに閉じるという行為を繰り返していた。
懺悔に近しい鵜飼さんの独白を聞いて、どう返事をすればいいのかと悩んでしまったのだ。
それでも必死に頭の中の語彙を引っ張り出しながら、ぼくなりに言葉を選んで鵜飼さんに訊ねてみる。
「……鵜飼さんはさ、この先どうしたいと思っているの? 当事者でもないから、なにがいいか悪いかなんてわからないし、ぼくがどうこう言える立場でもないけれど、少なくともこのままでいいって思っているわけじゃないんだよね?」
「うん……」
「じゃあ、どうしたいの?」
「…………………………」
ぼくの問いかけに、鵜飼さんは顔を伏せたままスカートの裾をギュッと手繰り寄せるに力強く握りしめた。
そして、しばらく時が経ったあと。
「……………………小鳥遊さんに謝りたい……」
水滴を垂らしたようなひっそりとした呟きが、鵜飼さんの口からこぼれる。
「今さらかもしれないけれど、ちゃんと小鳥遊さんに謝りたい。ちゃんと会って、あの時は本当にごめんなさいって心から謝りたい……」
「だったら──」
「でも、怖い。すごく怖いの……」
ぼくの声をさえぎって、鵜飼さんは心情を吐露する。
依然としてスカートの裾を握りしめたままの手を、ぶるぶると震わせながら。
「だってあたし、取り返しのつかないことをしちゃったから……。もしかしたら、この先ずっと心に残るような深い傷を付けちゃったのかもしれない。そう考えたら、すごく怖くて仕方がないの……。
もしもあたしのせいで小鳥遊さんの人生を台無しにしちゃったのだとしたら、どれだけ謝っても許されるような罪じゃないもの。その罪を一生背負わないといけないかもしれないと思ったら、怖くて苦しくてどうしようもないのよ……」
言いながら、鵜飼さんは目尻に涙を溜めて瞼をぎゅっと閉じた。
その顔はぼくの目から見ても後悔に満ちていて、見ているこっちまで苦しくなってきそうだった。
「でも小鳥遊さんは、あたしなんかよりもずっと苦しい思いをしてきたに違いないのよね。そんなあたしが、小鳥遊さんに謝るどころか、会う資格すらあるのかな……」
「……………………」
資格があるかどうかなんて、ぼくにはわからない。
結局のところ、会ってくれるかどうかは小鳥遊さん次第だし、鵜飼さんの謝罪を受け入れるどうかも小鳥遊さん次第だ。
謝ったらそれで全部丸く収まるなんて安易なことは言えないし、そんな簡単に済むようなことでもないはずだ。
二人からしてみたら、とても重大な問題なのだから。
そんな二人に、所詮部外者でしかないぼくが言えることなんてなにもないかもしれない。口を挟むことすらおこがましいことなのかもしれない。
それでも──
「会ってみようよ、小鳥遊さんに」
思いきって言ったぼくに、鵜飼さんは頬を濡らしたままゆっくり顔を上げた。
「会ってくれるかどうかはちゃんと確認を取らないとわからないけれど、小鳥遊さんも鵜飼さんと話をしてみたいっていう気持ちはあると思うんだ」
「あたしと、話をしてみたい……?」
「うん。と言っても、あくまでぼくの想像だけどね。でも小鳥遊さん自身、このままじゃよくないって考えているのは確かだと思うよ。少なくとも、今後もこうやってお互いを気にしながらもずっと避けて生きていくよりは、一度きちんと話をしてみた方がいいんじゃないかな」
お互い、過去のしがらみから解放されるためにも。
最後にそう話を締めたぼくに、鵜飼さんはしばらく考え込むように──逡巡するように肩をすぼめて視線を落とした。
ややあって「羽賀くん……」と小さく呟いたあと、鵜飼さんは窺うように上目遣いでぼくを見て、こう続けた。
「小鳥遊さんに伝えてもらってもいいかな。会って話がしてみたいって」
「もちろん。任せてよ」
二つ返事で快諾したぼくに、鵜飼さんはほんのわずかながら笑みを見せた。
○ ○
あくる日の昼休み。
例によっていつもの空き教室を訪れたぼくは、向かい合わせで小鳥遊さんと昼食を取っていた。
で。
いきなり鵜飼さんに会いに行った時の話をするのもどうかと思ったので、まずはワンクッションというか、ひとまず雑談から始めてみたのだけれども。
「──それで今日の朝はうっかり遅刻しそうになってさ。慌てていたからタンスに小指をぶつけるし、朝食の味噌汁をこぼすし、ほんと散々な目に遭ったよ。まあ全部自分のせいなんだけどね。あはは」
