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石と誰かの物語

ピンクサファイヤの涙

作者: 河 美子

石と誰かの物語です

 いつも息子のソックス、ユニフォームを洗うたびに汚れがすさまじいので洗濯機がジャラジャラと変な音を立てる。もう野球はこの高校生活で終わりにしてほしいと、ついこの前まで思っていた。

 でも、昨夜、玄関に座り込んでいた息子を見たときは泣けてたまらなかった。

 そう、みんなのあこがれの県大会も甲子園も夢のまた夢になってしまった。

「昇二、ご飯できてるよ」

「うん、いらない」

「え? どうして。具合悪い?」

「さっきみんなとタコ焼き食べたから。もう少し後でご飯食べる」

「そう、吉田屋で寄り道か」

「うん、なんかまっすぐ帰る気になれないって良たちも言うから」

「そんなときもあるよね。お風呂は?」

「後にする」

 これほど元気がないとすごく心配になる。

 監督からはショックが大きいから様子を見ていてくれとメールが来ていた。

 監督だって泣きたいのは同じだろうな。

 訳のわからないウイルスになぜもこんなにダメージを受けるのか。

 はじめはよその国では大変そうだというぐらいの認識しかなかった。

 それが今では近所の店も閉まり、夫の会社は思い切り経営が傾いてしまい、先日まではボーナスが上がると思っていたが今ではボーナスは消えそうで、無職になるかもという不安も出てきた。

「母さん、一人十万円は出るそうだからうちは昇二と沙織と僕たちで40万円入るよ」

「それは助かるわ。沙織は大学の授業料はいるし」

「マイホームは先のことになったな」

「いいわよ、仕方ないわ。同級生の尾崎さんは建築がストップして大変みたいよ」

「それから、沙織の授業料だがちょっと厳しいな」

「うん、それはどうにかなる。私の掛けてた保険がちょうど満期なの。沙織にも聞かれたわ。うちは大丈夫かって。友達は退学する人もいるみたいよ」

「かわいそうに」

「それで、沙織の家庭教師のバイトももうしばらくはいけないし。昇二の進学についてもちょっと不安になってきたわ。野球をするつもりで先生から推薦されていたところだってこうなったらどうなるか」

 先ほどの息子の様子を話すと夫も心配だなとつぶやいた。

 沙織は大学二年生。家から通っているから下宿している友達から比べると部屋代、生活費がかからないから助かっているが、親友のサナちゃんは大阪からきているので、本当に大変だそう。彼女のお父さんはタクシーの運転手さん。あちらこちらでタクシー業界の不況を伝える記事が出ている。お母さんは同僚と家出して離婚したそうだ。サナちゃんが4歳のときに。それから男手一人で頑張ってきたのに。今回のことはこの親子の生活にも暗い影を落としそうだ。

 肩を落としながら食卓に座る昇二。二階から降りてきた沙織、黙って座る夫。こんな日が来るなんていつものやかましい食卓がまるで懺悔の部屋みたい。

「さあさあ、お鍋よ。キムチ鍋」

 やたらと明るい声を出すけど誰も乗ってこない。

「とにかく食べて。明日は明日の風が吹く」

「そういわれてもなあ、野球も試合すらないし。プロ野球も見れないし」

「私の好きなテニスもないし」

 沙織もふくれっ面。

「そうだ、お父さん、今日は結婚記念日よ」

「ああ、そうだったあ。忘れてたよ」

「お母さん、何年?」

「二十三年」

「あ、もうすぐ銀婚式よ」

 銀婚式か、若い時は大げんかもしたけど、今ではまるで空気のような二人。

「その時には家族で旅行もできるかな」

「ああ、その頃は父さんもどこかで働けるかな」

「え? お父さん退職するの?」

「いや、ちょっと打診されちゃって。いわゆる肩たたき」

 沙織は泣き出し、昇二は箸を持ったまま呆然としてる。

「大丈夫さ、うちは今は困るって必死に話したから」

 のどがカラカラになって言葉が出ない。

「あなた、そんなこと聞いてないわ」

「まあ、はっきりした話ではないから」

「そんな」

「いいから食べよう」

 キムチ鍋はグツグツ煮えすぎている。

 食が進まない四人。

 どうしよう。こんな日が来るなんて。

 家の建築どころではない。

 来年は大学生が二人。学費はどうする。

 私は暢気にランチなどと言ってられない。働き口を探さないと。四九歳の私をどこが雇ってくれるだろうか。免許は何も持ってない。貯金はコツコツ貯めてやっと頭金ぐらいになった。だが、これが消えていく。

昇二の入学金、沙織と二人の授業料。絶対に働かないと無理だ。

 たっぷり作ったキムチ鍋がそのまま残った。

 誰も物言わぬ食卓からみんな消えた。それぞれの部屋に。

 ケータイが鳴る。

「もしもし」

「あ、お母さん」

 私の母、後期高齢者。

「あのね、美味しい晩柑が手に入ったから送ったわ。みんなで食べて」

「お母さん・・・」

 言葉が出ない。ぽろぽろと涙がこぼれる。母の声、心にしみる。

「どうしたの、何かあったの?」

「ううん、何にも。ちょっとストレスたまってるから」

「紗英ちゃん、箱の中にお小遣い入れてるわ。結婚記念日でしょう。何か買いなさい」

「お母さん・・・」

 また泣けてきた。きっと一万円が折りたたまれてポチ袋に入ってる。今まで軽く受け取っていたお小遣い。母の気持ちがうれしい。

「紗英ちゃん、今不況だけど大丈夫?」

「うんうん。心配ないわ」

 本当は泣くほど心配。

「自粛が解除になったら帰っておいで」

「うん、行くわ」

 母さんに抱きついてみたい。膝に突っ伏して泣いてみたい。

 

 あれから二週間、自粛は解除。夫は会社に行ってる。沙織はマスクしてバイトに。昇二はストレッチして

る。私は近所の工場でマスク作りをしている。夫は退職にはならなかったがいざというときに一馬力ではだめだと思ったから。

 疲れて帰ってきても、みんなマスクの向こうの顔は笑ってる。

「お母さん、これ」

「え?」

 夫が小さい小箱を渡してくれた。

「いや、結婚記念日のプレゼント」

「いいのに、今はそんなこと」

「高いものは買えなかった」

 子供たちがのぞき込む。ピンクサファイヤのイヤリング。

「わ、素敵」

 沙織がつけてみてっと催促する。

 きらきら光るピンクサファイヤ。弱きものを守るそうな。

「似合うよ」

「そう?」

「マスクしてても君とわかる」

 そうね、そういうことね。

 夏休みには母さんに見せよう。


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