『そうですか』
「う、うん……」
「……………………………………」
「……………………………………」
こんな感じで、全然会話が弾まなかった。
というか、ほとんどぼくしか喋っていない状態だった。
いつもならどんな話題でも興味深そうにこくこくと頷いて、時に笑顔を覗かせながらスマホで返事をしてくれていたのに、今は簡単な相槌しか打ってくれない。
たぶん、未だにこの間のことを気にしているのだろう。
鵜飼さんと偶然鉢合わせしてしまった際、まるで赤の他人のように素通りされてしまったことを。
まあその鵜飼さんも実は小鳥遊さんのことをずっと気にしていたというか、気に病んでいたくらいなのだけれど、この重苦しい雰囲気の中でそんな話をしていいのかと躊躇いを覚えてしまう。
そのせいか、今食べている焼きそばパンもどことなく味気なく感じられた。
昨日も小鳥遊さんを前にしながら会話という会話もないままパンを食べていたけれど、心なしか今日はその時よりも味がしない気がする。いつ鵜飼さんの話をしようかとさっきからタイミングを見計らっているせいもあると思うけれども。
数日前までは、小鳥遊さんと一緒にからあげ話で盛り上がっていたのになあ。今ではまるで遠い過去の出来事のようだ。
ちなみに、今日も小鳥遊さんのお弁当箱には当然のごとくからあげが入っているのだけれど、それも黙々と食すだけで饒舌に語り出す気配は微塵も感じられない。
しかも終始そんな感じなので、以前の時のように「ぼくにもちょうだい」なんて言える空気じゃなかった。
まずいな……。
これだと昨日と変わらないというか、ろくに会話もないままお昼休みが終わってしまう。
いや、それどころかこの先もずっとこんな状態が続いてしまうかもしれない。
もしも本当にそうなれば、いつしかだんだんとお互いに気まずくなって、こうして二人きりでお昼を過ごすこともなくなってしまいそうだ。
それはダメだ。それだけはなにがなんでも阻止しなければ。
だって今ここで小鳥遊さんと離れ離れになってしまったら、きっと彼女の心に暗い影を落としてしまう──誤解だったとはいえ、鵜飼さんが与えたトラウマよりも深い傷を刻み込んでしまうことになってしまう。
そんなの、絶対に見過ごしてたまるものか。
鵜飼さんとの約束を守るためにも。
そしてなにより、小鳥遊さんの友達として恥じない自分でいるためにも。
「小鳥遊さん」
さっきまで口にしていたパンを一度机の上に置いて、ぼくは厳かに口を開く。
そんなぼくの挙動にいつもと違う雰囲気を感じ取ったのか、小鳥遊さんも真似るように箸をいったん置いたあと、おそるおそるといった態でこっちを見た。
ぼくも視線を合わせる。まっすぐ気持ちを乗せるように。
「ご飯を食べ終えてからでいいから、ぼくの話を聞いてもらってもいいかな?」
『そうですか……。鵜飼さんとそんなことが……』
ぼくの話を聞き終えたあと。
小鳥遊さんはなんとも言えない複雑な表情を浮かべながら、スマホでそう応えた。
昨日の出来事をありのまま話している間、小鳥遊さんは時折驚いたように目を見開いたり、悲しそうに顔を伏せたり、様々なリアクションを見せていた。
おそらく、小鳥遊さんも知らなかった鵜飼さんの心情を知って、色々な感情が去来しているのだろう。
そうして、少しほとぼりが冷めるのを待ったあと、ぼくは単刀直入に言った。
「小鳥遊さん、どうかな? 鵜飼さんと会ってみる気はない?」
「……………………」
ぼくの言葉に、小鳥遊さんは戸惑うように視線を右往左往させたあと、そのまま黙り込んでしまった。
きっと今ごろ、目まぐるしく頭の中を巡らせながら答えを模索しているのだろう。
なので、返答を急がせるような真似はせず、ただ静かに反応を待ったあと、やがて小鳥遊さんはどことなくたどたどしい手付きで文字を打ち始めた。
そして、返ってきた文章は──
『怖い、です……』
という一言だった。
怖い、か……。
なんとなく予想はしていた返答だったけれど、こうして面と向かってみると、なかなかにきついものがあるなあ。
改めて高い壁を感じるというか。
本当にこんな調子で鵜飼さんに会わせられるのか。そもそも会わせていいものなのか、とか。
そういう色々な思考が頭を過っては、ぼくの決心を鈍らせる。
いや、迷っちゃだめだ。ここで自分の意志を曲げたら、絶対後悔することになる。
だからと言って小鳥遊さんを追い詰めるようなことはしたくないし、あくまでもソフトにいくことを心がけよう。
「……そっか。そりゃそうだよね。いきなり会うとなったら怖いよね」
まずはそんな風に同調から始めつつ、ぼくは言葉を重ねる。
「でもさ、それは鵜飼さんも同じだってことだけはわかってほしいんだ」
そこまで言って、しばらく反応を待つ。
すると小鳥遊さんは、ゆっくり窺うように眼差しを上げて、
『鵜飼さんも、私と同じ……?』
とスマホでオウム返しに訊ねてきた。
「うん。鵜飼さん、小鳥遊さんにひどいことをしちゃったってすごく後悔していたよ。自分の不用意な発言で、小鳥遊さんを傷付けてしまったって。だから、許されるならちゃんと会って謝りたいって」
「……………………」
「もちろん、会うは会わないは小鳥遊さんの自由だから無理強いはできないし、色々あって鵜飼さんのことが怖いっていう気持ちもわからなくもないから、これ以上はもうなにも言わないよ。けど少しでも鵜飼さんのことを想うなら、ほんのちょっとだけ……電話でもいいから話をしてくれないかな?」
それでも無理なら、せめてメールだけもいいからさ。
そう言い終えて、ぼくは小鳥遊さんの顔をじっと見る。
今のぼくにできるありったけの誠意を込めて。
果たして小鳥遊さんは、表情こそ依然として戸惑いに満ちながらも、それまでずっと握りしめていたスマホをそっと机の上に置いて、おもむろに瞑目した。
それから気持ちを落ち着かせるように何度も深呼吸を繰り返したあと、小鳥遊さんはゆっくり瞼を開けて、楚々とした動作でスマホを手に取った。
『羽賀くんの言う通り、鵜飼さんのことは怖いです。事情を聞いた今でも、まともに顔を合わせられる自信はありません』
静かに、小鳥遊さんがスマホで文字を打ち始める。
その様子を、ぼくは黙って見つめる。
『でも、それだけが理由ではないんです。本当に怖いのは……怖いと感じているのは私自身なんです』
「小鳥遊さん自身……?」
ぼくの疑問を含んだ相槌に、小鳥遊さんはこくりと小さく頷いて先を綴る。
『鵜飼さんのお気持ちを知って、改めて自分の無知と無神経さを痛感させられました。まさか鵜飼さんがそこまでからあげを嫌っていたなんて……もっと相手のことを気遣っていれたら、こんなことにはならなかったのかもしれないのに。私がからあげの話を一方的にしてしまったばかりに、鵜飼さんに大変失礼な真似をしてしまいました……』
「けどそれは事故みたいなものというか、悪気があってしたわけじゃないし……」
『たとえ悪気はなくとも、相手に不快な思いをさせたのは事実ですから。だから本当に謝るべきは私の方です。鵜飼さんはなにも悪くありません』
いかにも小鳥遊さんらしいというか、謹厳実直な言葉だった。
「じゃあ、鵜飼さんに会いたいっていう気持ちはあるの?」
『はい。でも、本当に謝って済む問題なのでしょうか……』
「ん? 許してもらえるかどうかってこと? そのへんは心配いらないと思うよ。向こうだって謝るつもりでいるみたいだし、ずっと小鳥遊さんのことを気にかけていたみたいだったから」
『そこも不安ではあるのですが、それだけではなくて……本当に一度会って話すだけで、お互いに過去の出来事を水に流すことができるのかなって。またなにかの偶然で私とばったり会ってしまった際に、過去の嫌な記憶が蘇ってしまうんじゃないかって思うと、すごく怖いんです……』
ああ──そういうことか。
小鳥遊さんが一番恐れているのは、鵜飼さんのことでも、まして彼女と和解できるかどうかじゃなくて。
鵜飼さんの記憶に、小鳥遊さんそのものをトラウマとして植え付けてしまったかもしれないという点の方だったのか。
こうして考えてみると、本当にお互いのことを気にしているのだなっていうのがよくわかる。
けれどそれが災いしてか、小鳥遊さんも鵜飼さんも罪悪感という鎖で己を縛り付けてしまっている。
相手を慮るあまり、結果的に自分自身を深く傷付けてしまっている。
ハリネズミのジレンマという心理学用語があったりするけれど、ある意味この二人もその状態なのかもしれない。
お互いの針が怖いわけではなくて、自分の針がだれかを傷付けることを怖がっているという意味では。
それでも。
たとえ自分の針に恐怖を抱いていたとしても、寄り添わないとわからない温もりもあると思うから。
だから小鳥遊さんには、その温もりを知ってもらいたい。
だれも彼もが傷付け合うばかりじゃないと、怖がりの小鳥遊さんに知ってもらいたい。
そんな小鳥遊さんのために、ぼくができることは──
「だったら嫌な記憶なんて掠れてしまうくらい、楽しい思い出を作っちゃおうよ」
──友達の背中をそっと押すことだけだ。
「小鳥遊さんも鵜飼さんも会って謝ることばかり考えているみたいだけれど、そうじゃなくてさ、その先を考えてみるのもありなんじゃないかな? それこそ、これを機に今度こそ仲良くなってみようとかさ」
ぼくの提案がよほど意外だったのか、小鳥遊さんは目を丸くしたまま、
『仲良く……鵜飼さんと私が、ですか?』
と訊き返してきた。
「うん。だって元は勘違いから始まったようなものだし、誤解さえなければ今ごろ友達にもなれていたと思うんだ。二人とも、別に苦手なタイプってわけでもなさそうだし」
『ですが、鵜飼さんと一体なにを話せばいいのか……』
「なんでもいいと思うよ。お互いのことをよく知るためにも、まずは自分の好きなものとか趣味の話をしてみるとかさ。友達になるきっかけなんて、だいたいは他愛ないお喋りから始めるものだと思うし」
『私の好きなものなんて、からあげくらいしかないので……』
「か、からあげ以外には?」
『料理や読書もありますが、ほとんどがからあげ関連です……』
おおう……見事なまでのからあげ尽くし……。
これでは、鵜飼さんが会話に困ってしまうな……。
とはいえ、からあげ無しで会話を勧めるというのも、小鳥遊さんにはちょっと酷かも。
ぼくと初めて会った時も、からあげがあったからこそこうして仲良くなれたようなものだし。
まして相手がコミュ障のきっかけとも言える鵜飼さんともなると、会話そのものが成立するどうかも怪しいところだ。
「う~ん。あ、それならいっそのこと、からあげのことを好きになってもらうっていうのはどう?」
本当に単なる思いつきで発した言葉に、小鳥遊さんは唖然とした面持ちでぼくを見た。
「いや、ほら、小鳥遊さん、前に言っていたでしょ? からあげは嫌なことや辛いことを吹き飛ばす最高の食べ物だって。それなら、からあげで鵜飼さんとの関係も楽しい思い出で塗り替えられるんじゃないかなって思ってさ。
それにこれは鵜飼さんから聞いた話なんだけど、からあげが食べられないようになったのは八年くらい前の出来事で、それまでは普通に食べられたみたいなんだ。
その八年前の出来事っていうのが、クラスの友達に招待されて行った誕生日パーティーの時で、そこで出たからあげがすごく油っぽくて、それが山のように積んであったんだって。
しかもその時は胃腸の調子がよくなかったみたいで、みんなが美味しそうにからあげを食べるのに合わせて自分も無理して食べていたら、うっかりテーブルの上で吐いちゃったらしくてさ。それがトラウマでからあげはおろか、揚げ物や油っこい肉料理もダメになっちゃったみたい。あ、でも、肉全般ダメってわけでもなくて、鶏のささみとかソーセージくらいなら平気なんだって。
だからっていうか、小鳥遊さんの豊富なからあげ知識なら、鵜飼さんでも食べられるからあげを見つけられたりできないかなー、なんて……」
とは言いつつ、自分でもだんだん自信がなくなってきたせいもあって、最後の方はしどろもどろになってしまった。
あれだけ威勢のいいことを言っておきながら、この体たらく。しかも長々と話しておいて結局は人任せというオチ付き。
なんだかもう、自分の情けなさに涙が出てきそう……。
そんな頼りないぼくを前にしてなのか、小鳥遊さんは依然としてフリーズしたまま、ピクリとも動かない。
どうしよう……呆れられちゃったかもしれないと内心ビクビクしていると、不意に小鳥遊さんがスマホを操作して、
『今の話は本当でしょうか?』
と唐突に質問してきた。
「え? あ、うん。ほ、本当だけど……?」
そう口ごもりながら返すと、小鳥遊さんが再びスマホをいじる。
それまで意気消沈としていたのが嘘のように、活力に満ちた光を瞳に宿して。
『でしたら、なんとかなるかもしれません』